蝶
む つ き
第一話
学生の頃、ずっと憧れていた少女漫画や恋愛ドラマみたいなそんなきれいなキスは私には全く無縁の物語。キスはキスでも汚い嘘のキスで始まる汚い恋人ごっこ。いい大人がお金を払って恋人ごっこ。いい大人がお金をもらって恋人ごっこ。お金のために好きでもない汚いおじさんとキスをしていると、時々、自分でも惨めに思う。
それもこれも生活のため、妹の進学のため。ジャンルは違うとしても割と漫画みたいな人生で笑ってしまう。
こんな穢れた私だって、高校二年生の夏に父親を事故で亡くすまでは将来こんな職業に就いているなんて思ってもいなかった。
そういえば、当時は検事になりたいという大きな夢があったような気もする。それゆえに法学部で有名な都内の大学を目指していたのではないか。そんな有名大学が視野に入るくらいだから、割といい高校に通っていたことは容易に察していただけると思う。
中学三年生の時に塾に通ってしごかれ、やっと入れた私立高校での高校生活は我ながら実に充実していたと思う。受験勉強が終わったからといって怠けず、塾でつけてもらった勉強の習慣も忘れずに。
運動も嫌いではなかったのでテニス部に入部した。センスがあったのか、未経験だっ他のにもかかわらず、ある程度教わったら試合に出られるほどにできるようにもなった。
成績は良好で部活も充実。容姿も悪くない。いや、むしろいい方である。こんな完璧な学校生活なのに驕らない。いや、驕ってはいたが驕ったそぶりも見せないので友人もたくさんいた。スクールカーストの一軍ってやつだ。
いくら友達が多くてもたった一人の「親友」と呼べる子がほしくなるものだ。
何があってもこの子ならわたしを裏切らない、と信じられる一人がほしくなるものである。心のどこかでその子のことを見下して保険にしていただけなのかもしれない。
そうだとしても、その親友は確かにかけがえのない存在であることは間違いなかったはずである。
私にもそんな親友はいた。いたはずだ。
脳裏に浮かぶその子の記憶はかつて読んだ漫画や夢の中の記憶だったかもしれないと不安になる。
いや、それでもいいのかもしれない。だって、その親友のことを私は覚えているのだから。
確か彼女は運動音痴でいつもチーム決めの時に残ってしまうような子だった。
その度にいつもリーダーである私が自分のチームに入れてあげるから、私たちはいつも同じチームだった。それで自分のチームメイトに睨まれるのもしばしば。
その親友はとても頭がよかった。私と同じくらいには。
というのも私たちが仲良くなったきっかけというのは、中学生の頃に通っていた塾が同じだったからなのだ。その塾から私の高校に進学したのはその子と私の二人しかおらず、登下校の電車が必然的に同じになり、仲良くなったのである。同じようなカリキュラムで教育されて同じ学校を選んだ私たちは同じような成績を取っていたように思う。
毎日、電車の中では他愛のない話を楽しんだ。野良猫の話や成績の話、今朝のニュースの話。親への不満話だって。
夢を語ったこともあった。彼女は弁護士になりたいと言っていたっけ。それで約束したのだ。法廷で会おうって。なにかのゲームで聞いたことのある設定に今更笑ってしまう。
テスト前の勉強会、彼女は必ず抹茶フラペチーノを頼む。クリーム増し増しで。私は普通のアイスコーヒー。毎回、彼女に一口もらうのだ。彼女は「自分で頼めばいいのに。」と無愛想に言いながら、なんだかんだでくれる。それで結局おしゃべりで勉強できずに二人でおしゃべりしながら帰るのだ。
彼女の誕生日はテスト前の時期だったからカフェでお祝いしたことがある気がする。
プレゼントにあげた蝶の飾りのネックレス……派手だって一蹴されたけど一応持って帰ってくれた。決して高いものではなかったが紫のスパンコールがとても綺麗で彼女に似合うと思ったのだ。まだ持っていてくれていたりするのかな。
割と細かい思い出は思い出せても、やはりその子の顔はあまり思い出せない。
彼女はクラスの異性からまあまあモテていたから可愛らしい顔をしていたのだろう。もっとも彼女は彼らに興味を示していなかったのだけれど。かわいそうな男子たち。
きっと私も彼らと同じように彼女のことが好きだった。
なんて思い出に浸っているうちにこのおじさんの相手はおしまい。慣れたものである。全く関係のない思考を巡らせながらおじさんの相手ができるくらいにはもう何も気にしなくなった。「何も」は大げさだったかもしれない。
お店に帰る道、またその子のことを考える。きっと今頃は法廷で大活躍中なのかな。
私なんか馬鹿みたいだな。昔の栄光ばかりを引きずって、見下していた子に追い抜かれていることを見て見ぬふりして、一番惨め。
ふと、仕事帰りなのか窶れて猫背のОLらしき人とすれ違う。ああ、でもああいう風にだけはなりたくないかもな。
私には妹を進学させるという目標がしっかりある。
あの人にはないのだろうな。毎日、同じ日々の繰り返し。仕事もお茶ばっかり入れているのかな。誰にでもできそうな仕事ばかり押しつけられる。代わりなんていくらでもいる。生きている心地がしないのだろうな。
「あーあ、かわいそ。」
相手に聞こえないくらいの声でつぶやく。
もうとっくに暗くなった都会の空を仰いだ。立派な弁護士であろう私の親友を想って。
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