nemurihime-hallow good bye-
竹内緋色
Start On Monday
Start On Monday
「君をずっと待ってたよ。君が自分で扉を開くのを。」
目の前の男子、フロイトが言った。
私は彼に話しかけた。
彼は私が要件を言おうとする前に、そう言った。
私は気味の悪いものを見るような顔をしていただろう。彼はそんな私の表情に構わず、分厚いレンズの眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
微笑んで、彼は私に一冊の手帳を渡した。
「ここに書いてあるところに行くんだ。そうすれば、君の望んでいることは叶うから。」
うさんくせえな、と私は思った。
フロイトとあだ名されている少年と私が話したのは朝の授業前の数分間だった。
「ねえ。楽夢。一限目の前、フロイト博士と何を話していたの?」
友人の今日子は私にそう話しかけた。
今は一限目の終わりの休み時間である。
この高校は無駄にタイトで、一限目と二限目の間の休み時間が五分しかない。この間に教室を移動しなければならないクラスは悲鳴を上げて、移動する。特に体育が二限目にあるクラスは、眼を血走らせて、廊下を走っている。なぜなら、体育教師は怖いからだ。
「形而上哲学について。」
私は今日子にいい加減な嘘を吐く。
「うわっ。難しそうね。」
今日子は苦虫を下で転がしたような顔をする。
「フロイト先生相手に、子どもっぽい話はできないでしょ。」
私は今日子にそう言った。
フロイトとあだ名されている少年の本名を私は知らない。恐らくフロイトが本名ではないと思われるが、私は知らない。きっと、出席をとるときに、名前が読み上げられているはずだろうが、どの名前がフロイトの本名なのか判別できない。もっとも、判別するためには、クラスの全員の名前を憶えなければなるまい。
「ふうん。でも、楽夢も変わってるわよね。フロイトと話そうだなんて。」
フロイトという少年は、周囲から避けられていた。周囲の人間が彼を避けているわけではなく、彼が周囲から距離をとっているのが現状である。また、少々厄介な特性を持っているためか、周囲も率先して彼と関わろうとはしない。せいぜい、彼を周囲が利用する程度である。
「まあ、今の状況じゃ、私たちもフロイトと一緒じゃない?」
私は今日子に言った。
私たちは現在、二年生である。二年生の時、クラス替えがある。そのクラス替えは文系と理系に分かれており、私たちは文系のクラスになった。
文系のクラスにほとんど知り合いはいなかった。
入学時、入試の成績により、私たちはクラス分けされていた。私と今日子は四組と五組だったけど、親交があった。四組と五組は教室が隣の同士で、合同で授業することが多かったためである。しかし、他の組、一組、二組、三組、そして、特進クラスの六組とは教室が遠く離れていたため、直接関わることはなかった。
成績順に、普通科は低い方から一組、二組と続いていた。
特進クラスの六組は科がそもそも違うため、この法則に依らないが、中学生の時から所謂天才と呼ばれていた子たちが入っているので、序列は一から六までで、小さい方から順に、数字が大きくなるにつれて、頭が良くなるという構図ができていた。
四、五組の子はほとんどが理系クラスに行った。
四、五組は理系と文系を自由に選ぶことができた。
しかし、一から三組までは、そうはいかなかった。
一から三組は数学の授業を合同でやっていて、成績によって、AからCまで分けられていた。成績の優秀なAのクラスに入っていないと、二年次から、理系には進めなかったのである。
文系を選んだ私たちは、親交の全くない子たちの海に投げ出されたのだった。
フロイトという少年は、一年の時、一組だったという。そして、数学でAクラスに入っていたにも関わらず、文系に来たという変人であった。
まあ、その点では、私と今日子も、フロイトと同一視されているのだが。
授業開始のチャイムが鳴った。
ああ、もう短いよね、休み時間、と今日子はぼやきながら、自分の机に渋々戻る。
会話に出てきたフロイトの様子が気になったので、私はフロイトの様子をそっと見た。
一人で文庫本を読んでいた。
休み時間、誰とも会話せずに、一人で本を黙読している。
それが、彼のいつもの様子であった。
午後からの授業はつらい、とみんなが口々に言う。それもそのはずだ。なんせ、昼から三時限も授業がある。一日通算七限。一コマ五十分の授業+十分間の中間休み(一限と二限の間を除く)。
五限目。昼飯を食べたとことこの授業。胃に血液が行ってしまい、脳に血液が運ばれず、居眠りをする生徒が多発する時間である。
そして、月曜日である今日は、その四限目が現代文である。
この現代文の先生というのが、いつもニコニコしている太った女性で、授業もかなり緩い。
よって、クラスのほぼ全員が、四月の心地よい、春眠を誘う陽気の中、机の上に頭を置いて、撃沈している。
私は辺りを見渡す。
どうも、今起きているのは、フロイトと私だけらしい。
そういえば、と私はあることに気が付き、記憶を探る。
フロイトが居眠りをしているところを見たことがない。
私と同じなのだろうか。
『眠れない』のだろうか。
しかし、そんなことはないだろう、と私は考え直す。フロイトと同じクラスになって、まだ一週間しか経っていない。答えを出すには、まだ早急だろう。
では、どうしてフロイトは私が要件を切り出す前に、「要件は分かっている」みたいなことを言ったのだろうか。
答え。
フロイトは変人である。
それゆえに、変人である。
私はフロイトに渡された手帳を見る。
まだ、中身を開けてはいない。
別にフロイトから、家に帰る前に開けてはならない、と指示をされているわけではない。
しかし、なんとなくはばかられた。
昔話で、よく、箱の中身を帰るまで開けてはいけない、みたいなことを言っているせいだろう。
ママと一緒に見よう、と私は思った。
バイバイ。
今日子はと私は手を振りあい、別れる。
時は放課後。
一日の苦行にほっと溜息をついて、身体をだらしなく椅子にもたれかけさせている生徒が大半である。
そして、私もその一人だ。
電車までまだまだ時間がある。三十分はのんびりとしていられそうだ。
それに比べ、今日子は、授業が終わり、ホームルームも終わり、クラスの半分の生徒が強制的に労働させられる清掃が終わると、カバンを持ち、すぐさま教室を出る。
部活へ行ったのだった。
バトミントン部に入っているらしいが、私とはなんの関係も無い。よって、興味も無い。正月にやる羽根つきとどこがどう違うのかが、私には判別できない。
なんの部活にも入っていない私は一人でポツンと、自分の机に座っていた。
そして、目をつぶってみる。
つぶったところで眠れないのは分かっているが、試しに寝ようと試みる。
眠れない。
ふと気がつくと、やかましい話し声が止んできたので、目を開けてみる。
まぶしい。
目が開けられない。
目の前に大型宇宙船が現れたわけではなく、単に、暗いところから明るいところに出たときのアレである。
なんとか目を開けてみると、教室には私とフロイトしかいなかった。
フロイトはいつもと同じく、文庫本を読んでいる。
「フロイト。帰んないの?」
私はフロイトに言った。
「あなたは帰らないんですか?」
フロイトは文庫本から目を離さずに言った。
「電車、ないから。」
「そうですか。」
とフロイトは答えたきり、何も言わなかった。
「何読んでるの?」
私は特に興味も無いが、フロイトの読んでいる本について聞いた。
「玉屋の籠対ケフェウウスの容態。」
「どんな本よ。」
別に興味もなかったが、題名からどのような内容か判明しないので聞いた。
「まあ、SFってことになるかな。江戸時代、ならずどもたちをまとめあげていた玉屋というお茶屋があってね、そこの家で百年使われていた籠がある日、突然巨大化して、江戸の町を破壊していくんだよ。それと同時に、ヨーロッパで、生まれたばかりの赤ちゃん、ケフェウスが巨大化して、これまた町を破壊していくんだよ。二体の怪物を前にして、人々はどうするのか。そして、それらのものが巨大化した理由、そして、町を破壊する理由とは・・・って感じかな。」
フロイトは楽しそうに、早口に言った。
私は始めっから聞いてなかったし、内容も理解はできなかった。
「面白いの?」
「今、籠とケフェウスが中国大陸で遭遇したところだよ。これからどうなっていくんだろうね。」
「そうね。面白そうね。」
どうでも良かったので、どうでもいい返事をした。
SF、か。
私はフロイト博士と呼ばれるほどの人物だから、すごい専門書とかを読んでいるのではないか、とすっかり思っていた。
SF。
F高最優秀成績の名が泣くな、と私は思った。
このF高の中での一年、フロイトは特進クラスを差し置いて、成績がトップであった。模擬試験も全国で十本刀と呼ばれるほどの実力者であるとか。それゆえに、みんなが避けているのだろう。自分達とは別次元の宇宙人に関わりたいとは思わないだろうし。
私はそろそろ時間だったので、教室を出た。
フロイトは相変わらず、無表情で文庫本、いや、訳の分からないSFを読んでいた。
面白いのなら、もっと楽しそうに読めよ、と私は心の中で呟いた。
自転車に乗って、駅を目指す。
F駅の近くはかなりにぎわっている。
とはいえ、一田舎の市でしかないから、それほどではあるのだが。
F市は周りの市よりかは幾分かにぎわっている。
特にF駅の近くには、最近三、四階建てのビルというよりも建物か、そんなものが建てられている。
周りの市よりもにぎわっている原因は、F駅であった。この駅は様々な方面への分岐点となっている駅であった。それゆえ、大都市からの便がいいので、他の市よりかは潤っているという程度だった。
まあ、都会人からすれば、団栗の背比べみたいなものなのだが。
私は駅の駐輪場に自転車を置く。この駐輪場はもちろん有料で、六か月間の契約をしている。そして、六か月が過ぎると、再契約をする、という具合なのだ。
電車通学をするF高の生徒は、例外なく、この駐輪場を利用する。
F駅からF高まではかなり遠いからである。
ごくたまに、バスで通学するメンツもいないではないが、かなり高くつくので、通常は自転車を使うことになる。
私は切符を買う。
そして、改札の駅員さんに切符を渡す。
残念ながら、自動改札ではない。
切符は自動改札に対応しているし、定期券も然りである。
ただ、F駅以外の駅は、基本、無人駅なのだ。
都会の方、無人駅を知っていますか?知っていても見たことがない、または、見たことがあるが乗り降りをしたことがない、というのがほとんどではないでしょうか。
無人駅というのは、基本、その駅に駅員さんはいません。
もちろん、券売機もありません。
ではどうやって改札をくぐるのでしょう。
改札などありません。
誰でもタダで入り放題です。
私は券売機の欄に入場券と書かれているのを見て、驚きました。
そして、一時間に一本しか来ない電車に、そのまま入ります。
整理券をとります。
無人駅から無人駅へ行く場合、運賃は先頭の運転手さんに払います。金を払っていない不届きものを出さないために、ドアは先頭しか開きません。先頭で整理券と一緒に、運賃表を見て、運転手さんに払います。
バスと同じ要領です。
駅員が電車の中に一人しかいない電車をワンマン電車と言います。一人の男電車です。田舎は基本、このワンマン電車です。
実はこのワンマン電車にはかなりの欠点がございまして、奥の方に座ってしまいますと、先頭へ移動するときに、電車が出てしまうことがあるのです。バスと違って、ボタンはありませんから。
無人から有人へは、その有人駅の窓口で整理券を見せ、お金を払い、あるカードをもらいます。それを改札の駅員さんに渡して、改札を通ります。ただ、そのカードが紙でして、自動改札に適応していないのです。
私は切符を買い、切符を駅員に渡し、ホームへと入る。
そのホームは私鉄のホームであった。
F駅は国鉄の駅であるが、そこに間借りするように、私鉄のホームがあった。
プラットホームには相変わらず人がいない。
私は駅のさびれた電光掲示板にある時計を眺め、そろそろ電車が来る頃だな、と思いつつ、いすに座る。
電車の来る方を私はぼんやりと眺める。F駅は私鉄の終点の駅でもあるから、電車が来る方向は、いつも同じだった。
さびれた四角い乗り物が、さびれたホームにやってくる。
さびれたホームに止まると、さびれた車体の中から、さびれた人々が出てくる。
そして、いそいそとさびれた人々は下へ降りていく。
F駅のプラットホームは全て二階にあった。
そして、町中を、宙に浮きながら走っていく。
実際にはコンクリート橋なのだが。
私はそのさびれた人々の一員となって、電車の中に入る。
車内もやはり、さびれている。
まだ二両編成なのが、せめてもの救いか。
私は車内のフカフカでないソファに腰を下す。まあ、どのソファもフカフカではないのだが。
さびれた車内には、二、三人のさびれた人々がいる。彼らは目を閉じ、寝ようとしているのだった。
私は眠れない。
三十分もの間、私は景色を眺めていなければならない。
私は乗り物に酔いやすいから、宿題をすることもできない。
さびれた人々は、時が止まったかのように見えた。本当は時が止まっていないはずなのに、そう見えた。本当に時が止まってしまっている自分の方が、時が止まっていないように見えることに、なんだか奇妙な感じがした。
電車はしばらく、さびれた町の宙を舞う。
だんだん、さびれがひどくなってくる。
臨界点にまで達したさびれは、ある一線を境にさびれではなく、田舎くさくなってくる。
だんだん、町が、家がなくなる。川と木だけになってくる。
その間、人々の乗り降りはない。
彼らはどうやら、本当に時が止まっているようだった。
ずうっと、木々が間近に見える景色が続いたかと思うと、トンネルに入る。そして、再び、木々が間近に見える景色となる。しばらくして、その景色が途絶えると、この前見た時よりも、川が広くなってきている。海に近づいているのだ。
実際に、車内から潮の臭いがすることはない。しかし、鼻腔を微生物が命を終えた臭いがくすぐる。
もうすぐ海ですね。お見舞いしてみませんか。
などというバカみたいなことを考えながら、やはり、景色を見ている。
車窓から見える海は、海水浴場のような、飼いならされたライオンのような景色ではない。海面には、白波が見える。それは、波の高いことを示している。
ザッバアン。
今にも聞こえだしてきそうな、崖に打ち寄せる波。
音が聞こえないことが、テレビの音量を消音にしたようで、すこぶる面白い。
ザ・日本海。
形容するならこうだろう。
無駄にテンションを高めながら、目的地の前の駅についた。
病院というのは、何かが違う。
私はここに来るたび、そう考える。
現実に根付いているのに、どこか現実感が希薄な場所。
病院が閉鎖空間だからだろうか。
私がそう考えるのは。
それとも、病院にいる人の顔がどこかぎこちないからだろうか。彼らの表情は、笑うでもなく、また、悲しむでもなく。それは、訪問者は勿論のこと、医師や看護師までもがそのような顔をしている。
終身病棟。
ここがその場所だからかもしれない。
そして、きっと、私もここにいる全員と同じ顔をしている。
「ママ?元気?」
私は病室に入って、ママにそう話しかけた。
返事は帰ってこない。
そして、ママが元気なのを私はよく知っていた。
私はママの寝ているベッドの横にある椅子に座って、ママの顔を除く。
死ぬほど美しい。
そうとしか言い表せないほどに、私のママは美しい。
私はママに、ニッコリと微笑む。昔、ママは私のニッコリと笑った顔が大好きだ、と言ってくれた。本人は気ままな性格で、覚えてはいないだろうけど、私はママを見るたびに、この顔をしつづけている。
辛い時や、泣きたいときでさえ。
この笑顔を見せると、ママは「ごきげんね。」と言って、自分もとびっきりの笑顔を見せてくれるのだった。
その笑顔は、恐らく、世界で一番美しい。
神の微笑み。
人はこの笑顔を手に入れてはダメだったのだろう。
だから、ママは帰ってこなくなった。
ママはその笑顔を見せた後、私に必ずこう言った。
「その笑顔、パパにそっくり。」
本人は悪気なく言っているのは、私には分かっていた。
私はこの言葉を聞くたびに悲しくなった。
でも、私はママの笑顔を見れただけで十分だった。
例え、私はママに似ていなくて、美しくなくても。
私はママに今日のことを話した。
「今日ね、フロイトって呼ばれてる男の子と話したの。その子の本名は知らないんだけどね。その子に私が頼み事をする前に、言いたいことは分かってる、みたいなことを言って、手帳を渡されたの。ママ。これ、一緒に見よ?」
そう言って私はフロイトに渡された手帳を、スポルディングのバッグから取り出す。
黒い革の、いかにも高そうな手帳。しかし、誰かのお下がりなのか、ずいぶんと古い。
私は手帳を開けた。
最初のページには、何も書いてない。
私はページをめくる。
そこには文字が書いてあった。
『霧の日、神社。』
次のページをめくる。
『曇りの日、バス。』
次のページ。
『晴れの日、教室。』
次。
『雪の日、公園。』
最後に、
『雨の日、駅のホーム。』
と書いてあり、その後、手帳にはなにも書かれていなかった。
「一体どういうことかしら。」
私は頭を悩ませた。趣旨が全く分からない。変人の戯言か。
「どうすればいいんだろうね。」
そう言って、私はママの方を見た。
しかし、ママは何も答えない。
分かっていた。
どうしようもないことに。
どうしようがなくとも、なにかをしなければならないことに。
信じられない事にも、すがらなければならないことに。
「ママ。きっと、助けるからね。」
そう言って、私はママの頬を撫でた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます