第86話 囚われの姫君(2)

『ジル……』


 声にならないルリアージェの祈りが、球体に満ちる。


『来るな、ジル。罠だ……どうか誰も来ないで』


 握りしめた水晶を胸元に引き寄せ、ルリアージェは蒼い瞳を伏せた。この声が届くかどうかもわからない。呼んでくれといったジルの声が耳に残っていた。


 呼ぶことはできない。声が出ないという言い訳を手に、危険に飛び込む彼が心配だからという本音を覆い隠した。


『ルリアージェ! オレを呼んで』


 ジルの声が届くのに、応えてはいけないと自らを戒める。本当は来て欲しいし、助けて欲しい。大丈夫だと抱きしめて欲しかった。しかし罠を張った魔性の元へ飛び込めなんて言えない。ジルが強いのも、他の4人がどれだけ優秀なのかも知っていて……ルリアージェは躊躇った。


 握りしめた右手の中にある水晶が、じんわり熱を帯びる。手の表面に伝わる熱に、ルリアージェは座り込んだ状態でワンピースの陰に水晶を置いた。美しい青水晶の表面に何か紋章らしきものが刻まれてる。そういえば、ジルが何か細工をしたと言っていた。


 表面を撫でてスカートの影に隠す。あの魔性がどれほどの地位にいるかわからない。もし魔王やそれに準じる実力の持ち主なら、眷獣であるジェンの存在を快く思わず砕いてしまう可能性もあった。


「泣き叫ばぬのか?」


 人族が魔族に囚われれば、一様に助けて欲しいと懇願して泣き叫ぶものだ。当然だと思ってきた反応を見せないルリアージェの姿に、ラーゼンは興味を持った。元から人と違うものに興味を引かれる性質を持つ男だ。刺激された好奇心を満たそうとする風の魔王へ、ルリアージェはごくりと喉を鳴らした。


 魔力が強いのはわかる。強大な魔力を感じる能力は、ジル達と一緒にいて高まっている。以前に海で攻撃を仕掛けてきた水の魔王トルカーネと匹敵する圧迫感があった。


 伸ばした手が球体をすり抜けて、ルリアージェの髪に触れる。反射的に身を竦ませるが、視線は逸らさなかった。


「ふむ、お前を傷つけたらジルはどうでるか。興味はあるが……我は危険な橋は渡らぬ」


 興味が逸れたのか、ラーゼンは手を離した。そのまま見知らぬ場所にルリアージェを放置して消える。ようやく落ち着いて周囲を見回す余裕ができた。


 まったく見覚えの無い場所だ。どこか洞窟の中のような感じがする。先ほどの声が反響した感じから、地下室のような閉鎖空間ではなさそうだった。この先にひらけた場所があって、音を反射するのかも知れない。


『ジェン』


 水晶を撫でて炎龍の名を呼ぶ。しかし青く美しい眷獣は姿を見せなかった。やはり声が出ないと呼び出せないのだろう。溜め息をついたルリアージェの唇が、音もなく動いた。

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