第92話 朝食前は甘い蜜を

「なぜお前しかいないんだ?」


「全員オレ達より早く起きたんじゃないかな」


 にっこりと笑顔で推測を述べるが、その言葉は間違っている。全員追い出したのだが、そんなことを白状するような男ではなかった。


 部屋中がベッドだらけ、それもベッド同士をくっつけたため、部屋一面がベッド状態の一室は明るい。窓から朝日が差し込み、普段ならとうに起きている時間を示していた。


 寝過ごした原因は、肌に朝日が当たらなかったことだ。窓際のベッドで日差しが顔にかかると、眩しさで起きる彼女にとって目覚まし代わりの日差しが、部屋の中央付近まで届かなかった。寝すぎたことで怠い身を起こし、額に手をついて溜め息を吐く。


「お前と知り合ってから自堕落になった」


「うん」


「わかっているのか?」


「ああ」


「こうやって寝過ごすなど、怠惰の極みだ」


「問題ないぞ」


「大ありだ! 宮廷魔術師だった頃は時間をきっちり守るのが自慢だった」


「ふーん」


 合いの手を入れるジルは、満面の笑みで寝転がっている。まだ起きる気はないようで、ルリアージェの膝の上に頭を乗せて、腰に手を回した。自分たちの格好が外からどう見えるか、理解しているジルと理解していないルリアージェの間には深い溝がある。


「時間を守る必要なんて今はないだろ」


「……まあ、そうだが」


 誰かと約束して慌てることも、仕事の時間に追われることもなくなった。追手がかかっていたのも、サークレラ国の公爵夫人という肩書でリシュアが黙らせたらしい。指名手配すら解除させたのだから、どんな脅しをかけたのか怖くて聞けなかった。


「オレはリアとのんびり過ごせたら満足だけど、リアは違うのか?」


 そう問われると答えられない。のんびりした今の生活に不満はない。自分を大切にしてくれる人達が心を砕いてくれ、食べ物や寝る場所にも困らなかった。たまに襲撃されたりもしたが、危険な目にあっても彼らと離れようと思わない。


 ……何より、この男を好きなのだ。


 悔しいような複雑な気分だが、この男と一緒にいたい。恋愛音痴な自分でもわかるくらい、恋愛の分類として好きだった。だから何も不満はないのだが認めるのも癪だ。


「どうだろう」


 ちょっと意地悪な気持ちになって突き放すと、腰に絡みついたジルの腕に力がこもった。怪訝に思う間もなく、ゴロンとベッドに転がされる。上に乗り上げたジルの長い髪が、ルリアージェとジルの顔を隠した。


「本気で言ってるなら、意見を変えてもらう必要があるな」


 くすくす笑う声が聞こえるから、怖くはなくて「どう教える気だ?」と挑発してしまった。後で悔いる行為だが、この時は売り言葉に買い言葉で。


「目を……閉じて」


 言葉に従ったルリアージェの唇に、ジルのそれが重なる。舌で辿るようにされ、溺れる錯覚に口が緩んだ。そこを見逃さず入り込まれた舌が上あごの裏を丹念に辿る。呼吸が苦しくて、どこか甘い感覚に意識が絡めとられ……ルリアージェはいつの間にか終わった接吻けに、ぼんやりと目の前の男を見上げた。


 黒髪が作る影に慣れた目が、ぺろりと自分の唇を舐めるジルの赤い舌を追う。口の端を伝う唾液を、ジルはちゅっと音を立てて拭った。再び触れた唇の感触に「ぁ……っ」と甘い声が漏れる。


「襲っちゃうぞ」


 茶化したジルが苦しそうに眉根を寄せる。


「襲わせないわよ!!」


 飛び込んだライラがドアを乱暴に開ける音で、ルリアージェは夢のような時間から覚めた。慌てて離れようとしてベッドの隙間に滑り落ちる。手を伸ばして支えようとしたジルも半分ほど落ち、ライラを押さえようとしたリオネルが吹き出した。


 飛びこんだリシュアが手を貸してベッドの上に座ると、ルリアージェも声を立てて笑う。邪魔をされたジルがライラの三つ編みを引っ張り、呆れ顔のパウリーネが口をはさんだ。


「朝ごはんですわ。馬に蹴られますわよ」


 後半はライラに向けた言葉だが、肩を竦めたジルが「オレが先に蹴飛ばす」と宣言した。騒がしい海辺の別荘は、今日も穏やかな日差しが降り注いでいた。

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