ふたつのアップルパイ

呼元 くじら

涙と酸っぱいアップルパイ

アップルパイは甘いと思っていた。


 この間まで楽しかったものが急に嫌になることは普通にあると思っている。例えば趣味に没頭した末、完全に飽きてしまったり、好きな芸能人の熱愛報道を耳にして一気に嫌いになったり、とか。どうでもいい事だけど、それが前までは日常の一部だったんだから、それが急になくなるとやっぱり物寂しいというか、退屈である。ましてやそれが「恋」だったら。そう、恋だったら、寂しいとか退屈どころではない。ときめきと期待と希望で満たされた気持ちが、自分の中から、まるで淹れたてのコーヒーから昇ってなくなる湯気のように消えていく。毎日が冷えきってしょうがない。願いは……叶わないものだ。それでも空っぽの日常を埋め合わせるために、頭のずっと奥から幸せだった記憶を手繰り寄せる。


 前から何となく気になってはいたのかもしれない。高校に入学し、春が過ぎ夏が過ぎて、秋を迎えた頃から話すようになった。余裕のある雰囲気を醸し出し、少し気怠そうな、そんな人に惹かれるのが私の性質だ。彼は全て当てはまっていて、気になるようになったのは当然のことだったと今になって思っている。毎日がいつもよりほんの少し鮮やかになった。あの紅茶色の瞳を見るだけで穏やかな気持ちになる。けれど、好きになってはいけない。叶わないものに期待をしても傷つくだけというのは痛いほど経験してきた。歯止めを利かせてどうにか気持ちを操作していくしか私には選択肢がなかった。

 好きになる前に身を引こうとした時に、引けなくなってしまった。これが、私の後悔。

 後悔へ近づいた一歩目は、彼に、一緒に帰ろうと誘ったことだ。誘ったら一緒に帰ってくれた。その時は本当に帰ってくれると思っていなかったから驚いたけど、あの後考えた末、彼の性格から見て、あれは大して凄いことではなかったのだろうという考えに着いた。帰り道は何とか一緒にいられる時間を増やそうと、いらない相槌を打ったり何となくゆっくり歩いてみたり、そうやって時間への下らない抵抗を続けた。話の中で、彼に誰が好きなのかを聞いたがはぐらかされて終わった。気になったが、その時はその時間の甘酸っぱさを噛み締めるのに酔っていたのもあって、そんな事はどうでもよくなっていた。

 そして次の一歩。また帰れないかと期待していたら、次の機会が幸運にも降ってきた。指先が真っ白になる程寒い冬の暮れ、前と同じように、彼は電車通いの私のためにわざわざ自転車を引っ張って遠回りしてくれた。クラスの友達10人程で固まって帰ったものの、彼はずっと私の横にいてくれた。私は駅の入口で立ち止まり、何とか何とか話を続けようと粘った。だが粘る必要はそこまで無く、彼が次々と話をふってくれるので、凍える寒さを忘れて普通に会話を楽しんでいた。たまに寒くないか気遣ってくれたことをまだはっきりと覚えている。何だかんだ数時間もの長い時間話した。まるで、焼きたてのアップルパイの香ばしさを吸い込んだ時の、蕩けた気分。しばらくそのなめらかな気分に浸かり、帰りは夢見心地で電車に揺られた。別れ際にまた一緒に帰ろうと言えたこと、彼がそれに頷いたこと、私が階段を下り終わるまで自転車に跨らなかったこと、一瞬一瞬全てが頭に焼き付いて、その数時間のことがしばらくは信じられなかった。

 

それから数週間が過ぎ、私はあの質問の答えを思い知った。その後からは彼の声すら耳を塞ぎたくなるほど嫌になった。彼にはやはり好きな人がいた。そして彼の今の席は、彼が好きな彼女の隣。授業中、楽しそうに笑い合う彼と彼女の声が、聞きたくなくても耳に刺さってくる。鬱々とした目で黒板をぼやっと見つめ、頭はただただ空疎な1日をゆらゆらと旋回している。「苦しい」。苦しいと感じるということは、……もはや「気になる」存在ではない。「好き」な存在であるということ。苦しいと思った瞬間それは「好き」に陥っている。やってしまった。「好き」になってしまったからには後戻りはできない。だから全てを停止させて消し去るしかないと思った。自分から離れて、忘れて、兎に角剥がし捨てたい。けれどこの気持ちに終止符を打つ決断が出来ずに、今年もあと残りわずかとなってしまった。

 今年最後の部活を終え、マフラーをぐるぐると巻いてゆっくりと冷えきった階段を下りる。下駄箱から取り出した靴を床へ落とした音が、乾いた空気を彷徨う。はあ、と白いため息を吐きながらだるい足を外へ動かす。いつもの癖だが、ふとグラウンドを眺めてしまう。見つけたとしても声はかけられない彼を探して。

ふと誰かに呼ばれた。好きな声だった。

「あれ? 茅乃じゃん〜、部活終わったんだ?」

「うん、今ね。類陽は今日は部活は?」

久しぶりに話す。彼は舌を出して言う。彼らしい仕草。

「今日はさぼった。」

「あ、そうなの。誰か待ってるみたいだけど?」

「え? そう見える?」

彼は得意のポーカーフェイスではぐらかそうとした。自嘲するもう1人の自分が、わざと冷やかすような口調で言った。

「有由歌を待ってるとか?」

「なんで有由歌を俺が待つの?」

「いや……なんとなく?」

「何それ、謎なんだけど。」

いや、……さっきから私と話しながら階段の方を盗み見てるじゃない。今か今かと待ってるんでしょう?

「もう知ってるよ。」

「え? 何を?」

「あ、有由歌だ。ふふ、うそうそ。」

やっぱり。今ほんの少したじろいだ。もう泣きそうだ。

「なんだよ、俺の好きな人そんなに知りたいの?」

「いや、もう知ってるからいいんだけどね。じゃ、また明日ね〜。」

彼が私を引き止められないように、カツカツと門へ急いだ。

 日が経つにつれて益々寒くなる暮れ時、もうそろそろ手袋をはめないと霜焼けになるなあ、と考えながら地下鉄まで歩く。いつも乗る車両に乗り込み、スマホを取り出して、あの頃に教えてもらって何回も聞いた曲たちを全部消す。ゴーッと吸い込まれるように電車が暗いトンネルに入った。ふと顔を上げると、電車の硝子に涙をとめどなく零す少女が映った。

 どうやら終点の切符を切ったようだ。

 


 目の前の、美味しそうな香りを漂わせるアップルパイに飛びついてはいけない。予想通りに甘くはなく、そのアップルパイは涙が出るほど酸っぱいのだから。

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