第七章 夢のあと

第七章 夢のあと

とりあえず、大石寺からかえってきて、その日のうちにレポートを書き、翌日懍に仮提出して、添削してもらったが、大石寺に行ったことをかくのではなく、着物を着た感想を書かなければと酷評された。これには、蘭さえも大笑い。蘭からこれを聞かされた聰は、がっくりと落ち込んで、その日は寝れなかったといった。

「ごめんなさい。だけど正直、着物を着た印象なんてわからないのよ。だって、誰も道中そのことについて言ってくるひとなんか、いなかったんだから。」

と、多香子は弁明した。

「まあそうだねえ。確かに、お寺だからご住職も着物には慣れているだろうし、あんまりそれについて言及はしないよね。」

「そうか、杉ちゃんがいうように、ご住職は着物で当たり前だから、別に違和感はないよな。」

杉三も蘭も同調する。それも確かにそうだと思う。お寺でなく、和の文化が当たり前ではないところに連れて行けば、相手の人も関心を持ってくれたかもしれないが。

「今回は失敗だったか。じゃあ、今度はフレンチレストランとかそういうところに行ってみる?」

まあそのほうが着物を着て行けばちょっと感想がもらえるかもしれないけど。

「でも杉ちゃん、そういうところ富士市内にあるか?フレンチなんて、こんな田舎にはないよ。」

「そうだっけね。」

一番近くても、静岡市とかそういうところだろうなと思われた。そもそも観光地の乏しい富士市にはなかなかそういうレストランはない。

「それに、早くレポートださないと、提出期限に間に合わない。ブッチャーにも迷惑かかるし。多香子さん、本当に着物をきて、何も言われなかったんですか?ほんと、ささいなことでもいいです。移動するタクシーの中とか、他の観光客の人とか。」

蘭はもう一度多香子に聞いてみた。

「ええ、、、。全く記憶にないのですよ。大石寺では、他の観光客の人には全然会いませんでしたし。」

「お寺の中で写経に参加している人はいませんでしたか?」

「それもいませんでした。他に参加希望者がなかったようです。」

「まあ、確かに大石寺と言えば、やる内容は結構本格的なことを体験させてくれるんだけど、実践を重んじるので、観光的な名所というのは少ないよね。御朱印くれたりとか、本尊さんと写真撮るとかできないもんね。」

と、杉三が口をはさんだ。実際大石寺に限らず、日蓮正宗系列のお寺は大体そうなっているようなのだ。結構厳格な宗派ですよ、と水穂も言っていたことがある。

「そうかあ、せめてご住職がもうちょっと何か言ってくれればよかったんだが、、、。杉ちゃんがしゃべりすぎるから、そうなるんだよ。」

「なんで?質問してはいけないのかい?」

「だから、そういう事じゃなくて、もうちょっと多香子さんとご住職がお話させてもらえたら、だよ。」

「多香子さんは、水穂さんと庭でしゃべってたよ。枯山水がどうのとか。そうだったよねえ。」

「変な風に勘違いするなよ。」

「ごめんなさい蘭さん。あたしも、もうちょっと着物で行ったことを意識するべきだったわね。なんか、お写経はすごい大変な作業だったし、お寺がものすごく神聖な感じがして感動してしまって、そんなこと考える暇もなかったわ。」

多香子が、蘭に申し訳なさそうに謝ると、

「うん、それだ!それでいい。それを書けばいいんだよ!」

いきなり杉三がそんな事を言いだすので、皆びっくりしてしまった。

「なんだよ杉ちゃん。それでいいなんて。君も大石寺の感想を書けばいいとでもいうのかい?」

「それでいいんだ。だから正直に、着物を着ていたことを忘れていたと書けばいいの。着物着るってさ、経験者だとわかるんだけど、結構着崩れとか気になって観光どころではなかったから嫌だという人も多いのよ。それを忘れてお写経に打ち込めたってことは、それだけ簡単だってことだから。なんだ、答えなんて意外にすぐ近くにあらあ。」

「それ誰が言っていた?」

「カールおじさんが言ってたんだ。一度着てみたはいいものの、着付けがよくわからなくて、着崩れして赤っ恥かいてさ、二度とやだ!ってなっちゃう人は結構多いって。まあ、世の中、誰でも着付け教室に行ける人ばかりじゃないもんね。そもそも、自分たちの民族衣装を着るのに、金を払って教えてもらいに行くほうが馬鹿だって、原住民に笑われたのは、青柳教授だったよね。だから、それを解消することもできたんじゃないのか。そこを正直に書いてみろ。」

「なるほど、、、。杉ちゃんの発想はすごいというより、末恐ろしい。」

力が抜けてしまう蘭だった。

「まあね。確かに着付け教室は、ちょっと私には行けそうにないわね。」

「そうそう。変なやり方で金を巻き上げてさ、肝心の着付けの仕方はどこへ行ったんだってなる、悪質な教室のほうが多いよ。綺麗に衣紋抜きできるからって、役に立たない道具を交わされたりしてね。僕から言わせてもらえば、そういうことさせるなら、衣紋抜きも必要ないと思うんだけどね。テレビで宣伝してるあの教室はすごい評判悪いんだってさ。それじゃあ、原住民から馬鹿にされても仕方ないや。」

「そうね。確かにお金もかかるし、行く人もみんな偉い人ばかりで、ちょっと敷居が高いわよね。」

「へへん。伝統は、親から教えてもらうのが当たり前なんだけどね。原住民はそう言ってたって。まあいい。とにかくな、大石寺に行って、写経に参加させてもらったことを例に挙げ、着崩れの心配をしないであの作業をちゃんとやってこれたこと、誰にも教室行ったのとか聞かれなかったこと、着付け教室は金がかかるが、この着物ではその必要がないこと。その三本柱を書けばいい。文法的な間違い直しは、青柳教授にしてもらえ。」

「よかった。やっとレポートの内容が決まったわ。杉ちゃんって、意外にそういうの、得意なのね。」

「得意というか、突然何かひらめいて、変な風に、頭が回りだすんです。本さえも読めないのに。」

蘭は大きなため息をついた。

「まあ、あと僕の意見から言えば、とても女性らしくてかわいかったと、付け加えておいた方が良いと思います。便利なところだけを打ち出しても意味がないと思うので。」

「おう、さすが、美にまつわる仕事をしているな。じゃあ、すぐに原稿用紙買って、もう一回レポート書くんだな。」

「ええ、わかりました。ありがとうございます。」

「ブッチャーも喜ぶと思うよ。」

「本当ね。モニターなんだから、責任しっかり果たさなきゃ。」

再び笑い出す多香子だった。

とりあえず、杉三が言ってくれた三本柱を、自分なりの言葉でまとめて、原稿用紙に書き込む。感情表現が苦手なので、どうしても事実だけになってしまい、かなり難しい作業だった。語彙を調べるのも結構大変だった。夏休みの作文の宿題も、こんなに大変だったのかなあ。

さいごに、蘭が提案してくれた、女性らしくてかわいかったといわれた事も、しっかり書き加えて、レポートは出来上がった。

翌日、これを製鉄所に出勤してすぐに、懍にもう一度仮提出して、改めて添削をお願いした。懍は注意深くそれを読んで、

「よくかけているじゃないですか。まあ多少、漢字の間違いはありますけど、それさえ直せば効果的なレポートになると思いますよ。学生にもよく言いますけど、こういうレポートって、ただ事実を書くのではなくて、事実の裏側にあることを同時に書くと、実に面白くなるんですよね。」

と、にこやかに笑って、漢字の間違いを直してくれた。

「ありがとうございます。漢字の間違い、結構ありました?」

「まあ、そうですね。大人になってもそうなんですけど、送り仮名の使い方の間違いはよくあるんですよね。だから、そういう事もあるので、僕も学生にレポートを見せられた時は、それを引き合いに出して、頭ごなしに叱るのは、しないようにしています。」

言われてみればそうだ。学校の先生に作文の宿題を確認してくれと言われた時も、漢字の間違いばかり口にしてしまって、娘に内容はどうかと聞かれても生返事だったことのほうが多い。ただの間違い探しでは、全くやる気は出ない。それを繰り返してしまえば、娘は自動的に、ママは私の書いたものなんてどうでもいいんだと思ってしまったことだろう。ごめんねあっちゃん。ママ、もう一個間違いを直したよ。

「はい、一応、間違いは直しておきましたから、清書して須藤さんの下へ郵送してあげてくれていいと思います。」

もはや、聰をブッチャーと呼ばないのは懍だけであった。一瞬、須藤さんとは誰の事だと聞きたくなったが、すぐに思い出した。

「はい。ありがとうございます。やっと合格できてよかったです。本当に、こんな短い文章をまとめるのにも苦労するんですから、私ってやっぱり学がありませんわ。」

「まあ、ないんだったらつけてもらうしかないんですから、それについて全く卑下する必要もないんですけどね。教育とはそういう事です。」

「先生も杉ちゃん、いや、杉三さんと同じこと言うんですか。」

なんだかあまりに立場の違う人が同じことを言うのは、なんだかおかしいなと思って、笑いたくなってしまった。

「それがなんだというのです?たまたま同じ発言をしただけの事ですよ。僕が言えば普通なのに、彼が言ったらおかしいというのは、明らかに偏見なのではありませんか?」

確かにそうだ。それを強調したら、人種差別につながってしまう。だれだれが言うから従うが、だれだれが言うと腹が立つのは、人間にはよくあるが、内容は同じであるのに変わりはない。甲乙つけるのは勝手な自分だけ。仏法ではそこを取り去ることを要求されるが、これが意外と難しい。

「はい、すみません。先生。じゃあ、今日も、お掃除の業務に取り掛からせていただきます。」

「はい、お願いしますよ。」

多香子は、応接室を出ると、掃除用具入れから、箒と雑巾を取り出して、いつも通り長い廊下の掃除から取り掛かり始めた。これだけでも結構時間のいる作業であった。今は、女性利用者は学校とか仕事に出ている時間だし、男性利用者は裏庭で製鉄をやっている時間帯だから、各居室から音は聞こえてこなかった。そうなると、結構しいんとした空間でもあって、自分が動くたびに聞こえてくる鴬張りの廊下の音が、かなりの音量で聞こえてくるが、最近はこれもうるさいと感じなくなっていた。居室から、利用者がしゃべっている声もないから、ある意味気味が悪いという人も多かったが、多香子はそういう事は平気だった。むしろ、この静かさは、あの大石寺と同じようなものであったから、かえって居心地はよいのではないかと考えていた丁度その時。

突然、弾道ミサイルでも飛んできたように、それが破られる。誰かが激しくせき込む声が聞こえてきたのだ。多香子は直感的に目の前にあるふすまを急いで開ける。同時に、奥にあった食堂から、恵子さんも走ってきて、

「水穂ちゃん大丈夫?布団まで汚しちゃったかな?」

と、うずくまっている彼に声をかける。ところが、返答の代わりに出てきたものは鮮血で、まるで鉄砲水の様にあれよあれよと畳に広がった。

「ああもう、ひどいもんだわ。ちょっと先生呼んでくるよ。多香子ちゃん悪いけどさ、ここで見ててやって!」

恵子さんになれなれしく呼ばれるのは苦手だったが、そんな事を考える暇もなかった。とにかく、背を叩いて吐きだしやすくしてやるが、それだけでは止まらない。こうなると、彼女にとっては、宝永大噴火と同じくらいの緊急事態が発生したと考えていい。実際、畳を流れる血液は、その色から熔岩流のように見えてしまうのであった。

「とにかく大変なんですよ、普通に朝ご飯食べただけなのに、も、もうすごいんです。どっかの火山が大爆発でも起こしているみたい。」

恵子さんも同じたとえを思いついたのか。そんな事を言いながら、超特急で車いすを押してくる音が聞こえてくる。やがて、二人が部屋に飛び込んできた。懍はすぐに何があったか読み取ってしまったらしく、

「原因などどうでもいいですから、とにかく止血剤打たないとだめですね。これは病院に行くべきでしょうね。誰か力のある者が同行したほうがいいでしょう。」

と、冷静に言う。救急車という手段は思いつかないのかと思ったが、それは言ってはいけないという雰囲気があった。懍はすぐに裏庭に行って、比較的体の大きな利用者を呼び出し、利用者に彼を背負わせて、あれよあれよと出て行ってしまった。このとき、騒いだり叫んだりする者が誰もおらず、当たり前のように片付けられるのが本当にすごいところだと思った。恵子さんは、多香子を心配させないようにという意味で、製鉄所に残るように命じられた。ついでに、熔岩流と化してしまった畳を拭いておくようにとも言っていたが、恵子さんは、それを実行できそうな顔ではなかった。

「どうしたの?」

思わず聞いてしまう。

「あたし何したんだろ。朝ご飯の時、普通に味噌汁だしただけだったし、それで水穂ちゃんが、ああなったことは今までなかったと思ったんだけどな。」

と、いう事は相当衝撃的だったのだろうか。

「ねえ、どうしてあの人、救急搬送されなかったの?」

「あのね、もう面倒くさいのよ。普通の人みたいにすぐにどこどこって病院を割り当ててくれる人じゃないのよ。」

「つまり、病院の種類が限定とか?」

「あー、近いかな。他にも事情があるんだけどね。でも、これを言うとさ、嫌いになっちゃうかもしれないから、もう言わないわ。それに、水穂ちゃん本人もかわいそうだから、あたしは言いません。」

いつもの恵子さんらしい、面白おかしい言い方だったが、多香子はどこか腑に落ちなかった。

「さ、もう泣いちゃダメ。天災は忘れたころにやってくると考えなおして、これを拭いてしまわなきゃ。」

「あ、手伝いますよ。」

多香子は持っていた雑巾で、恵子さんは急いで掃除用具入れから持ってきた雑巾で、熔岩流の撤去を始める。思ったよりも血液のシミを拭き取るのは困難で、畳という素材は非常に能率が悪いと思ったが、恵子さんは文句を言わなかった。完全に撤去するのは不可能で、畳はまた張り替えなければだめだともいった。同じような血痕が、部屋の至るところに見られるが、定期的に張り替えてもすぐにそうなってしまうとも言っていた。

「でも、ここまで大規模なのが起きたのは、久しぶりだわ。食べ物には本当に気を付けてるつもりなんだけど、今年は災害レベルの暑さというし、例外のほうが多いと考えなおさなきゃだめだわ。」

恵子さんはそう言っている。

「と、いう事は、しばらくなかったんですか?」

「まあねえ。夏の後って誰でも体調崩すけどさ、水穂ちゃんの場合、もっと深刻なんじゃないのかな。」

「そうじゃなくて、今まであったのかどうかを聞いているんです。」

「あるって、あるからいうんでしょ。水穂ちゃんが病気でああなることは、もう製鉄所では当たり前になっていることなの。天災と同じだと思うことにしているの。」

「恵子さんは、話を反らすのが得意なようですけど、私の質問すっぽかさないでくださいよ。」

「だから言ったでしょ。天災と同じだって。日本は何回も地震が起きているのと同じこと。」

「恵子さん、もしかして私のこと、馬鹿にしてますね!」

思わず怒りを込めて言ってしまう。

「馬鹿になんかしてないわよ。いくら対策を施しても、地震を止めることができないのとおんなじなのよ。しいて言えば、タンスが倒れないようにくぎを打っておいたりするのと同じように、薬飲んでいるだけよ。」

「そうじゃなくて、私の質問、」

「じゃあ、短くまとめてあげる。答えを言えば、もう無理なものは無理なのよ。それなら初めからあきらめたほうがいいでしょう?そうじゃない?こんなこと、あたしだって言いたくないけどさ、日本にいる限り地震からは回避できないでしょ。したかったら他の国に行くしかないでしょ。水穂ちゃんだってそういう事なのよ!」

そうか。そういう事か。夢を見させてもらった後に、こんな重い現実が待っているとは思いもしなかった。他の国というところが、即ちどこなのか、多香子もやっと意味が取れた。

「何とかして対処できないの?薬の事とか、病院を変えるとか。あたし、以前本人にも言ったけど、岸和田にすごくいい病院あるって聞いた。何とかして新幹線代確保してさ、連れて行くべきじゃないのかしら。だって、人間誰でも、よそへ行くのは嫌じゃないの。」

「そうかしらね。個人的にはそうなのかもしれないけど、日本も単一民族国家とは言えなくなってるし。あたしには、それしか言えないわ。悪いけど。あたしだって、かわいそうで見てられないわよ。それに、どこの国でもそうだけど、誰でも自由なんて、有名無実な言葉で、本当に、砂上の楼閣よ。」

「砂上の楼閣?」

「そうよ。これ以上言わせないで!答えは無理なの!」

その言い方が怖かったので、多香子は質問をかえた。まだまだ聞きたいことはあるのだが、これだけはどうしても聞いておきたいことがある。

「ごめんなさい。最後に、もう一回だけ質問させて。これを聞いたらやめるから。もう、地震はどこでも起こるって、はっきりわかったから。」

「わかったわよ。何?」

「あの人、今日は帰ってくるかしら。」

少しためらったが、恵子さんはいつも通りの明るい声に戻って、こう答えを出してくれた。

「大丈夫よ。いつもの事だけど、地震だっていつまでも揺れるわけではないし、宝永大噴火も火山灰さえ止まれば終わるから。」

「そう。」

非常にあいまいな答えだけど、そういう風に受け止めるしかできることはないという事を知った。

「でも、あたしたちは、他人の事だからこうしてしゃべっていられるけどさ、自分の事になれば、そんな事もできなくなるわよね。人間って無能だわ。」

恵子さんがそんな事を言った。このときは聞き流したが、後で意味が分かる。


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