密通

染よだか

密通

 なんで触らせてくれるの、と先輩は訊いたけれど、そんなこともわからないのになぜ触るんですかとは言えなかった。かわりに「さあ」とだけ返して、濡れた色の窓硝子を見ていた。

 並んでラーメンを食べたあと、闇に溶けるこの車で名古屋の外れをさまよい続けてもう二十分になる。橋を渡らなくては帰れないのに一向に渡る気配はなく、コンクリートの垣根を常に片側にしながら、街燈の少ない住宅街を縫うように走っていた。ときどき、一方通行の道にぶつかっては不満げな声があがった。もうこの道覚えた、と先輩が呟いた。私はちっとも覚えられない。

「もうここでいっか」

 独り言なのか同意を求めているのかわからない口ぶりで、でも投げかけるような視線がこちらに向けられた。たぶん求めているのだろう。同意というか、合意を。

 そんなに心配しなくてもこの行為は合意です。合法ではないけどね。先輩の手が私の胸に伸びて、触る。思わず声が漏れるのを、すかさず囁かれる。

「無反応でいこう」

 やらしい大人だなと思う。我慢してもなお声が出てしまうことに興奮するくせに。でも先輩がそれを望むなら私は従順な後輩を演じてあげる。どうせこれは先輩にとっても茶番だから。

「後ろ行こうか」

 ハンドブレーキを跨いで後部座席に移ると、先輩はすでに待ち構えていて、あっという間に私の背を捕らえた。チャイルドシートの設置を想定された後部座席はカーセックスにも十分な広さだけど、この車はそういうことをするために買われたわけではない。一年前に結婚した奥さんのため、そして今月産まれてくる予定の子どものためだ。間違っても私のためなんかじゃない。

 なぜ触るんですか、と、私がもし訊いたなら、先輩はなんて答えるだろう。「とんでもなくブスでも生理的に無理でもない若い女の子に慕われれば悪い気はしないし頼めば触らせてくれそうだったから」と正直に答えてくれるだろうか。もしくはちゃんとした言い訳を用意してくれるだろうか。

 でもそれを訊いてしまうと、まるで先輩に気があるみたいだからやめておく。「かわいいから」とかいううすら寒い嘘を期待しているみたいだし、そうやって気を遣われるほどみじめなことってない。ましてや、略奪愛や逆恨みに発展すれば面倒になると距離を置かれたりなんかしたら、ちょっとやっていけない。

 そもそも客観的に見ればこんな行為のどこにも私にとって得はないのだから、先輩がなぜと問うのも当たり前だし、「さあ」なんて返しちゃう私は先輩にとって不気味に映ったはずだ。何を考えているのかわからないけど訊くのは少し怖い、そんな存在でいられたらいい。できれば気にしてほしい。仕事中も少しくらい思い出してくれ。

「こっち触ってあげようか?」

 ひたすら胸を揉むばかりだった先輩が、下のほうを指した。また合意を求められる。そりゃそうだよねじゃないと強姦だもん。おつきあいしましょう、そうしましょうという口約束も、男性にしてみれば合意なんだろう。結婚だってそうなのかもしれない。口約束じゃなくなるだけで。

 一枚の紙きれが先輩と誰かを夫婦にした。それってつまり、先輩は相手の女性のものになるってことで、身も心もそのひとのものってことじゃ、ないのですか。違いますか。先輩にとって結婚とはなんですか。

 私を送る帰り道、先輩はいつも私の将来を案じてくれて、決まって最後には「早く結婚しな」と言う。それがやさしさなのか牽制なのかはよくわからない。俺にハマりすぎるなよというつもりだろうか、だとしたら安心してほしい。私はあなたとは違う誰かとちゃんと幸せになれるし、そのことについてくよくよ悩んだりしない。ただ一つ気になることがあるとしたら、この関係がいつまで続くのかということだけだけど、それこそくよくよしたってしょうがない。

 あんまりにも黙っていたから不安にさせてしまったのかもしれない。「あのさ、そうやって黙る癖やめよ?」、でも私何を言えばいいのかわからないのですよ。甘えてしまえば重荷になる、欲に任せるにはアルコール不足、そのうえ車内でしょ。自分から言うのはいやだけどホテルがいいんです。私のために四、五千を出すのはさすがに惜しいのかもしれないけれど。

 そもそもラーメン、ラーメンってなんだ。いやラーメンは好きなんだけど大好きなんだけどせめてお酒を飲ませてほしい。じゃないとこの息苦しさに耐えきれない。ロマンのなさがプライドをますます強くする、愛がないならせめてロマンチックな演出の一つくらいがんばってほしい。何かに酔っていないと、こんな関係についてシラフで真面目に考えちゃうこと自体ばかげてるんだから。

 ばかばかしい話、本当はたまらなく触ってほしかった。先輩だって気づいていたはずだ。でもそれを言いたくなかった。どうしても言いたくなかった。別に恋してるからなんかじゃない。でも女というものは少しでも好きじゃなければこんなことはしないんです。それがわからないなら、結婚なんかすべきじゃなかった。

 薬指の指輪は、お互いがお互いのものであるという証明。そうでないなら、なぜ人は結婚などするのでしょうか。先輩が口の中で果てて、触ってもらえないまま行為が終わる。青臭い精液を黒ウーロンで飲み下す。先輩が運転席へ戻る。

 橋を渡って、煙に巻かれた私たちの街に帰っていく。先輩は私を送り届けてから奥さんの待つ家に帰るのだろう。こんなにみじめなのに次に会えるのはいつになるのか考えてしまう。

 硝子に映った運転席を見つめても先輩は気づかない。「早く結婚しなよ」、うるさい、黙ってろ。

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密通 染よだか @mizu432

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