09.***不実***

 ああ……呪わしい。


 あのお方は、今宵も別の女の元へ通うのか?


 長い黒髪をくしけずり、季節の衣を整え、貴方の好む香をいた。


 なのに……なぜ訪れてはくれぬのか。


 庭の手入れを行い、屋敷の調度品を入れ替え、すべてをあの方の好みに合わせた。


 唇を染める紅を引き直す指が震える。


 若い女にたぶらかされている今、わたくしの声は届かない。


 愛しい、お前だけだと告げた唇で、別の女に囁くのか。


 なんと……恨めしい、それでも愛おしい。


 いっそ―――呪い殺してしまいたい程に。




 脇息にもたれて溜め息をついた。外は美しい星が輝き、冷たい風が簾を揺らす。乳母が中に入るよう促すが、首を横に振って拒んだ。


 今宵こそ、あの方がいらっしゃるかも知れぬ。


 訪れたとき、私が迎えねば落胆されるであろう。


 月がない夜は暗い。その分だけ星が明るく見えるから、嫌いではない。いや、あの方が私を星のきらめきにたとえたあの日から、星を好きになった。


 姿を変える不実な月ではなく、いつもひっそりと寄り添う星のつつましさが私のようだ――そう云うてくださったのに。


 もう涙も枯れた。


 脇息から落ちるように滑った姫の姿は、ひどく哀れを誘う。心労で食事も喉を通らない彼女の肌は艶を失い、目は落ち窪んでいた。黒髪は色せて、色鮮やかな衣の上を糸のように這う。


「姫様っ!」


 乳母の皺がれた手が伸ばされ、床に伏した姫の細い身体を抱き起こした。骨と皮だけになった身体は軽く、そのはかなさに乳母が目元を押さえる。


 かつて都一の美貌とうたわれた美女は、見る影もなかった。


「……あの方に、お会いしたい」


 搾り出された姫の願いは届かない。何度文を出しても、姫の想い人である公達はこの館を訪れなかった。それどころか、文の返事すらない。


 他の女に通っているという噂を聞いたのは、もう半年近く前だった。摂政家に連なる若い姫に心奪われ夢中となり、いずれは婿として迎えられるだろう。


 不実な男を諦めきれぬ姫の一途さを、幼い頃から知る乳母は慰めを口にする。


「姫様の美しさに、戻ってまいりますとも……」


 それが姫の慰めになっている一方、彼女を諦められなく縛る鎖となる。気遣う乳母と、恋焦がれる姫君の感情はもつれあい、やがて――都を揺るがす呪詛となった。

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