誰がためのものか
都紅葉
さあ、誇りを胸に
ムー・ポリネは、イギリスという地に八年前にやってきた移民だ。故郷であるラトビアを離れ、アフリカから離れたことを思い出すと、今でも感慨にふけってしまう。晴れの日に空を見上げると、少年時代を思い出すのだった。自分が神の子だと言われ、神童と呼ばれていた時のことを。
勉強はできた。運動もできた。しかし、お金がなかったにもかかわらず、両親はイギリス行きのお金を出してくれたのだった。
ポリネは今でも感謝している。
ポリネの住んでいる地域は、昔はイギリス領だったので、英語には苦労しなかった。世界の公用語を身に着けていたことが彼を助けたのだった。
彼はフリーランスのライターで、事務所でキーボードに向き合って文章を打ち込む。仕事だが、雑誌に載せる記事ではない。アフリカを舞台とした物語だった。六年前に、小説家としてのデビューを果たし、今では十一巻目に突入している。
最初、人々はこの物語を奇異な異国の物語として見ていた。それが子供にも大人にも、だんだん評判が高まっていった。今年は、年間発行部数ランキングで三位に輝いた。ポリネは記事を書く必要が無くなり、最近は依頼を断り、小説に精を出している。
ある日、ポリネの事務所に一通の封筒が届いた。ポリネが封を開くと、カッターの刃者が出てきた。驚いて、手を切りそうになりながらも、手紙を取り出す。そこには、彼の小説に関することについて書かれてあった。ポリネは気分が悪くなり、頭が痛くなった。
そこには、「これ以上物語を書いたら、殺すぞ」と書かれていた。綺麗に書かれた文字が異様なほどに、気味が悪かった。作家にはある一定のアンチがいて、そういうことは珍しくないのか、それともついに奴らが動き出したのか。
じぶんは、突き止められたのか。
封筒を見ると、ロンドンの郵便局の印鑑が押してあった。何故かそのことが冷静さを取り戻させてくれた。
「こんなことで立ち止まってはいられない。じぶんには書かなくてはならないものがあるんだ」
平静を装い、自身を勇気づける。窓から夕空が見え、ラトビアの赤はもっと紅かったことを思い出す。あの生まれ育った地は、いつだって一番の故郷なのだった。太陽、月、砂、水、緑、風、そしてそれらすべてを畏怖する人々。いつだって思い出せる。そして、キーボードに向き合い、かの地に思いを馳せるのだった。
それからというもの、用心することにして、重い病にかかり、作家業を長期間休むことを発表した。ホテルの一室に閉じこもり、世間の目から逃れることに成功した。連絡先も信頼する編集者にしか教えなかった。ましてや、アフリカの大地で繰り広げられる物語を執筆していることなど。
ホテル生活をしてさらに二年間が経った。ホテルにこもりきりの毎日だった。外にも出歩くことはない。ポリネはその間も、物語を書き続けたが発表すらしなかった。世界は彼の作品を心待ちにしていて、ネットにも新刊の発売時期を質問するページが、少しずつ増えていった。
ある朝、ホテルの部屋のドアに、一通の封筒が挟まっていた。編集者の誰かひとりが、起こさないように気をつかったのだろうと思い、なかを見た。
そこにはいつかのように、カッターの刃物と手紙が入っていた。悪戯でそんなことをする編集者はいないはずだ。背中から嫌な汗が噴き出してきた。おそらく奴らはこの部屋を突き止めたに違いない。
「編集者のお方にこの部屋のことを聞きました。何をしているのかは分かりませんが、仮病は良くないですよ」
殺すとは書かれていないのは、殺す気がないのか、それとも殺す前提で送っているため書く必要がないからか。
窓にはカーテンをかけてある。開けることは決してない。何があるか分からないからだ。
前と同じように、あの大いなる大地に沈む、大きな夕日を思い出す。俺には故郷の神がついているんだ。
ポリネは幸運なことに、十日前に物語を書き終えたところだった。懇意にしている編集者たちをホテルの一室に集め、新刊の発行の意思があることと書き終えたことを伝えた。彼らは一様に興奮し、満面の笑みを浮かべた。ネットにも発表し、世界中の人々も大いに沸いた。
今までとは違い、上下巻をそれぞれ用意し、二冊セットで売ることに決めた。
編集者や雑誌記者、芸能人、報道番組等がこぞって取り上げた。ポリネは苦しかった闘病生活を過ごしながらも、書くことを選んで良かったと答えた。
そのインタビューでは最後に、世界に向けてこう発信した。
「もし今の闘病生活で、わたしがわたしを失っても、熱い情熱は終わることがない。命を失っていいと思って、書いたものだから必ず発行して欲しい」
その言葉に世界中の人々は興奮し、ファンはじぶんのことのように泣いた。ポリネが世間を完全に味方につけた瞬間だった。
その夜、ロンドンの郊外で車の衝突事故が起こった。乗っていたタクシーの運転手とムー・ポリネは即死だったという。彼は二十九年という短い歳月で、亡くなってしまった。
世界が泣いた。一人の若き天才が、この世から旅立ったことにだ。
ポリネの言葉通り、続編の上下巻が発売され、書店ではすぐに完売し、増刷が繰り返された。世界がアフリカという異境の地に、注目したのだった。彼の故郷のことや両親に神の子と言われ育てられたこと、神童と周りに呼ばれていたことなどが発表された。そして、若き天才は何者であるのかということも。
ムー・ポリネの葬式が新刊を刊行してから、半年後に行われた。何故か式はアフリカではなく、ロンドンで開かれることとなって、誰もがそれを訝しんだ。しかし、ロンドンの場所で式を執り行うことはポリネが遺言で述べたことであったので、仕方がなかった。
ムー・ポリネはロンドンンで沈む夕日になろうと決心したということだった。
式は前代未聞だった。未完の大河物語と思われていた作品の最終刊が出席者全員に贈呈されたのだ。ポリネの情熱が死んでいなかったことに、世界中が喝采し熱狂した。新刊の発売の期待の声が、各紙で反響を呼んだ。波が波をつくり、大きな波となって、巻き込んでいった。
その物語はこのようなものだった。太古の昔からアフリカの大地にある文明が栄えて、一大帝国を築いた。その帝国は神がこの世に産み落とした子供が代々、じぶんの子供にその国の統治権を与えていた。しかし、始まったものは終わってしまうのが世の常だ。七代にも皇帝が続いた帝国が滅んでしまう。その後は一族は、細々と暮らし、最果ての地で生きる。それから、帝国は戦乱のときを経て新たな一つの帝国になった。
そこでは宗教や民族のアイデンティティーを認めない独裁政治が開始され、人々や大地から神様の歴史と文明を奪い去った。既存の歴史は帝国に都合の良いように塗り変えられたのだった。
その後もイギリスが植民地支配をするまで、独裁政治の権威と権力によって、力で民を導く時代が続いていく。
神が生んだ国が産声を上げてから滅び、その文明と歴史、事実が権力者に消されていくまでの過程が、この物語だったのだ。
最終刊の最後に、こう書かれてあったのが、問題となった。
「この話は、ノンフィクションです。今まで読者の皆様に拝読していただいたものも、すべて実話に基づいております。遅ればせながらお伝えすることになり、申し訳ございませんでした」
この物語は、失われた一族の誇りと真実の歴史を取り戻した一方で、一国の独裁政権が傾くまでの被害と反乱、テロ行為を生むこととなった。世界のパワーバランスが崩れたのは言うまでもないことなのだった。
歴史は誰がためのものなのか、それはムー・ポリネの物語に書かれている通りだ。歴史とは勝者のものであり、勝者のための物語なのだ。しかしその常識が覆された時、世界ではきっと何かが動き出すことだろう。
誰がためのものか 都紅葉 @1529z
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