11.***月読***

 糺尾くおん藍人あいとは昼間に寝すぎたらしく「眠くない」と言って就寝を渋った。今後の勉強になるかと苦笑いした真桜しおうは、根負ける形で同席を許す。ただし、絶対に縁側から下りないように言い含めた。


 月は薄い衣を纏うように、おぼろ月の様相を呈している。ぼんやりした雲越しの月を見上げ、前途多難だと溜息を吐いた。


「真桜、域を……」


「穢すな、だろ? この空を見りゃ溜め息のひとつも出るさ」


 月詠命つくよみのみことは月を読むと書く。書物に記す際は『月読』となるが、神の御名を読み換えて別の漢字をてるのは、陰陽を司る者ならば当然の心得だった。


 アカリの目に、青白い月光が降り注ぐ筋が映る。天照大神に授かった、真桜の首に掛かる勾玉へと降り注ぐ光は柔らかかった。


 赤茶の髪を解いた真桜が地に直接座る。大地の底にある黄泉よみに繋がる国津神の子孫として、己の霊力を最大限に高めるためだ。地に広がった髪が土に同化するようにふわりと落ちた。


黄泉よみの血をもつ我は請い願う。月夜見つくよみに、麗しき月読つくよみ姫の衣に我が手が触れんことを≫


 普段使う陰陽道の術ではない。神呪を口にして願い奉る。夜を司る神の名を呼んだ真桜の唇が細められ、静かに長い息を吐いた。周囲の域を清めて、神域を作り出すのだ。


≪ひ、ふ、み、よ、いつ、む……≫


 九字の数えを終わらぬうちに、水色の衣が真桜の手にかかった。


わらわを喚ぶ、その勾玉は姉上の……否、そなたの黄泉の血か』


 黄泉平坂よもつひらさかを治める闇の神王の血を引く真桜は、黄泉という響きで月読と繋がる。太陽を司る天照より、夜を支配する月詠の方が近しかった。


『そちらは姉上の眷属であろうに、地上に降りるとは変わり者よ』


 くすくす笑う美女は、薄く透けていた。最初にアカリに会ったときを思い出し、真桜に懐かしさが過る。真桜の隣に下りたアカリが隣に膝をついた。


「この者の護り手たる身ゆえ、神格は返上しました」


 アカリの言葉に頷き、月詠は美しい水色の衣を風になびかせる。声を出さぬよう言い含められた糺尾の口を、藍人が押さえた。自身も己の口を手で押さえなければ、驚愕の声が漏れてしまうと余った手で覆う。


『して、妾に何を尋ねたい?』


 夜の帳が降りてからは彼女の時間だ。縁側でしていた話は筒抜けだった。話が早くて助かると、真桜は用件を切り出す。


「天の乱れの理由をご存じですか?」


『狐火がなにやら騒がしい』


「妖狐が原因と?」


『否、金紫きんし水元みなもとよな』


 夜闇が支配する都で何かが起きている。そこまで示しながら、神族であるがゆえに言霊を宿さぬように響きを濁す。みなもとであり原因である響きを水元と置き換えた意味に、真桜は次の言葉に詰まった。


『そこの白き子供に災いではなく、救いをもたらすよう……読み違えをせぬことよ』


 微笑んだ月詠が溶けて消える。涼しい風が横切るたびに薄くなる姿に、真桜とアカリがゆるりとこうべを垂れた。澄んだ空気が満ちる庭は、息苦しいほど音がない。


 パンと柏手を打って、域を散らした。それから深呼吸して息を整える。言われた通り大人しくしていた子供達は、そろって青ざめていた。神気にてられたのだろう。


「月の姫は勾玉を残されたのだな。気に入られたようだぞ、真桜」


 指摘されて、胸元に下げた青みがかった乳白色の勾玉を取り出す。色を失うことなく、勾玉は残されていた。気に入られたというアカリの指摘に、空を見上げる。美しい顔をぼかして見せない月へ、感謝を込めて一礼した。


「……今夜はもう寝るか」


『床が汚れる』


 土に汚れた足元を気にせず縁側に入り込む真桜の後ろから、華炎が文句を言いながら濡らした布を差し出す。後ろに続いたアカリにも渡しながら、頓着しない2人の姿勢に華守流は苦笑いした。


「あの……」


「月の神様?」


 子供達の声に、真桜がしゃがみこんだ。胡坐をかくと足の裏を綺麗に拭きながら、子供達の疑問に頷く。そして大切な教えをひとつ、忘れぬように言い聞かせる。


「神族の名は呼んではならない。響きを変えて読むんだぞ。言霊を宿した言葉は取り返しがつかない。陰陽師となるために必要な礼儀で、最低限の作法だ。絶対に忘れるなよ」


「「はい」」


 素直な子供達の黒髪と白髪を撫でて、真桜は頬を緩めた。

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