1.12(前編)
「へー、ここがアルクの中かぁ」
「ちょっと、カスピエル。あんまり騒ぐと見つかる」
「別に、どうせ会うんだからいいでしょ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
ギャーギャーと小声で言い合う、僕とカスピエル。戦闘すら始まっていないのに、汗をかき始める。
朝の密談から、数時間後。子供達を預け、連れ立ってアルクにやってきたはいいものの……。
なぜか、人が全くいない。
文字通り、普段ならアルクにちらほら見かけるはずの他の
別に、だからどうとかはないんだけど……ちょっと、不安。何かの発売日なんだろうか?
「そういえば、リョウの言ってた翼って、自分の意志でどうこうはできないの?」
とそこで、真剣な面持ちのカスピエルが質問を投げてきた。
「できない。なんか、アルクから出るときにいつの間にか引っ込んじゃったっぽくて」
「ふーん……謎だね」
果たして今回で正体を突き止められるのか、と独り弱気になっていると――。
「――リョウッ!!」
叫び声。
いつの間にか、右を一緒に歩いていたはずのカスピエルの姿がなかった。いや、彼女は既に回避行動を取っていた。
飛来する
「くっ……!?」
――気付かなかった!?
いや、気付かせてもらえなかった。
ここはアルク。
天使様達が送り込んだ、殺戮のための要塞。
その事実を――失念していたッ!!
体を捻って衝撃を最小限に留めようとする。が、
「リョウッ、どいてッ!」
ゴロゴロと転がる僕の耳に聞き慣れた声が届き、瞬時に
がら空きになった
――剣。
よろよろと立ち上がる僕の目が、カスピエルが右手に持つ長剣に吸い寄せられる。
「Gyа!?」
一方の
「Gаааааааааааааааа!」
怒りの咆哮が放たれるが――しかし銀髪の戦士は、止まることはなかった。動きの遅い
「カ、カスピエル……何者?」
僕には、その一方的な蹂躙を見ていることしかできなかった。
僕の戸惑いをよそに、カスピエルの攻撃は続く。
回避、回避、突き、斬撃。回避、突き、回避、回避。
その内、カスピエルの戦い方には規則性があることに気付く。
回避が多い。
「……ふう、終わった」
そんなことをぼーっと考えていると、いつの間にか戦闘が終わっていた。カスピエルは疲れた素振りも見せずに、倒れて動かない
「あ、ごめんごめん。もしかして、戦いたかった?」
表情をまるっきり変え、ニコニコと笑いながらそんなことを言われる。
「え? ああ、いや……」
「なら良かった」
とりあえず今は目の前の目標に集中することにして、混乱する意識を無理矢理切り替える。
戦闘経験を積む。
稼ぎに直結するその課題を再確認して、僕はカスピエルと共に深部へと歩みを進めた。
♠
その後。三、四体の
場所は、アルクの第一階層の入り口から奥へかなり進んだところ。入り口の扉はとっくのとうに見えなくなり、周囲を深緑色の葉と樫が支配している。
道中、
むしろカスピエルの得物が存在感を示しすぎて、恐れをなしたのかと無用な勘繰りまでしてしまうぐらいの状況だった。
彼女によると、その水色に輝く剣の名は『アクア・スラント』というらしい。天使様達の言葉で『水のようにうねる剣』だそうだ。意味通りうねっているように見えたその剣がバッタバッタと
カスピエルの持つ、圧倒的な強さ。これが、僕の求めている力なのだとしたら……。
彼女の力と、僕が思っている力は、少し違うのかも知れない。
カスピエルの力は、純粋な力としての強さだ。それが物理的であれ精神的であれ、対峙する敵を圧倒することができる。
有無を言わさず、屈服させることができる。
力の強弱が明確に線引きされて、追う者と追われる者を選別することができる。
でも、僕の望む力は違う。
圧倒し、屈服させるのではない。
ミーシャを、ゲイブを。
大切なものを守るための。
自己防衛だ。
たとえ世界が変わろうとも、僕の大切なものを守り切れる力。
それが、欲しい。
――欲しいのか?
頭の中に、聞き覚えのある声が響いた。
『……誰?』
――大切なものを守る力。欲しいのか?
『……欲しい』
いや、聞き覚えがある、ではない。
知っている。
――何を、捧げる?
『……何なら、いい』
この声は。
――大切なものを守るんだ。それなりに大切なものがいる。
『……』
忘れられない、この声は。
――決めた。お前の視力だ。
『……分かった。……右眼を』
――成立だな。
僕の、声。
もう一人の僕が、僕に問いかけている。
覚悟はあるのか、と。
『覚悟は……ある』
なかったら、エルディアに来ていない。
僕は、ミーシャとゲイブの
僕には、ミーシャとゲイブに誇れることはひとつもない。
だからせめて、見届けたい。
ミーシャ達の、行く末を。
そのためなら、どんな犠牲も
――いい覚悟だ。
前に進むための、力。
すなわち、圧倒できて、護ることもできる力。
圧倒するためには、破壊がいる。徹底的に破壊し、屈服させ、ミーシャ達の道をあける。
護るためには、創造がいる。あらゆるものを使って、ミーシャ達を護るための壁を創る。
……結局のところ、カスピエルのような力も、僕の望む力も、大した違いはないのかも知れない。見た目は違っても、内にある本質的な概念はそのままなのかも知れない。
いや、それはどうでもいい。
――お前に、授ける。
こうして、その力が僕の手に入ったのだから。もう、力がどうとかは
難しいことは抜きにして、触れてみたい。
使いたい。
抑えきれない欲望が
――ありがとう。
『なぜ……お礼を……?』
――ああ、お前はまだなんだったっけ。気にするな、すぐに分かる。
――だから、安心して解き放つんだ。
どろりとした液体が溢れ出た。纏わり付き、絡み付き、心がぐちゃぐちゃになっていく。
この流れに身を任せたら、何か取り返しのつかないことが起きそうだった。僕が僕じゃなくなり、何かを失ってしまう。そんな感覚に貫かれたが――。
ちょっとぐらい。
ちょっとだけなら。
「……ゥ……ョウ……リョウッ!?」
「…………!」
そこで、混濁した意識の
どうやら僕は、意識を失って倒れていたようだ。
「……カスピ、エル……」
「いきなりぶっ倒れて、気が気じゃなかったよっ!」
「……心配してくれたんだ?」
「……そ、そりゃあ……仲間として放っておけないから」
拗ねたようにそっぽを向くカスピエル。何か怒らせるようなこと、言ったかな……。
「ありがとう。ちょっと、
「……なら良かった」
少しカスピエルの表情が和らぐ。その顔に一瞬
そういえばカスピエルに助けられるのって、熱中症の時も含めて二回目だな……。
そんなことを漠然と考えていると、不意にカスピエルの口調が鋭いものに変化した。
「……っ!? リョウ、背中!」
端的な言葉に、しかし僕は状況を正確に理解した。
「……つ、翼……」
漆黒の翼が、またもや発現していた。
♠
「……つ、翼……」
リョウが、黒い翼を見詰めながら呆然と口にした、その言葉。
翼。
本来なら天使と悪魔だけに許される、この世の
天使は純白の翼を、悪魔は漆黒の翼を持ち、互いに宙を舞うことができる。他の人間には到底達することのできない域だと考えられていたのだが。
目の前の光景を、カスピエルは
『ウソッ!? ほ、本物の、翼ッ!?』
心の中で毒づきたくなるぐらいに、それは衝撃的だった。
元々このリョウという少年は、魔物としての兆候をカスピエルに見せていた。膨大な魔力といい並大抵じゃない身体能力といい、何かあるというのを感じ取っていたのだ。
実際、彼が
しかし。
『高位悪魔だなんて、そんなの聞いてないよっ!?』
カスピエルの予想を大きく上回り、リョウは特大の翼を生やした。
その状態でさえ、天使軍は
もちろん最終的に彼らを魔界に封じ込めることに成功したので、他の天使達は彼らに劣っているなど
元々下界の
しかし、
全域に住んでいる下界の住人を見捨て。
逃げ隠れた。
他の警邏班員と同様に、自己保身に走った。安全な天界に逃げ戻り、独り震えた。
今も心の中に深く根付く、
力に対する恐怖ではない。
民を見捨てた後悔でもない。
醜い自分に対する、劣等感。
ちょっとばかり魔法が使えて、翼を持つだけで、カスピエルは絶大な力を持ったように錯覚していた。一方的な優越感に浸っていた。
それが、打ち砕かれた。
天使が全てを支配しているなんて、
自分の醜さに苛立ち、無力さに
それが余計に、突き刺さった。
自分の弱さに気付いて、それでいて何もしない。ただ嘆くだけ。苛立つだけ。
変わろうとしない。
上辺だけ取り繕って、本質では変わらない。むしろ、拒む。
それを
自分も、下界の人間と何ら変わらない。むしろ、力を
そんな事実を、突きつけられた。
胸を衝くような事実に打ちひしがれたまま、数百年を無駄に過ごした。
生きる意味を、ほとんど失った。唯一あるとすればそれは下界の観察だったが、あまり興味を持たなかった。ただ虚ろに
転機は、リョウという少年だった。膨大な魔力を保有し、ヒューマンに変身できる能力を持った魔物は初めてだった。「原因を突き止めろ」との命令には、潜入捜査も含まれるはずだ。そう考え、カスピエルはこの不思議な少年に帯同することに決めた。
この純粋な少年なら、あるいは私の進むべき道を示してくれるのかも知れない。私の知らない感情を、理屈を、教えてくれるかも知れない。
そう思ったカスピエルは王都まで来て、危険なアルクにも潜った。そこで――。
彼の正体が、分かった。
『【люцифер】……それに、【ксерофан】も関わっている……?』
心の中で、そう呟いてみる。
漆黒の翼と、高位悪魔の証であるその大きさ。
異常なまでに多い魔力。
平凡なヒューマンの平均的な身体能力を大きく超えた、その潜在能力。
カスピエルには、それら点と点が繋がった気がした。
『ただ……』
アルクが、違う。
数年ほど前に【Азраил】から聞いていた話と、相違がある。
何かこう、まるで生きているような――。
カスピエルの長考は、そこで切断を余儀なくされた。
「カスピエルッ!! あれはっ!?」
異形の魔物が目に飛び込んできた。
基本的なシルエットや躯体は、
荒々しく呼吸を繰り返すそのさまは、自分達に遣わされた
だからカスピエルは、それが持つ得物に目を向けるのが致命的に遅かった。
「カスピエルッッッ!?」
リョウの声が遠くなって。
禍々しい大剣を持つ
時が止まった空間でひとり、カスピエルは懺悔の言葉を口にした。
ああ、これが民を見捨てた代償だというのなら。
甘んじて受け入れよう。
「ごめん……なさい……」
自らの身体を布のように斬る大剣を見たのを最後に、カスピエルの意識は
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