37.***天色***
桜の咲く庭を幼子が走り回る。ぱたぱたと沓音を響かせ、追いかける女房を振り払い走る男児は、几帳の内側で待つ母親に手を振った。乳母を使って育てるのが主流のこの国において、母親が積極的に育児に関わる機会は少ない。
そもそも帝の為に集められた女の園において、寵愛を競う花々は実より蝶にうつつを抜かすもの。己の地位を少しでも高め、実家の権威を高めるために競い合う女性にとって我が子は道具だった。その中にあって、瑠璃の名を持つ
天津神の色を受け継いだ我が子を抱き寄せ、膝の上で寝かせて、同じ時間を過ごした。帝の寵愛を一身に受ける
「おいでなされませ」
招く母の声に、幼子は大喜びで駆け寄った。貴人女性が姿を見せるのははしたないとされる。それでも几帳の間から手を伸ばし、我が子を抱き寄せた瑠璃は頬を緩めた。女性ばかりの宮に入れる男は限られている。夫である帝と我が子、そして医事も修めた陰陽師のみ。
万が一にも他の男の目に触れぬよう、几帳をずらした女房達が安堵の息をついた。中に入り込んだ幼子は、母の白い手に縋りつく。頬を包んだ手が金の髪を撫で、柔らかな菫色の瞳を細める。よく似た色彩の母子は、距離近く頬を寄せて微笑みあった。
先触れがあり、瑠璃は几帳の位置を戻すよう女房に指示する。膝の上に頭を乗せて甘える我が子を撫でる瑠璃の姿は、慈愛と幸福に満ちていた。
「失礼するよ、瑠璃」
青葛の君、そう呼ばれる帝の后を瑠璃と呼称するのは夫である帝のみ。後ろに3人を従えた山吹は、帝らしからぬ所作で板の間にどかっと腰を下ろした。慌てて女房が畳を示すが、首を横に振って拒む。
「おいで、
呼ばれた幼子は少し迷い、父である山吹の膝に駆けていく。天色とは、空の青を示す言葉から取られた名だ。真実の名を伏せる皇族の習いとして、子供の瞳の色を取って名付けられた。途中で転びそうになりながら抱き上げられ、膝に座る。後ろに従う陰陽師に気づき、目を輝かせた。
「しお! あいと、くお」
伸ばす音や詰める発音が上手にできない幼児に名を呼ばれ、3人は顔を上げた。天色と名付けられた次代の帝は、無邪気に手を伸ばす。小さなもみじの手に、真桜は遠慮なく触れた。少し考え込むように目を伏せ、それからにっこり笑う。
「健康そのもの、何も問題なし」
「それはよかった」
山吹がにこにこと笑いながら金髪の子供に頬ずりする。擽ったいと笑う子供は、他者の目を排除した宮ですくすくと育ってられた。数えで3歳になる。走り回る足元はまだ覚束ないが、ここ最近は転ぶことも減った。人目にさらされない宮での生活は、天色にとって最高の環境だ。
真桜の後ろに従う見習陰陽師の
同じく見習となった糺尾は、1年の訓練を経てようやく尻尾を出さずに生活できているが、いまだに大嫌いな蛇を見ると尻尾が膨らむのが欠点だ。飛び出した尻尾をしまうのは、だいぶ上達したが。天色がよちよち歩いた昨年は、よく尻尾を掴まれて悲鳴を上げていた。
「くお、ここ」
隣に来いと手で床を叩く幼児に困惑する糺尾に、肩を竦めた真桜が天色を抱き上げて彼の膝に乗せる。おろおろしながら落ちないよう支える糺尾の膝で、隣の藍人へ手を伸ばした天色は笑顔を振りまいた。末裔を祝福する天照大神の日差しを受けて、空色の名を貰った子は鎮守神と次代に触れる。
「鎮守神を連れた帝なんて、お前ら親子ぐらいか」
女房を下がらせた帝の配慮に乗っかる真桜が、足を崩しながら幼子を受け取った。はしゃいだ声を上げて身体を揺する子供は、己を抱きとめる鎮守神の長い髪を掴んで引っ張る。
「師匠、影が」
小さな声で警告する藍人の鋭さに、口元を緩めて幼子の相手をしながら真桜が頷いた。
「わかってる。また呪詛を向けられたのか、人気者だな……天色は」
天色の金髪がかかる肩に乗る黒い影を、真桜がふっと息で追い払う。闇の神族であることを厭うていた真桜も、最近は諦めと共に受け止めるようになった。深く考えすぎなのだ。神であろうと、人であろうと、自分は自分と言い切れる強さを得たことが、今の真桜の強さだった。
化け物と呼ばれようが笑って受け止める余裕が出来た。連れ歩く子供達に向けられる侮蔑や恐怖の眼差しに舌打ちしたこともあるが、糺尾も藍人も師匠同様に鼻で笑ってあしらう。その理由が「何も出来ない輩にやっかまれても気にならない」らしい。
たくましく育つ彼らは、2人だから支え合えるのだろう。かつて真桜を支えた式神のように、そして今も真桜を支える天津神のアカリのように。互いの存在が、子供達を強くする。
「これでよし。山吹より寄せ付けやすいから気を付けないとな」
父である山吹は寄せ付けにくいが、憑かれると清めるのも手がかかる。天色は寄せ付けやすく祓いやすい。一長一短の親子に苦笑いした。瑠璃くらい霊力が強ければ、寄せ付けないのだが。
はしゃぐ子供を末永く守るのは、九尾の血を引く陰陽師となる糺尾の仕事だ。この国を命ある限り守護し、身代わりとして厄を引き受けるのが、次代鎮守神である藍人の役目だった。
どちらが欠けても、国は混乱するだろう。どちらかが損なわれたら、国は亡びてしまう。重責を一緒に担う吾子は無邪気に笑顔を振りまいた。何も心配など要らぬと、そう信じさせるように。
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