02*神代へようこそ

***

 夜が明ける。

 頭上の空は、黒色から灰色、白色、やがて青色へと染まる。雲はない。頭上に昇る陽に晒されないように暗い森の中を黙々と進む黒衣の一陣。黒衣を濡らした雨、熱った体に立ちあがった汗、更に吐いた息が、朝靄のように立ちこめる。地面は昨日までの長雨でぬかるんでる。足首を捕まれるような感覚。濡れた黒衣が纏わりつき、しがみつかれるような感覚。

 陣頭の黒衣がふと顔を上げる。

 木々を縫うように飛んできた使い烏が、陣頭の隣の黒衣の肩に留まる。

『ヨモツシコメも、これほどはしつこくないぞ』

 陣頭の黒衣が笑う。

『スサノヲ様。報せが。昨日のカワチの戦、トミビコ様が天ツ軍を退かせました』

 スサノヲと呼ばれた陣頭の黒衣が頷く。

『おおッ!』

 吉報に黒衣達の感嘆の声が上がる。

 スサノヲは頷いたのでなかった。戯言が受けず、落ちこんでた。スルーにガックシだ。

『西の軍も善戦。国つ軍は勝機を攫みました』

『おおッ!』

 黒衣達の激越の声が上がる。

 スサノヲは戯言が受けなかった理由を考える。死んだことのない皆にヨモツシコメの比喩は、わかりにくかったかもしれない。

『よし、陽が昇る前に本陣に着くぞ』

 スサノヲが厳しい表情を見せる。

 黒衣達は、トミビコの活躍や、西の軍の善戦に浮かれず、厳しい表情を見せるスサノヲに、じぶんを恥じ、気を引きしめる。

『急ぎましょう、スサノヲ様』

 本陣に着くまでに皆が笑い転げる戯言を考える。スサノヲは、じぶんに厳しい武神である。


***

 玄関のドアを開ける。パンプスを脱ぐ。電灯をつける。ジャケットとスカートをハンガーに掛け、消臭スプレーをかける。チェストの上のキューピーちゃんに「ただいま」と言う。バレッタとブレスレットを外し、キューピーちゃんの首にブレスレットを付けながら「おかえり」と、キューピーちゃんに代わって答える。シャツとタイツを脱ぎ、ブラを外し、ネットに入れ、洗濯カゴに入れる。「疲れた」とテレビをつける。手を洗い、ルームパンツを穿きながら「おつかれ」とテレビに代わって答える。「今日も肉じゃがか」と冷蔵庫を開ける。麦茶とタッパーを出しながら「好きなんだからいいじゃない」と冷蔵庫に代わって答える。「温めるのも、洗うのもメンドー」といいわけしながら、テーブルに麦茶とタッパーを置く。テレビのリモコンを弄りながら足で鞄を寄せ、スマホを探る。時計を見る。20時54分。

「あ、私。今日も無事終了。……うん、明日?明日は友達とでかける。……うん、わかった。気をつける。……うん、はい、おやすみ」

 スマホを放す。

「友達がいたらね」と麦茶を飲む。「いないの?」とスマホに代わって訊く。「メンドー」と答える。「いただきます」と冷たいじゃがいもを食べる。「おいしい?」と口の中のじゃがいもに代わって訊く。「温めれば良かった」と答える。

 今週もがんばった。明日からの3連休、ひきこもるぞ。読書三昧だ。


 東京(の隣の埼玉)のひとり暮らしに、祖父も、親戚のみんなも大声で反対と言った。大阪の夜の街で遊ぶだけでうるさかったのでわかってたけど。危ない危ないの輪唱。『街灯もない畦道を自転車で走り、田んぼに落ち、カカシにぶつかってケガ。みんながパニクった和歌山の超ド田舎は危なくないのか?』と大声で言い負かし、毎日20時の帰宅、21時の連絡、20歳の盆前に帰省という約束で、東京(の隣の埼玉)の大学に進学。ただいま、ひとり暮らしを満喫中。

 ……と言えないか。テーブルにつっぷす。私の性格は、祖父や、親戚のみんなに作られたと思う。約束を破れない。いまなお、20時30分の壁は高く、厚く、今日もバイトを終え、ダッシュ。20時27分の帰宅にドキドキ。だれかに見られてるんじゃないかと思ってしまう。小心者の私は毎日が疲れる。

「まずは20時30分の壁にアタックだ」

 テーブルに置かれた激励用鏡に映る私を励ます。それより、スーツルックの卒業かな。店長に、ラフな服でOKといわれても……。

「……あれ?」

 鏡に映った私の後で、なにか動いた。気のせいかな。

「ひとり暮らしだし」

 聞こえるように言いながら、フェイント。

 振り返ると、チェスト、上に化粧箱、ノートPC、本、フォトスタンド、キューピーちゃん。いつもどおり。変化はない。泥棒の隠れてる気配も、1Kのアパートに隠れる場所もない。

「あれ?」

 ゆっくりと立ち上がり、キューピーちゃんと目を合わせながら、近づく。

「キューピーちゃんの手が下がってる」

 バンザイさせてたはずなのに。今朝、下がってたっけ。いやいや。さっき上がってたよね。じっと見る。なんでだろう、なんでだろう。


 ドアチャイム。

「こんな時刻に、だれ?」

 こんな時刻の訪問者というより、このアパートに住み、だれひとりの訪問者もいなかった。いや、新聞の勧誘と怪しい勧誘と宅配の配達はあったな。ああ、そうか、宅配か。なにか送ってくれたかな、現金だったらいいな。……でも、不在通知はなかったよな。キューピーちゃんの恐怖を忘れ、ウキウキとボールペンを片手に玄関に向かう。

「ちょうど肉じゃがに飽きた頃だし」

 ボールペンを構えながらドアを開けると、物腰の柔らかい眼鏡をかけた好男子(以下、眼鏡好男子)が立ってる。ユニフォームは着てない。白いカットソーにシャツをはおり、ジーンズ。まさに眼鏡好男子という感じ。

「あ、あ、夜分、申しわけございません」

 がっかりした顔を繕い、ボールペンを隠す。

「隣に越してきたので、御挨拶に伺いました。これ、御挨拶です」

 手ぬぐいを渡される。神々しい笑顔に、さもしい私の心は癒される。

「よろしくおねがいします」

 眼鏡好男子、いや、隣人は、ほほえみながらドアを閉める。

 なんということでしょう。隣人は眼鏡好男子になってたのです。気づいたら手ぬぐいに顔を埋めてる。年上かな、タメかな。タメだったらどうしよう。趣旨ガエすれば、いっかー。

「笑顔にラッキー。眼鏡にラッキー」

 それに挨拶に手ぬぐいというのもいいよね。すっかり、かっちりとキューピーちゃんの恐怖を忘れ、手ぬぐいを首に巻き、肉じゃがと麦茶の宴を楽しむ。


「越してきたんだって」

 ルンルン気分で宴もたけなわ、秘蔵のチーカマを食べようと冷蔵庫を開けたとき、今晩の、ふたつめの疑問。

「……いつだろう?」

 越してきた感じあったっけ。先週も、先々週も、先々々週も土日は居たよね。平日に越してきたとしても、挨拶は土日でしょう。なにも平日の、こんな時刻に。顔に書かれただろう疑問符を、手ぬぐいで拭う。……いい匂い。

「ま、いっかー」

 気分がいいから、いっかー。チーカマも旨いから、いっかー。

 楽観者の私は、疲れた毎日をすぐに忘れてしまう。


『……めざめろッ、ツクヨミ。オレはここにいるッ。めざめろッ……』


上も下も、前も後も、右も左も、なにもない空間で眠ってる夢。いや、眠ってる私を、私が見てる夢。そんな恐怖を感じたとき、叫び声が聞こえた。

「夢……だれ?」

 叫び声で私は醒めたが……。

「……えーと、夢じゃないの?」

 暗いへやの、目前の空間に、黒い影というか、バレーボールくらいの、なにかわからない物が浮いてる。

「なに、これ?」

 目前のなにかわからない物は蠢きながら、少しずつ大きくなってる、たぶん。そっと後ずさり、状況把握を急ぐ。肉じゃがを食べ、チーカマを食べ、フロに入り、テレビを見ながらストレッチをやり、本を読みながら歯を磨き、眼鏡好男子のプレイバック(夢)を見ようと、枕の下に手ぬぐいを置き、寝た。ここまでは疑問はない。そして怖い夢の叫び声に起こされ、暗いへやに、なにかわからない物が現れた。ここからは疑問だらけ。状況把握の間に、なにかわからない物は、大きくなってる。ああ、疑問解決につながる、なにか大事なことを忘れてるような。

「ああッ。ずばりキューピーちゃんね」

 なにかわからない物がキューピーちゃんとわかったところで疑問解決にならないが、なにかわからない物でなくなる。私は毅然と立ち上がる。しかしチェストの上のキューピーちゃんを見てしまう。

「じゃ、いったいなんなのよッ、これ」

 なにかわからない物は、再び、なにかわからない物となる。更に大きくなってる。運動会の大玉転がしの大玉くらい。

「助けてッ、父さん」

 キューピーちゃんを攫み、迫る、なにかわからない物に翳す。

「ええッ」

 なんとキューピーちゃんが拳を上げる。

 応えるように私の側の空間に、剣を構えた眼鏡男子が現れる。いや、眼鏡をかけてない。

「ええッ、なんで?」

 眼鏡をかけてない眼鏡好男子(以下、非眼鏡男子)は、「退け!」と私を突きとばし、なにかわからない物を斬り裂く。なにかわからない物は、なにかわからない物のまま、消える。

 消えると、へやが明るくなる。電灯でなく、カーテンの隙間の陽で、今が朝とわかる。暗闇は、なにかわからない物のせいだろうか。

「大丈夫か?」

 非眼鏡男子は、剣を置き、跪く。突きとばしたくせに、よく言えるな。

 いまだ状況把握も疑問解決もできないまま、バンザイポーズのキューピーちゃんを抱えながら、目前の非眼鏡男子を見つめる。

「いったい、アナタ、だれ?」

 そういえば聞いてなかった。

「シコヲ、いや、オオクニヌシ、亦名をシコヲという」

 シコヲ?オオクニヌシ?……オオクニヌシというと、あの出雲大社に祀られてる神様?なんでなにかわからない物に襲われ、なんで突然と現れたオオクニヌシに助けられ、なんで……。


「どうぞ」

 早朝のじぶんのへやで、知らない男子に麦茶を出す。

 私とシコヲさんはテーブルを挟み、麦茶を飲む。見られたくない物は押入の中にある。下着はバスルームに干してる。麦茶を飲みながら、へやを見まわす。コップを置き、息を吸う。

「キューピーちゃんは?」

 ひとつめの疑問。

「スクナヒコだ」

「喋れないの?」

「人形は喋らない」

「いつ、オオクニヌシさんは越してきたの?」

 ふたつめの疑問。

「オマエが埼玉に来たときからだ」

 ああ、ストーカーに恋するところだった。

「じゃ、スクナヒコさんは、いつ、キューピーちゃんに?」

「オマエが産まれる前からだ」

 おお、筋金入りのストーカー。

「幼稚園の入園祝いで父さんに貰ったんだけど?」

「人形の前はわからない。オマエを守るためだ」

 恥ずかしい姿(裸でストレッチ)も見まもってたわけ。思わず抱えてたキューピーちゃん(スクナヒコさん)を落とす。

「あの、守るって、私を?」

「ツクヨミ、オマエに決まってる。話の流れでわからないか?」

 ツクヨミ?

 本棚を見る。主役が異世界へ行って異世界の人となにかを倒す物語や、この世界に来た異世界の人と主役がなにかを倒す物語の本が並ぶ。たぶん私は、神話の神様と、なにかわからない物を倒す物語の主役……らしい。しかし話の流れというなら、状況のわかってるオオクニヌシさんは、もうちょっと親切に説明、例えば世界観や物語の方向性の説明を教えてほしい。主役(予定)の拒否権の行使も厭わない。疑問点と、質問順を考える。

「まず、なんで眼鏡をかけ……」

 オオクニヌシさんが立ちあがる。

「めんどうだ。昼に来る」

 何事もなかったように、玄関で、私のサンダルを履き、隣室へと帰っていった。

「え、え?……え!?」

 驚愕の前半は帰るオオクニヌシさんに、後半はチェストを這い登るキューピーちゃんに対して。やはり異世界の物語は、なんでもあり(涙)。

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