21.***誑霊***

「……っ」


 咄嗟に乳母の名を呼びそうになる。しかし唇を切れるほど噛み締めた少年は、震える吐息をもらして堪えた。


「こちらへ参られよ」


 誘う真桜しおうの手がゆらりと霊へ伸ばされた。穏やかな笑みを絶やさぬ老女は、首を横に振る。その姿は、愛し子を見守る守護霊のような優しさを感じさせた。しかし彼女の周囲を取り巻く蛇の縄に似た呪縛は、この老女が囚われた事実を示す。


「会話が出来るだけマシか」


 ひどい状態だと半狂乱で襲ってくる霊も少なくない。蛇の呪いに縛られながらも、彼女はぎりぎりの一線を守っていた。誰も傷つけようとしない。それがどれほど辛く、苦しいことか。他者を傷つけたら戻れないが、傷つければ一時的に痛みから解放されるのだ。その誘惑は人を堕落させる一歩だった。


「乳母殿、あなたが育てた子は我らが成人まで預かろう。心を解放し、闇の扉をくぐる気にはなれないか?」


 心残りを晴らすのは、彼女の魂を救うための手順だ。いきなり蛇を引き剥がせば、魂が損傷して、霊体が砕ける。輪廻を外れる苦行を味合わせるために呼び出したわけではない。甘いと言われようと、真桜は彼女を救う気だった。


 国を守る――その一点だけを考えるなら、彼女を砕いても目的は達する。蛇の呪縛を国や帝に及ぼすには、間で繋ぎとなる魂が必ず必要だった。繋ぎの霊がいなくなれば、呪術を他者に向けられない。


 国津神くにつかみの1はしらがふわりと舞い上がった。霊に何かを語りかけるように周囲を飛び、細い声をあげる。導きの鳥と呼ばれる神の柔らかな促しに、彼女は困惑した顔で藍人あいとを見つめた。


 泣き出しそうな彼女の表情は見覚えがあった。先立つ母が残す子供を心配する気持ちは、かつて真桜も向けられた感情だ。人の巫女であることで、神の妻としての地位に耐えられず狂う未来を知った彼女は、迷うことなく己の命を絶った。我が子を傷つけるくらいなら、夫を嘆かせても構わないと示した。


 母の覚悟と同じ色を感じ取った真桜は、複雑な思いを抱える胸を押さえる。同調しようと霊に心を寄せたため、流れ込んだ感情が処理しきれない。引きずられてしまう危険性に、霊を捕らえる手を緩めようとした瞬間、背後からアカリがぴたりと体を寄せた。


《ふるへ、ゆらゆらとふるへ》


 己を律した真桜が立て直す。引きずられるほど同調出来ているなら、逆にこちらへ引き戻すことが可能だ。細い息を吐いて、結界内を清めた。


「助かった」


『そなたを失うと困るのは、我の方ゆえ』


 くすくす笑うアカリがわずかに首をかしげる。半透明の黒髪がさらりと頬を滑るのが見えた。


《参られよ、愛し子の守護を望むなら――我が名のもとに叶えよう》


 陰陽師としての術で彼女を壊すより、神としてたぶらかした方が良い。風もないのに肩のあたりで舞う赤茶の髪を揺らし、立ち上がった真桜の手が伸ばされた。


 この手を取れと命じる闇神に、霊は惑う。蛇の呪詛を纏うからこそ、闇の神が放つ神力は彼女にとって魅力的だ。心地良い波を送る手に触れようとした。


 あと少し。


 透き通った指が触れると思われたとき、ぱちんと結界が弾けた。我に返った乳母の霊は、引きずられて黒い蛇に飲み込まれる。


「くそっ、仕掛けやがった」


 汚い言葉を吐いた真桜が、どかっと乱暴に地に座る。胡座あぐらをかいて、九字くじを切った。四方を護る式神と護り手が結界の修復をはかるが、霊がすり抜ける方が早いだろう。


きん


 場を縛る言霊で、強制的に魂を拘束した。左手の人差し指と中指を揃え、刀の代わりとす。一歩間違えば彼女を砕いてしまう。細心の力加減で霊を縛った。


《我が血の契約をもって、地の履行を行え。名をもって縄と為せ》


 かちん……乾いた音がして、祭壇の上に小さな結晶が転がり落ちた。

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