第86話 囚われの姫君(3)
『ジル、ライラ、リオネル、リシュア、パウリーネ』
どの名前も大切な存在を示す単語だ。声が出なくて良かったと思ってしまう。1人になった途端、不安が押し寄せてきた。だから名を呼ぶけれど、彼らを危険に晒す気はないから、来なくていい。この声が届かないことに安心して、聞こえないのを承知で唇を動かした。
「リア」
呼ぶ声にびくりと肩が震えた。届くわけがない。だって……声は出ないのに。聞こえるわけがないのに。
振り返った先に、彼はいた。血が滲む傷だらけの姿で手を伸ばす。まるで茨を潜ってきたような、細かい傷が整った顔にもついていた。
高い位置で結った黒髪を揺らし、紫水晶の瞳を細めて微笑む。その頬に滲んだ血を拭おうと伸ばしたルリアージェの手は、透明の球体に遮られた。
『……ジ、ル?』
嘘だと思うルリアージェの震える喉が、掠れた吐息を絞り出す。にっこり笑ったジルが「無事でよかった」と呟いた。球体に手をついて立ち上がるルリアージェを上から下まで確認し、ケガがないことに安堵の息をつく。
「今助けるから」
球体に手を当てたジルが、なにかを呟く。ばさりと背に広がった黒翼が影を作り、球体にヒビが入った。ジルの手のひらが触れた場所から広がるヒビに気を取られた時、ジルの後ろに緑色の影が見えた。
『ジル、後ろだ!』
叫んで球体を叩く。
「あと少しだってのに、邪魔しやがって」
舌打ちしたジルの黒髪が解けて落ちる。髪紐を掠めた風の刃は、霊力により消滅した。
「そのための人質だ」
「……へえ。オレを本気で怒らせて、勝てるとでも?」
「強気なのはいいが……眷属を呼べないのだろう? 戦う前に傷だらけではないか」
ラーゼンはくつくつと喉を震わせて笑った。顔色を変えないジルだが、現状がすべてを物語っている。この場所にリオネル達を呼び寄せることが出来ない。入り込めたのはジル1人だけだった。
「そうだな」
肯定したジルの口元が歪んだ。流れる黒髪をばさりとかき上げ、絶世の美貌に妖艶な笑みを作り出す。魅惑的なその表情は人の意識を惹きつける。どきりとしたルリアージェが、赤くなった頬を両手で覆った。
「なぜオレが最愛の女を取り戻すのに、配下の手を借りる必要がある? 彼女を助けるのはオレだ。リアはオレだけを頼ればいい。本来、魔性なんてのは独占欲の塊だからな。他の奴と分かち合う気なんてないさ。違うか?」
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