ゴヨウジン
ありふじ
序章
男は暗い路地を覚束ない足取りで歩き出した。
目前にゆらりと人影が見えた気がしたのだが、男が頭にはてなマークを浮かべたとき、ピュッと空気の切れる音がした。
風と共に過ぎ去ったのであろう、姿はなかった。
否、見えるはずがなかった。
首を、斬られた──
***
数刻前のことである。
男は色恋の町『遊幻町』を訪れていた。
遊幻町とは江戸の北側に位置し、四方を堀で囲まれた小さな町である。
眠らないこの町は身分や年齢を問わず、誰もがみな平等に金を使い遊び楽しむのだ。現実とは異なる偽りの世界であるが、それこそが夢であり希望であった。
男もまた、夢に溺れている。
「くはぁ!最高!いいね、もっと飲もう、いけるって」
大部屋を一人貸し切り、女郎十数名に接待させるという椀飯振舞をしているこの男。名をモモンガという。
住まいは江戸・日本橋から日光街道を北上し四つ目の宿場町、粕壁宿にあるのだが、早朝に粕壁を発ち夕方にはこうして遊幻町にきている。
総髪に束ねた髪は幾多も後れ毛が飛び出し、右目には黒い皮の眼帯。口や顎には無精髭。侍とも商人とも見えぬ謂わば「ならず者」のようであるが、大きく垂れた目は少年のような輝きを放っていた。
「ねぇ、モモさん。今夜は泊まっていくんだろう?」
モモンガの左肩に寄りかかる女が上目使いで問う。
「ん~」
少し考えてから女に視線を落とした。女の左目にある泣き黒子が視界に入る。
「リクエストって言うなら、しゃーねーよな」
モモンガはそう言うと懐から小判を数枚取り出し、女のふくよかな胸元に差し込んだ。
「前金な」
「まあ、珍しい」
「んふっ。今日は金があンだよ」
機嫌が良い。一山当てたのだろう。
「でかい仕事が入ってさ」
するとモモンガの右側からはつらつとした声がかかる。
「それは、たくさん入れてもらわないとね」
眼帯をした右目では声の主を捉えることはできないが、気を遣ったのだろう死角から徳利が姿を表した。
「はは~ん、入れるってナニをだ?」
モモンガは首を右に回し、徳利を差し出してきた女の姿を視界に入れると同時に空いた右手でその尻を撫でる。
「やっ!モモさんってば!お酒よ、お酒!」
その女は立ち上がると徳利を持ったままモモンガから距離をとる。
「あ。おい、待てこら」
ふらつく足で追うが、床に転げるわ、踊り子に抱きつくわ、場は荒れ放題だった。
他の客も酒宴をお開きにした頃、モモンガは寝床にいた。どうやらあの後眠ってしまったらしい。先ほど前金と言って小判を渡した泣き黒子の女は既に寝着姿で部屋に入っていた。鏡の前で髪をとかしている。癖の強い髪であるのが悩みらしい。
その姿をしばらく堪能したモモンガは、丁寧に敷かれた布団から起き上がる。
「へへっ、悪いな。もう大丈夫だ」
じりじりと迫るモモンガの唇に、女は困ったような笑みを浮かべながら右手の人差し指を出し制止する。
モモンガは女が泣いていることに気付いた。
同時に「厄介だ」と思った。
「どうした」
たった一言、聞いた。
すると女は化粧箱から厚みのある小さな包みを取り出したのである。
言葉がでない。
女の左手小指に巻かれた包帯を見れば、包みの中身がなにであるかは容易に想像できる。
「貴方をお慕いしております」の意。
そんなことはない、モモンガは否定した。
金が尽きるまで酒に女にギャンブルと三拍子。日中は寝てばかり。たまに仕事が入れば高額な料金を請求するし、絵に描いたようなダメ男振りを発揮している自分に本気になった女はいなかったはずだ。もし、いたとすれば、モモンガ自ら目を瞑る。
こちらは遊びなのだ、本気は困る。
己が"棒貸し"と呼ばれる用心棒であることを利用し、町を飛び出し情男(いろ)のところへ行きたい。差詰めそんなところだろう。
「決意は固い」そう言いたいのだ、そうであってくれ。
色々と考えを巡らせた末に行き着いた答えを出す。
「渡す相手が違うんじゃねーの」
刹那。縞柄の特徴的な襟を手前に引かれかと思いきや、女の濡れた唇が重なった。
モモンガは天井を眺めながら
「面倒臭い」
そう思った。
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