第56話 潮騒(3)

 ライラの声に飛び起きると、茶色の三つ編みを揺らす少女がベッドの上に浮いていた。触れるぎりぎりの位置に浮かんだ彼女は、ジルとルリアージェの間に手を差し入れて妨害する。


「ちっ、くそがき」


「素敵な称号をありがとう」


 嫌味で返すライラは笑顔だった。舌打ちしたジルも本気で怒っているわけじゃない。こういう関係は家族みたいだ。お互いに言いたいことを言って、でも険悪にならない。


 初めての感覚に心が躍る。ルリアージェは早くに両親をなくし、宮廷に魔術師見習いとして入る頃には天涯孤独だった。相談できる親しい人も、家族もいない。それが当たり前で生きてきたから、こういう雰囲気は擽ったくて心地よかった。


「今日は何をしようか」


 呟いて身体を伸ばすと、ジルが「泳ぐか?」と水着を用意する。ゆったりしたワンピースを持ち出すライラは「お買い物がいいわ」と提案した。


 どちらも魅力的だと考えるルリアージェが答える前に、ドアが開いた。


「おはようございます。朝食の準備ができましたよ」


 リオネルが仲裁に入ると、ジルが先に立ち上がって手を差し伸べる。


「お手をどうぞ、奥様」


「ありがとう。旦那様」


 公爵夫妻としてのやり取りをかわすと、ライラが「お母様と呼んだほうがいいのかしら」と手を繋いだ。潮の香りが届く窓を振り返り、明るい日差しに目を細める。潮が満ちる時間である今、外の波音は昨夜より大きく聞こえた。


 人族に生まれ、孤独を感じてきた。なのに敵であるはずの魔性が、ルリアージェの居場所を作ってくれる。家族になり、彼女を守り、誰より大切にしてくれるのだ。


「スープが冷めますわ」


 廊下からパウリーネが促し、窓辺に転移したリシュアが窓を閉めた。途端に潮騒が遮られる。振り返ったルリアージェは微笑んで彼らに応えた。






 水色の瞳がゆっくり細められ、焼けたような褐色の肌が海に触れる。手を差し入れた波を掬った少年は、大きすぎる魔力を持て余すように海面に叩き付けた。大きく割れた海がすぐに元へ戻る。しかし一度生まれた不穏な波紋は広がり、海の波音を乱した。


「今のうちに幸せに浸るといいよ……僕は手加減しないから」


 満ちる海に響いた不吉な声に、誰も気付くことはなかった。

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