19.***呪人***

 ぞろりと闇が動く。黒を重ねた衣の男が、ぼさぼさの頭をぼりぼりと掻いた。久しく身支度など整えていない。汚れた手をくんくんと嗅いで、自分の鼻では嗅ぎ分けられない悪臭漂う小屋を見回した。


 仕えた主人が亡くなったのは数年前だ。人望はある人だったが、家格が低かった。正論を吐く主人を鬱陶しく感じた有力な公家により、宮中へ参内する役職すら奪われた。貴族の端に引っかかる程度の家柄で、大した収入はない。荘園からの税も微々たるもので、すぐに家計は困窮した。


 徐々に狂っていく主人を見ているのは辛かった。それでも、ただの下男に出来ることはない。


「正しくても、負けたら終わりだ」


 どんな正論を吐こうと、政敵との争いに負けたら家も自分も終わる。そのとおりだ。納得すると同時に「そんな世なら滅びてしまえ」と心が叫んだ。


 あれは寒い朝、暖をとる炭や薪も足りない屋敷は冷えていた。冷たい床を踏みしめて、主人の部屋に向かう。わずかに手に入った米を炊いたのだ。しょくしてもらえば、きっと元気が出るだろう。優しく強かった主人が戻ってくれると、愚かにもそう信じていた。


 部屋の前で座り、声をかけた。しかしいらえはなく、部屋は不気味なほど静まり返っている。すでに自分以外の勤め人はいない。帰る実家のある者は、主人を見捨てて逃げていった。


「ご主人? 失礼、します」


 御簾の向こうに声をかけて、中を覗いた。手にしていた盆が落ちて、必死に集めて炊いた米が足元に散る。もったいないと思う意識より先に、絶望の光景に喉が引きつった悲鳴を上げた。


 主人が息絶えている。それも首を吊るという無残な姿で……孤児である自分に優しかった主人が、様々な物を垂れ流していた。汚れた床を這っていき、震える手で主人の足に触れる。


 もう硬直した物体でしかない主人を前に、何か喚きながら走り出したのは覚えている。そして意識は途絶えた。







 大量の蛇を集めて壺へ投げ入れる。とにかく数を集めようとして、餌となるカエルが住む池の近くで、蛇を待ち伏せした。捕まえた蛇が増えるたび、黒い何かが濃くなっていく。


「あとすこし」


 掠れた声はガラガラと聞き苦しい音が混じっている。人ではないのだ。主人の死体を見た時から、人であることはやめた。


 壺の中で殺し合いをして生き残った蛇を素手で掴み、生のまま貪った。池の水を直接飲み、集まる昆虫や蛇を喰らう。体の中に取り込んだ彼らが、いずれ腹を食い破ると知っていた。


 肉や腹を食い破るなら、この怨みもすべて食らって出てくるがいい。不自然に膨らんだ腹を撫で、男は嗤った。


 男の影がゆらりと立ち上がる。ついに怨みを晴らす時が来た。影は本体である人を喰らい、体内の恨みと怨み、憎しみ、すべての暗い感情を吸収して膨らみ続ける。


 新月の夜、闇はついに姿を現して千切れた呪詛が都に降り注いだ。 







『我が命を喰らった闇に堕ち、この身は穢された。我が苦しみを受け、滅びるがよい!』


 息絶えた白いかみじゃに堕ち、呪詛のろいは――都の守護者と帝へ向かい加速した。

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