アイネ

宮崎ゆうき

アイネ

 光の玉だった。

 それが僕の夢に現れたのは幼稚園の頃。もしかするとそれよりも前、赤ちゃんの頃から、それは僕の夢に現れていたのかもしれない。だが僕はそこまで昔の事はもちろん覚えてはいないし、赤ちゃんが夢を見るのかも僕にはわからない。覚えている範囲では幼稚園の頃なのだ。

 夢の中の光の玉は何をするでもなく、真白な世界にぽつんと浮かんでいた。僕は玉から三メートルほど離れた場所で棒立ちになってその玉を見つめている。

 その時に感じていた事は、目覚めると綺麗さっぱりと忘れてしまっていた。まるで、頭の中の記憶を部分的にえぐり取られているようで、寝起きはいつも索漠とした気持ちで満ちていた。

 その日から一、二カ月に一回の頻度で、光の玉は僕の夢に現れるようになった。

 光の玉は毎回、何をするでもなくぷかぷかと浮いているだけだった。

 しかし不思議と、僕はその夢が嫌いではなかった。むしろ好きと言っても良いかもしれない。気づけば、その夢を待ち望んでいる自分さえいた。


 小学五年生になった八月のある日の夜、転機が訪れた。

 夢の中の僕は真白の世界にいた。

 この世界の夢を見る時は、決まってあの玉が現れることを僕は知っている。無意識に鼓動が高鳴なっていくのがわかった。

 はやく、早く現れろ。ただそれを願って正面を見続けた。 

 しかし僕の願いも空しく、玉は現れる素振りを見せない。

 やがて、空気との睨めっこに疲れた僕は背後の一人掛けソファーに腰を下ろす。

 椅子があることなんて知らないはずなのに、僕は初めからそれがあったかのように、勢いよく座っていた。

「疲れたー」思わず口から飛び出した声は自分のとは思えないほど掠れてしまっている。

 一人掛けソファーは驚くほど自分の体にフィットして、気持ちがよかった。僕は少しの間、目を閉じて光の玉を瞼の裏に映し出す。想像でさえその光は温か味を帯びていて優しかった。

 手に違和感を覚えたのは、目を閉じてから少したってからの事だ。違和感と言っても嫌な感じではない。むしろ逆だ。

 あったかい。

 僕は目を開け、膝の上で組まれた手に視線を向ける。

「うわあああっ」

 驚きのあまり僕は叫ぶ。

 同時に真白の世界は消え失せ、僕の部屋の天井が現れた。押しつぶされそうなほど、のっぺりとした天井に向かって深呼吸をし、僕はさっきの夢を忘れない内に思い出す。 

 僕の両手を包むように握っていた、あの両手首はいったい何だったんだ。


「お前、病んでる?なんか悩みがあるなら聞くからな」

 眉をひそめ、とし君はそう言った。とし君とは幼稚園の頃からの友達で何かあったときは、いつも相談に乗ってもらっている。

 昼休憩に昨日見た夢の事を相談したところだった。

「でもさ、なんかあったかくて気持ちよかったんだよね」

「まあ、そんな悩んでないならいいけど、ほんと何かあったら言えよな」

 そう言ったとし君の顔はまだ不安に包まれているようだった。

「ありがとう」

 とし君はニッと笑って、思い出したように話し出した。

「そうそう、お前同じ夢何回も見るって言ってたじゃん?」

「光の玉?」

「そうそれ、そういうのってさ、心に秘めた強い願いがある奴が見るらしいぜ?」

「強い願いね…」

 なんだろう?


 手首の夢を見た次の日から、定期的に同じ夢を見るようになった。一人掛けソファーに座った僕の両手を淡く光る手首が包んでいる。

 あったかくて気持ちがよかった。

 コミュニケーションを計ろうと手首に向かって話しかけてみたりもしたが反応はなかった。また、手首の夢を見るようになってから光の玉の夢は一度も見ていない。

 

 中学二年生になった八月のある日の夜、夢にさらなる転機が訪れた。

 夢の中の僕は海岸に立って海を見つめていた。空には色とりどりの魚が泳いでいて、海にはたくさんの高層ビルが建っていた。都会が丸々海に沈んで魚を海から追い出してしまったようだと思った。

 僕は無意識の内に一歩ずつ海に入っていく。 

 冷たくて気持ちがいい。

 気づく頃には、お腹の高さにまで海水がきていた。僕は慌てて陸に戻ろうと海を掻き分ける。なのに、いくら歩を進めても陸は遠ざかっていった。

 なんで、どうして!

 いつの間にか首まで海に浸かってしまっている。蟻地獄のようだ。

「だれか、たすけて!」

 もちろん返事はない。

 と、次の瞬間地面がなくなった。僕はいきなり足を引っ張られたように海に沈む。同時に海水が口に流れ込んできた。ごぼごぼと歪な空気の玉が口から溢れ、目の前を通過していった。


 あったかい。

 この温もりを僕は良く知っている。

 光の玉や、手首のそれと同じだ。あったかくて優しくて気持ちいい。

 目を開くと、少女がへたり込む僕を抱きしめて泣いていた。

「ごめんなさい。私…本当にごめんなさい」

 驚いて、僕は後ろに飛びのく。

 目の前の少女は僕と同じくらいか少し年下のように見えた。不思議と初対面のように感じない。

「君はだれ?」

「ごめんなさい。私はミヨって言うの。お……」

 言いかけて口をつぐみ、一呼吸入れて彼女が続けた。

「ゆう君は大丈夫?」

 唐突に名前を言われ言葉に詰まる。

「ゆう君?」

「なんで?なんで僕の名前……」

「ごめんなさい。私あなたの事は良く知っているから」

 伏し目がちに彼女は言った。

「君はあの光の玉なの?あの手首は君の?君はいったい……」

 彼女は答えようとはせず、下を向いている。

「君は実在する人?」

 僕の言葉に反応して、彼女の視線がこちらに向く。

 母さんの様な優しい目をしていた。

「あなたは繋がり。この夢は共有されているの」

 彼女が言い終わったのを合図に朝になった。

 その日の朝、僕は母さんに聞いてみることにした。

「お母さんは夢に知らない人が出てくることってある?」

 母はきょとんとして、食べかけのトーストを皿に戻した。

「そうね。たまにだけど」

「本当?その人とは夢以外に会ったことある?」

「会って話したことはないけど、きっとどこかで会ったことのある人なんだと思うわ」

 コーヒーを啜り、さらに続ける。

「人間は、すれ違った人の事を無意識に記憶していたりするものなの。そう言った記憶の中の人が夢に登場するのかしらね」

 

 彼女と初めて出会ったあの日から、僕は現実の世界でも彼女を探すようになった。しかし、月日だけが過ぎるばかりだった。それに加えて夢の中ですら、あの日以来彼女とは会えていない。

 部屋に置かれた卓上カレンダーは、すでに十一月になっていた。

 次に彼女と出会えたのは十一月からまた少し経った、翌年の五月。

 僕は中学三年生になっていた。


 五月十五日、夢の中。

 その日は森の中にいた。森には虫や動物の気配はなく、植物だけが生い茂っていた。虫嫌いな僕はそのことに胸を撫でおろす。虫がいては、一分もしない内に部屋の天井が現れていただろう。

 後ろの茂みから、ガサガサと音がした。僕はすぐにそれが彼女だと分かる。根拠など一つもなかったのに、その時は絶対に彼女だと思ったのだ。

 もちろん僕の心は踊った。欣然として音のする方向へ僕は駆け出す。


「ずっと探してたんだよ」

 目の前にいる彼女に向かって僕は言った。

「もう会わないつもりだったの」

 彼女は綺麗な目に涙を滲ませそう言った。

「どうして?」

「またあの時の様になってしまうのが怖かった」

「海にいた時の事?」

「そう。あなたが溺れたのは私のせい。だから会わないようにしていたの」

 伏し目がちにミヨは言った。この子はいつだって下を向いている。

「君のせいだとか、僕にはよくわからない。繋がりってどういうこと?」

 いつも以上に下を向いて「言えない」と言ったきりミヨは黙ってしまった。

「君は会わないようにしたって言ったけど、ならどうして今日、僕の夢に現れたんだ」

「誕生日」

 その短い言葉に受ける衝撃はとても大きかった。

「どうして、僕の誕生日を知っているの?」

「あなたの事は何でも知ってる」

 徐々に鼓動が速くなっていく。

「君は何なんだ、誰なんだよ」

「それは言えない。それを望まない人達がいるから」

「何を言っているんだ。望まない人達って誰だよ!」

 口調が強くなり無意識に叫んでしまった。

 彼女はじっと僕を見つめている。

「ごめん。誕生日、ありがとう」

 最大限に口調を柔らかくして伝える。

「ううん、大丈夫。私の方こそごめんなさい」

「僕も君の誕生日を祝わせて欲しいな」

 思い切って言ったのが失敗だった。彼女の笑顔が一変して沈痛な表情になる。

「どうかした?」

「なんでもないの。一つだけ教えてあげる。私は夢の中だけの存在、だからゆう君がいくら外の世界で私を探したって無駄だよ」

 胸の奥がきゅっとなるのが分かった。

「あなたの夢に現れたのは一生に一度のお願いを聞いてほしいからなの」

 幼い子が使うような常套句を彼女は真剣な表情で言った。

 強い思い。

 昔、とし君と話した事を思い出す。

「お願いって?」

「伝えてほしいことがあるの。私たちの—」

 目覚めると。ベッドやシャツが汗でぐっしょりになっていた。

 言いかけた彼女の言葉を考えてみるが、しっくりくる物は何一つ思い浮かばない。

 

 八月二十三日、学校から帰宅すると母さんが泣いていた。泣いている所を見るのは初めての事だったので僕は唖然としてその場に立ち尽くす。

「母さん…?」

 僕に気づくと母さんは、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「おかえりなさい。疲れたでしょ、早く着替えてらっしゃい」

 母は僕に質問させる隙を与えようとはしない。僕もそのことを察して、何も聞けなかった。

 手を洗おうと台所に行くと生クリームの付いた皿が流しのところに置いてあるのを見つけた。

「母さんケーキ食べた?」

「ごめんごめん、ゆう君のもあるから、後で食べなさい」

「ねえ、母さん―」


 その日の夢にミヨは現れた。

 馴染みのある真白の世界。

「こんにちは」

 目の前のミヨが言った。

「もう夜だよ」

「そうね。それと貴方と夢で会うのはきっと最後」

「そんな気はしてたよ。今日の事、君は見ていたんだろう?」

 僕は一つ深呼吸をして続ける。嫌でも声が震えてしまいそうだ。

「君はずっと、僕に頼ろうとしていたんだね」

 頬に二つ涙が流れた。

 僕のと君の。


 母は生クリームが苦手だった。

「ねえ、母さんちょっといい?」

「ん?どうしたの?ケーキなら―」

 あからさまに、はぐらかそうとする母に僕は強い口調で言う。

「母さん!ちゃんと答えてほしいんだ。嘘をつかずに」

 諦めたように母は窓に顔をむけ遠くを見つめている。

「どうしたの?」

「母さんはミヨって女の子を知ってる?」

 途端に、バッと此方を睨み母が叫んだ。

「なんで…?ねえどうしてその名前を知ってるの!」

 母の目にはまた涙が滲んでいた。


「ミヨ、君は僕の妹だったんだね」

 そう、ミヨは僕の妹だ。たった一人の二歳年下の妹。存在すら僕は知らなかった。

「母さんは、ずっと悪いと思っているって言ってた」

「知ってる。私も見てた」

 知っているからこそ伝えてほしいのだと、ミヨは言った。

 母さんは二人目の出産を控えていた頃、事故にあった。横断歩道を渡ろうとした母を老人の運転する車が跳ねたそうだ。信号無視だった。

 その時の衝撃で、お腹の中の赤ちゃんは亡くなった。それがミヨだ。

 八月二十三日はミヨが生まれる予定だった日で母は毎年、その日にケーキを買って、僕には内緒で祝っていたそうだ。

 僕に内緒にしていたのは、わざわざ僕を哀しませたくはなかったと母は説明した。 

 母自身も泣いている姿を息子に見られたくはなかったのだろう。

「君の願いは、自分の想いを母さんに伝えてほしいってことだろう?」

 僕の言葉にミヨが深く頷いた。

  

「私はこの世界を知らない。でもそれはママのせいじゃないよ。絶対に違うよ。だから自分を責めないで。それに私はママを恨んだことなんて一度もないよ。ママのお腹の中で過ごしたことを私はずっと覚えてる。温かくて気持ちがよくて、いつもママは私を愛してくれていたんだから。ママの娘になれてよかったよ。ありがとう」

 僕の言葉に母は驚いた様子を見せ、数秒後には声を出して泣いた。

 母の背を撫でながら、僕は夢の続きを思い出す。


「ちゃんと伝えてね」

「一語一句間違わずに伝えるよ」

「ねえ。お兄ちゃん」

「ん?」

「ありがとう」

「……」

「泣いちゃだめだよ~?」

「そっちだって泣いてるじゃないか」

「おにいちゃん、私はこの家に生まれて幸せだったよ。ありがとう」

 何か言おうとした時にはもうミヨは消えていた。


 真白な世界だった。

 そこには少女が一人いるだけ。

「あなたと私は繋がり」

 照れくさそうに少女が笑った。

 

        

            

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アイネ 宮崎ゆうき @sanosakasa

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