第7話 籠の鳥

 はあぁ……。


 大きな溜め息を吐いて、目の前の檻をつつく。もちろん開くわけはなく、逆にばちっと感電の痛みが指先に走った。


 格子でぐるりと囲われた檻の真ん中に座り込んだ。


 ぐらりと揺れる。



 檻は天井から吊られていた。


 床からの刺激はない。それは魔力を使おうとすれば反発するが、魔力を使わなければ反応しないという意味だった。


 魔力なしで鉄格子をすり抜けるのは難しい。ましてや、他の魔法による障壁がないとは限らないのだから。


 広い地下室の中に、鉄格子の檻はぽつんと置かれていた。いや正確には浮いている。四方の壁に手を伸ばしても届かない。天井や床にも届かないだろう。


 なぜこのような事態になったのか。過去の己の所業が原因だと理解しながらも、ジルは再び大きな溜め息を吐き出す。


 転移を使った際に使用する空間に罠が仕掛けられていた。


 亜空間には時間の流れや物質が存在しない。そのため仕掛けた罠も動かず、感知するのはほぼ不可能なのだ。だが転移を使う者が罠の心配をすることはなかった。


 亜空間に罠を仕掛けられるのは、一握りの実力者だけ。


 魔王と呼ばれる3人と死神の異名を持つ化け物、彼らに匹敵する数名の上級魔物しかいない。世界中を探しても両手の指に足りる数だった。


 だからといって油断したつもりはないが、罠のひとつにジルのフルネームが刻まれていたのだ。もちろん、目的はジルを隔離する為らしい。


 強制的にルリアージェから引き剥がされたジルが落ちたのは、この檻の中だった。


 魔力もほぼ封じられているため、今のジルにルリーアジェの状況を知る術はない。彼女を無事転移させただろうと信じる他なかった。


 仕掛けた者に聞けば、逆にルリアージェに危害を加えると確証がある。そのため、口を噤んでいた。



「そなたでも、どうにもならぬであろう?」


 諦めろと滲ませた声で諭しながら、目の前の女はにっこり笑った。


 その顔は美しい。艶やかな髪は淡い緑、深く濃い緑の瞳と、陽に焼けた黄金色の肌がまぶしい美女は、その豊満な身体を見せ付けるような白いドレスを身にまとっていた。


 大きく開いた胸の谷間、ウエストを絞った先は柔らかく腰や足を強調するシンプルなデザインだ。大きく太ももまでスリットが入っているのも目を引いた。


「うるせぇ、クソババア」


 口の悪い青年は絶世の美貌に似合わぬ暴言を吐いた。目の前の女性は20歳代後半に見える。確かに青年より年上だろうが、ババアと罵られる年齢ではなかった。


 清楚な印象はないが、奔放で自由……肉感的な美女である。大仰な口調も彼女に似合う。


「おやおや……、出せとは言わぬのか?」


「言っても出さないだろ」


 無駄なことはしない。不機嫌さを示すように鼻にしわを寄せて唇を尖らせた。青年の子供っぽい仕草に、口元を手で覆ってくすくす笑う緑の美女は余裕を持って応じる。


「そう怒らぬでもよい。しばらくここにおれ、それでよい」


「……何を企んでる?」


 先ほどまで子供のように拗ねていた青年の声色が変わる。凄みすらある笑みを口元に浮かべ、彼は黒髪をぐしゃりと握った。


「覚えておけ、オレは思ったようにしか動かない」


 お前に従わないと宣言し、興味を失ったみたいに檻に寝転んだ。そのまま背を向けて、美女の存在を無視する。


 囚われた黒髪の青年を一瞥し、美女は踵を返した。


 地下室らしき窓のない部屋を出る時に振り返り「ジフィール、その檻はそなたでも破れぬ」と呟く。


 ひらひら手を振るだけで振り向きすらしない男に苦笑いし、彼女は部屋を後にした。





 ゆっくり目を開いた。無理やり転移したとき特有の眩暈に襲われ、咄嗟に目を閉じる。一瞬だけ見えた天井に見覚えはなく、ぐるぐる回る景色に大きく息を吐いた。


「目が覚めたか?」


 掠れたしゃがれ声は、かなり年上……初老の男性のものだろうか。


 視覚以外から齎される情報を整理していく。ベッドに横に寝かされているが、その寝具は肌触りがよく上質だった。室内なのは間違いなく、部屋の空気は適度に暖められている。


「はい」


 相手が目上なことも手伝い、ルリアージェは小さな声で返事をして再び目を開いた。今度は眩暈はなく、なんとか手をついて身を起こす。と、左肩がひどく痛んだ。



「っつ!」


「ああ、ケガ人なんじゃから大人しくしろ」


 咎める口調に見上げた人物は、声の想像通りだった。


 初老の白髪が目立つ男性は医者なのか、白衣に袖を通している。彼の左耳に医師の資格であるカフスを見つけ、ルリアージェはほっと息を吐いた。


 中途半端に起き上がって右手をついた彼女が座りやすいよう、医師は背中にクッションを複数置いてくれた。寄りかかって体勢を整えれば、痛みに強張った身体が崩れるように沈む。


 確認した左肩に包帯が巻かれているが、ギブスのような肯定具はついていなかった。骨折ではないようだ。


「さて、名は?」


 カルテらしき紙を手に尋ねられ、一瞬迷う。そして口を開き、そこで動きが止まった。


「どうした?」


「……覚えていない」


「…なんじゃと?」


 医師の眉が顰められる。


 嘘ではなく、本当に思い出せなかった。


 口に出そうとした瞬間まで気付かなかったのだ。


 何と呼ばれていただろう。誰に、どんな響きの名で呼ばれたのか。


 どこから来て、どこへ向かっていたのか。そして、なぜベッドで医師に心配されている? いや、左肩の傷はどうした……どこでケガを? 何による傷なのか。


 次々に押し寄せる疑問が頭を埋め尽くし、吐き気がして身体を折りたたむ。


 口元に寄せた手が震えていた。何もわからない不安が心を黒く塗りつぶし、この世界で一人なのだと突然悟る。


 怖くなった。


 震える手が止まらず、全身に震えが広がっていく。



「落ち着け」


 ぽんと頭の上に手が置かれた。がさがさ荒れた手は暖かく、ぐしゃぐしゃとルリアージェの銀髪をかき回して離れる。

 手を引っ込めた医師は少し複雑そうな顔をした。


「殿下にとっては幸い、お前は……幸か不幸か判断できんな」


「でん、か…?」


 そう呼ばれる存在が、王族であることは理解できる。つまり日常生活に必要な知識は失っていないということだろう。


 ならば、失われたのは身近な人や思い出。個人を形成する過去と呼ばれる部分だった。


「子供を助けたことも覚えていないのか?」


 無言で首を横に振る。


「何なら覚えておる?」


 逆の聞き方をされて、自分に関する記憶を探してみる。


「……海の近くにいた」


 思い浮かべたのは、青い海。白い波が立つ浜辺で海を見つめた記憶だ。


 あとは誰だかわからない、男性の姿だ。


 周囲を爆炎と煙が満たしており、その中央で彼はゆっくり歩み寄った。顔も思い出せないのに、胸の中に感情が溢れる。


 優しく、とても居心地がよい相手……だから会いたいのに、会いたくない気持ちもあった。


 複雑な感情に頬を涙が伝う。


「それしか……思い出せない」


 気付けば首を横に振って、話を打ち切ろうとする自分がいた。彼の話をしてもいいのに、手がかりかも知れないと思うのに、誰とも共有したくない――。



「そうか」


 気付かなかったのか、医師はカルテに書き記すと頷いた。


 そこに人が近づく気配がして、ノックが2回響く。びくりと肩を揺らしたルリアージェに笑顔を向けた医師は、振り返って声をかけた。


「いいぞ」


 入室を許可されたドアの先、一礼した騎士が立っている。


 記憶が曖昧なのは自分に関するもの、つまり生活のために覚えた知識や記憶に影響はなかった。だから声が零れる。


「……アスターレンの、騎士?」


 呟く声に、医師は再びカルテに書き込みながら「ああ」と同意した。


「失礼いたします。殿下がこちらへ伺いたいと申されています。問題ございませんか?」


 ルリアージェにちらりと視線を向けた医師は、躊躇う様子をみせた。その態度に、良くない予感が過ぎる――きっと面倒なことになる、●●のときみたいに。


 はっとする。誰のときみたいに……と思ったのか。浮かびかけた名前は届きそうなのに、目の前で解けて消えてしまった。


 消えた名はそれきり。おそらく自分の名ではないと判断する。浮かんだ前後の文脈から、一緒にいた誰かの名だろう。


「あの……殿下とは、アスターレンの王族でいらっしゃいますか?」


 思ったよりすらすらと言葉が出た。王族や貴族と接した記憶はないが、最低限の礼儀作法は覚えているらしい。本来ならば立ち上がって膝を曲げ、スカートの端を摘んで一礼する。


 エスコートの男性がいるならば左手を預けて、右手でスカートを……そうでなければ両手で。そんな知識が流れ出てきた。


「はい」


 平民が敬語を使うことに驚いたのか、騎士はわずかに目を見開いた。



 殿下と呼ばれる王族の騎士ならば、最低限貴族の称号は持っているだろう。失礼に当たると判断して立ち上がろうとすれば、医師が手で押し留めた。


「ふむ……医師としてまだ彼女を動かす許可は出せませんな。殿下ご自身で足を運ばれるとおっしゃるなら、断ることは出来ませぬ。が、長い時間の話は無理ですぞ」


 少しだけ口調を改めた医師の判断に、騎士は丁寧に一礼して下がった。



 窓から入る日差しがオレンジがかっている。時間はわからないが、夕暮れが近いのだろうか。


「……さて、先に話しておこうか。お前は殿下の馬車の前に飛び出し、子供を助けた。その際にケガをしたが、殿下の温情でこうしてわしの元で診察を受けておる。どうやら殿下がお前を気に入ったらしい。殿下はすでにご婚約が整っておるが、側室は認められる。あとはお前次第じゃ」


 端的過ぎる言葉を反芻して理解する。


 王族の馬車の前を遮った。しかも止めさせたとなれば、子供を助けるためとはいえ許されない。自分は死刑になるか、その場で斬り捨てられてもおかしくなかった。


 だが彼の人は自分を気に入ったらしい。それが外見なのか、子供を助けようとしたことかわからないが、とにかく今生きているのは殿下の気まぐれだ。逆らって怒らせれば殺される可能性があった。


 しかし、不思議と『殺される』恐怖は感じない。


 自分の記憶がないと理解した瞬間の、あの世界に放り出されたような不安感と比べたら、恐怖と呼ぶ感情はなかった。まるで他人事のようだ。


 幕の向こう側にある、劇を見ている感覚に近い。


「……ご説明、ありがとうございます」


 医師に感謝を述べ、彼が先ほど発言した『殿下にとって幸い』が脳裏に過ぎった。確かに『お前にとっては幸か不幸か』と悩む場面だろう。


 側室になって成り上がりたいと考える女ならば、幸と言い切る。しかし自由に生きる今を捨てて籠の鳥にされたと嘆くなら、不幸だった。


 どちらを選ぶにしても、情報が足りない。



「ああ、殿下が来てもベッドから降りることは許さんぞ」


 指差して釘を刺す医師に、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。


 まだ怠い身体は、ケガの所為で発熱している。心配する彼の立場は理解できるのだが、王族相手にそんな理屈が罷り通るだろうか。いざとなったら床に伏しても礼をせねばなるまい。


 ルリーアジェがそう決めるのを待っていたように、再びドアは2回ノックされた。

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