スピーカー人間

@yoooook2

 あたしの友達が、『スピーカー化』した。

 日本で最初の『スピーカー人間』だった。





 それは、高校一年の初夏のこと。中学から上がってまだ間もなく、あたし達は新しいクラスに馴染むのに死にものぐるいだった。

 その頃のことを思い出すと後悔で胸が張り裂けそうになる。

 あのときは、クラスの子に笑顔を向け、話しかけ、必死で共通の趣味を見つけて、少し仲良くなれて安心して。あたしはあたしのことで精一杯だった。だから。同じ中学出身の紫苑も、当然クラスに溶け込めているとばかり思っていた。あたしは紫苑のことを、見ようともしなかったのだ。紫苑の言葉に、投げかけられた視線に、答えようともしなかった。彼女はあたしに助けを求めていたかもしれないのに。

 大宮紫苑。淡いむらさきがよく似合う少女を、あたしは忘れない。

 心に深く突き刺さった棘のように、ことあるごとにうずいて痛みが止まらないのだ。


 ちょうどその頃、『スピーカー人間』なるものが世界的に話題になっていた。そこらへんにいる普通の人が、急にスピーカーに変身して暴言を吐きまくるという怪奇現象だ。アメリカやヨーロッパを中心に、スピーカーになっていく人がちらほら増えていた。原因は不明。謎のウイルスのせいだとする説や、宇宙人からの攻撃、人類滅亡の予兆など、さまざまな説が飛び交うが、詳しいことは何も分からないままだった。原因も、処置法も、防ぐ手だても何も解明されないまま、スピーカーになる人が日に日に増えていく。『スピーカー化現象』が日本に上陸するのも時間の問題だと考えられていた。そんなとき。

 紫苑が、スピーカー化した。

 あたしの目の前で。

 梅雨が再開したと思われるような、蒸し蒸しした居心地のわるい天気の日だった。じっとりした空気が髪にまとわりつき、誰もが落ち込んだ気分になっていた。窓の外では、どっちつかずの雨がさわさわと降っている。そんな気分の悪い日に、あたしと紫苑は二人連れ添って廊下を歩いていた。久しぶりの二人の時間に、よく話が弾んだ。

 彼女は、ふわふわして、いかにも守ってあげたい女の子という雰囲気をかもしながら、どこか一本筋の通った少女だった。何を考えているか分からないときもあったけれど、あたしはそんな紫苑が大好きだった。だれよりも彼女のそばにいて、だれよりも彼女のことを分かっているつもりだった。しかし。

 それは突然に。

 紫苑が、普段の彼女からは想像出来ないほどの凄まじい声を出した。あたしは驚いてとなりを見た。「紫苑?」名前を呼んだと思う。しかし、答えるものはおらず、あたしの横にいたのは、焦点を失った目であんぐりと口をあけた、紫苑の姿をした化け物だった。恐怖に立ち竦んだあたしは、紫苑だった『それ』の目から涙がどろりとこぼれるのを見た。そして、変化が始まる。スピーカー化だ。

「まつりちゃん」。そう言ってほほえんでいた紫苑の優しい顔が、ぐにゃりと歪んで変形していくのを、あたしは何もできずにただ見ていた。耳が千切れそうな奇声とともに、親友の身体から白いスピーカーがにょきにょきと出てくるのを、学校の冷たい床にへたりこんで見ていた。開け放した学校の大きな窓からは、雨を含んだ風が勢い良く吹き込み、あたし達を頭から濡らしていた。濡れた床にへたり込んだあたしの口からは、声にならない悲鳴が長く尾を引く。やがて、紫苑の制服に穴を開けて、白くいびつな花がめきめきと姿をあらわしていった。親友の顔の面影はほとんどなくなり、足が生えた町内放送用の拡声器みたいになった彼女から、第一声が漏れた。

『いい子ぶりやがって、ウゼエよな!』

 スピーカー人間は、主にSNSやインターネット上でかけられた暴言を、まるで言い返すかのように言いまくる。よって、スピーカー化する人は、陰湿ないじめに耐えてきて、それが爆発してしまった人が多いそうだ。つまり。青白い不気味な化け物と化した紫苑が叫ぶ、痛くてたまらない言葉の凶器は、全て彼女にかけられた文字で。学校の隅々にまで響き渡ったその音を聞いて、渋い顔をして目をそらした人は、何人いたのだろうか。

 紫苑の親友であったはずのあたしはこの時、初めて彼女がいじめにあっていたことを知ったのだった。

 それを思い出すだけで胸が痛む。今でもこんな気持ちになるのだから、あの時の罪悪感と、死にたいほどの自分に対する嫌悪感や無力感は形容しがたいほど大きなものだった。

 耳が痛くて、心も痛かった。何もかも痛くて、目の前が真っ暗になりかけていた。あたしを見下ろす紫苑の目は、不透明に白濁してどぶのように濁り、もう人間のものではなくなっていた。あたしが知っている親友の、大きく澄んだ茶色い瞳が目の奥にちらつき、醜く変貌してしまった紫苑がなによりも悲しくて、あたしは叫んだ。

「もういいから!分かったから!」目から熱い汁がにじみ出てきて。

「紫苑、ごめんね……」口の端から染みてきた涙は、舌がしびれるほど辛かった。

 顔をぐちゃぐちゃにして泣き崩れるあたしに、何重にも重なり合ったスピーカーの音が降りかかる。それはあたしに、深く、深く突き刺さって、どんな傷よりも荒々しく心臓を抉った。聞くに耐えない言葉のひとつひとつが、紫苑に向けられたものだったという事実がなによりも辛い。

 目と耳を固くふさいで、気を失いかけていた。

 そんなとき、あたしの肩に、手を置く者があった。

「これはレベル4に達しているな。危ないじゃないか。レベル3以上のスピーカー人間にこんなに近づいちゃ。」

 涙でぬれた目をあげて見上げると、ぼんやりくすんだ視界に、男の顔が映る。

『ぎゃあああああああああ!』その背後で、耳をつんざく叫び声がした。あたしは驚いて、男の肩越しに覗き見ると、同じような服を着た数人に、紫苑がゴムベルトのようなものでぐるぐる巻きにされてもがいていた。

「紫苑!」思わず叫んで身を乗り出すと、男に両肩をがっしり掴まれて、無理やり引き戻された。

「はなして!紫苑が!紫苑が!」身をよじって抵抗するが、肩をつかんだ手は強い。その間に紫苑は、口やスピーカーに栓をされて音を出すことができなくなっていた。

「しおん!」暴れまくるあたしを、男は力任せに引き戻し、顎をつかんで顔をぐいっと自分の方に向けさせた。「よく聞け!」鼻と鼻がふれあいそうなほど、あたしに顔を近づけて男は怒鳴った。その声に驚き、あたしはやっと黙って、改めて男の顔を見る。その瞬間、びっくりするほど美しい顔が、目に飛び込んできた。彫りが深く細い鼻、薄い唇、完璧なまでに美しく弧を描いた眉。切れ長の大きな目にかぶさるくっきりとした二重のまぶたの奥には、外人のようなはしばみ色の瞳が光っていた。そんな彼が、あたしの目をぎっと見つめて、諭すように言った。

「お前の友達は、おれたちが預かる。絶対に殺したりしない。」少し間を置いて、あたしがしっかり聞いていることを確認した。

「大宮紫苑さんは、スピーカー人間になってしまったんだ。」

 大宮紫苑さん。彼は、言葉を声で包むように、紫苑の名を丁寧に呼んだ。それが、紫苑を人間と認めてくれているようで、少し安心した。

「スピーカー……にんげん」あたしが呟くと、男はちいさくうなずいて続けた。

「いま、世界中の研究者がスピーカー化現象を食い止めようと頑張っている。おれたちは……。おれは、大宮紫苑さんをそういった研究者のもとに連れて行って、彼女がもとに戻れるように最善をつくすつもりだ。」

 問いかけるような目をむけてきたので、目線で答えた。

「だから、紫苑さんを連れて行くけれど、しばらく紫苑さんに会えなくなるけど、大丈夫かい?」優しい声だった。思わずこくんとうなずいたあたしに、彼はにっこりほほえみかけ、手を伸ばしてあたしのほおの涙を拭ってくれた。優しい指の感触がしばらく残る。

「よし、良い子だ。」あたしには、そう言って白い歯をみせた男の非の打ち所のない美しすぎる笑顔、それしか見えていなかった。芸術的ともいえるその青年の美貌は、あたしの感覚を麻痺させていた。

「おれは桐谷桃吾。」彼はふいにすっくと立ち上がって、あたしに手を差し伸べた。

「社茉莉さん。」あたしの名をフルネームで呼んだ彼の、逆光になった細長いシルエットをぼんやり見上げた。あんなに激しく降っていた雨は、彼の登場を祝福するかのように晴れて、金色の光が差し込んでいる。大人かと思った彼は、あたしと同じ学校の制服を着ていた。

「おれと一緒に、スピーカー処理委員会に入らないか。」切り絵のような黒い影が、落ち着いたバリトンの声を出した。遠くに響く雷鳴と相まって、それはひどく耳に心地よく。

 何も分からずその美青年の大きな手の平に手の平を重ねたあたしは、その時から、委員会に入ることを心の底で決めていたのかもしれない。

 これが、スピーカー処理委員会、そして委員長の桐谷桃吾先輩との初めての出会いだった。

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