30.***苦悩***

 まだ解けぬ闇の中にある友を想う。僕は本当に恵まれていて、彼は常に苦痛と嘆きの中にいた。助けの手を伸ばしたくて、彼を地上に引き留めた罪は自覚している。地獄に落ちても当然だと思うが、落ちたら彼は助けに来そうだと苦笑いした。


 橙色の花の名を持つ山吹は、曇った空を見上げる。御簾みすから出るなと注意する、赤毛の友人の声が聞こえるきがした。黒髪黒瞳が当たり前の国にあって、別の色を纏うのは異形の証――神であり、現人神あらひとがみであり、鬼であり、妖であり、光であり、闇でもあるもの。


 鬼の子と蔑まれながら、類稀たぐいまれなる才能で陰陽寮の頂点に立つ青年の整った顔を思い浮かべた。黒髪黒瞳も似合うだろうが、やはり違和感がある。見慣れた赤茶の髪と青紫の瞳が重なり、くすっと笑いが漏れた。


「まだ暗いのでしょうか?」


「ええ、夜には月が顔を見せてくれるでしょうが」


 鎮守社ちんじゅしゃたる真桜の屋敷にかかった闇はまだ晴れない。近くに人が寄れないほど、強い闇の気配が漂っていた。それは宮中であっても感じ取れるほどだ。陰陽寮には触れを出したため、大きな問題にはならないだろう。


 近くに女房が控えているので、御簾の奥で几帳きちょうに隠れた瑠璃るり姫が言葉を選ぶ。わかっていると頷いて御簾の内側に戻り、山吹も直接的な返答は避けた。


 陰陽師は当然に行う伏せた隠語での会話だが、これは公家であっても同様にたとえで意味を逃す。誰かに聞かれても言い逃れできるように、人前で話せない複雑な会話を誤魔化すために。人は様々な意味のことを駆使して、言霊ことだまを避ける。


「では夜に音を合わせて、月を讃えましょう」


「それはまた雅なことだ。瑠璃の琴の音が届くよう、笛を重ねさせていただく」


 夜の約束を交わした山吹がぱちんと扇で音をさせた。人払いの合図に、女房たちが静々と場を離れる。声が聞こえない距離で控える彼女達は、帝が溺愛する姫と2人になりたいと願ったように見えるはずだ。


「ねえ、瑠璃。僕はもう真桜が傷つくのを見たくないんだ……約束したのにね」


 酷い友人だと思わないか? 苦しむ友人を見たくないのは本心だ。でも彼が地上に残った原因が自分との約束だと理解しながら、真桜が傷つくなら帰ってもいいと考える。身勝手な人間という存在に吐き気がした。


 今回の呪詛もそうだ。人は簡単に他者を羨み、妬み、嫉む。神の子である真桜には理解しがたい感覚だろう。


 帝の血を引く子を己の娘に生ませたい。そのために妻である瑠璃を呪殺しようと画策し、血塗れの手で愛を強請る。いくら外見を磨こうと、内面が醜く穢れた姫君に興味はなかった。


 天津神の血が濃く受け継がれた山吹にとって、穢れは物理的な痛みや恐怖を伴う。彼女達との間に子を成す行為は成立しなかった。


「約束は約束。違えては、さらに嘆かれますわ」


 扇で顔を隠した美女は、長い金髪を几帳の端から覗かせながら忠告する。


 たとえ自らが生きたまま裂かれる苦しみを味わおうと、あの男は山吹との約束を守ろうとするだろう。狡猾に罠を張り巡らせ、敵を排除して、呪詛を退けるくせに――本質は真っ直ぐな不器用者だから。逃げて助かる道が見えていても選ばないと断言できた。


「そうだね。僕が先に根を上げたら、きつく叱られてしまう」


 見上げる先で、雲がわずかに裂けて陽をこぼした。紫雲が降りてきそうな、幻想的な光は鎮守神を祝福するように地上へ降り注ぐ。闇に鎖された屋敷に、光の恩恵を与えるように。


「ああ、天の光まで彼を望むのだね」


 くすくす笑う山吹は、今夜訪れるであろう友人を持て成すために立ち上がった。

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