第76話 初めての海


 都市部の南側に広がるとても白いという砂浜、その手前に設けられた施設にある個別の更衣室で、各々が思い思いに選んだ水着へと着替えた。そしてその中で一番に着替えを終えたらしかった私は、一足先に施設の前でリゼたちを待つことにした。


「さて、そろそろ他の皆も着替えを終えた頃かしら……」

「あっ、メル! その……えっと、どう、でしょうか?」

「あら……! ふふ、とっても素敵よ、リゼ。本当によく似合っているわ」

「えっ、ほ、本当ですか? ありがとうございます、メル!」


 リゼは、先にあのお店で私が一番最初に彼女に勧めた、淡い桜色の生地に白いフリルが贅沢にあしらわれたとても可愛らしいビキニを身に着けていた。そしてその胸元に飾られた大きな白リボンの両脇から顔を覗かせているものたちは、ただ其処にありながらも、極めて強い存在感を放っているように感じられた。


「それにしてもあなた……本当に、立派よね」

「立派って……? 何がです?」

「いえ、何でもないわ……」

「それよりメルは白にしたんですね! その雪のような肌の色と目が覚めるような金の髪色に本当によく似合っていますよ! 上下共に大きなフリルが層を成していてとっても豪華ですし、メルの雰囲気にもぴったりだなって感じがします」

「あら、そう? ふふ……フリルはかなり多めだけれど、生地自体には何も柄がないから、ちょっと寂しいかなとは感じたのだけれど、あなたにそう言って貰えると、これを選んで正解だったと思えるわね」


 私とリゼとが二人してお互いをそう評し合っていると、程なくして着替えを終えたレイラとエフェスが揃ってその姿を現した。


「まぁ、レイラにエフェス。あなたたちも今着替え終わったのね。二人とも、それぞれ違った良さがあって素敵じゃないの。とってもよく似合っているわよ」

「そ……そうですか? ふふ、ありがとうございます、メル」

「これ良いでしょ? リゼお姉ちゃんが一番最初に選んでくれたやつだよ」


 レイラは当初、私とリゼのように上下が別れたビキニ形式の水着では無く、上下共が一繋がりになった形式のものを選んでいるように見えたものの、今彼女が纏っているものは、紛れもないビキニで、レイラの空色をした長い髪によく似合う、海そのものを湛えたような濃淡のある青に、陽光を受けて煌く、粉雪のような箔が散りばめられた美麗な柄で、さらにその腰元には、半透明の薄い布が巻かれていた。


 それからその長い髪は、前側が左右の蟀谷こめかみの辺りからそれぞれ垂らされ、後側は大きな三つ編みの形に結んだ髪を左右から徐々に交差するように持ってくる形になっており、さらに碧玉サファイアのような色を湛えた髪留めを使ってそれらを中央で一つに纏め、その残り毛を下に垂らしている感じになっていた。


 そしてもう一方のエフェスは、レイラが最初に選ぼうとしていた上下が繋がった形式の水着を身に着けており、薄氷のような淡い翡翠色の生地に白い水玉模様が入っていて、腰から下にかけて白いスカート状の布地がひらひらと揺らめき、肩口や胸の辺りにも同色のフリルがあしらわれ、さらにその胸元や腰元に配された大きな白リボンには、そのふちの近くが線状に走る青緑色で飾られていて、それと同じようにして彩られた大きな襟と共に、非常に爽やかな装いを見せていた。


 加えて、彼女もレイラに手伝って貰ったのかその髪型が変わっていて、その長髪は真珠のような輪で左右対称に結われた形になっていた。


「さて……と、砂浜に向かう前にこれをしっかり肌に塗り込んで、馴染ませなくてはね。塗りにくいところはお互いに手伝って塗り合いをしましょう」


 私はそう言って、錬金術で創り出した日焼け止め効果を持つ軟膏剤を取り出し、適量を腕や肩、そしてお腹や脚などに付けた後にそれを手で伸ばして満遍なく塗り込むという一連の使い方をレイラたちに実際にやって見せ、自分では塗り難い背中やうなじなどの場所は他の人に手伝ってもらうようにと伝えた。


「は……はははは! く、くすぐったいですってば、メル! 背中は……背中は本当駄目! は……ひぃ! ぞ、ぞわってします!」

「んもう! そんなに動いたらちゃんと塗れないでしょう? あなたは本当に昔っからくすぐったがりなんだから……私もあんまり人のことはいえないけど、ね」

「えっと、メル、こんな感じで塗っていけばいいんですか?」

「そうそう、そんな感じよ。エフェスの首の後ろ側もしっかり塗ってあげてね」

「これ何だかひんやりして、ぞわってするよね」

「分かるよエフェス……さっきからメルがね、お姉ちゃんをいじめ……ひっ!」


 たかだか日焼け止めを塗り合いするだけでもまさに大騒ぎといった感じで、異様にくすぐったがるリゼにもしっかりと塗り込んであげた。私もリゼほどでは無いにせよ、流石に背中の辺りを触れられた時にはかなりのくすぐったさを感じて、思わず吹き出してしまった。まだ砂浜にすら辿り着いていないというのに、既にもうこれほど全てが楽しく感じられてしまうのは、我ながら本当に不思議だった。


「さぁ、これで準備は万端だわ。では早速皆で浜辺に向かいましょうか!」


 そうして施設を後にした私たちは、次第にその濃さをましていく潮の香りに導かれるようにして近くにある防砂林の中を歩き、ややあってその叢林を抜けた際に視界が眩いばかりの白に支配された後、やがてその姿を露わにした青に、私は思わずその両足を立ち留まらせて息を呑んだ。


「これが……海、なのね……」


 それは、地平の彼方に向かってその深みを増していく鮮やかなあおと、抜けるように澄み渡った曇りなき青を湛えた空とが交わる世界。何処までも果てしなく広がる水面には、その美しさに囚われたであろう陽光が煌々と揺蕩い、肌を撫でる爽やかな潮風は、遠くを翔ける海鳥たちの歌声と、寄せては返す波のさざめきとの協奏をこの耳に届けてくれているようだった。


「やはり絵画で見るのと、実際にこの目を通して感じるものとでは、まるで違いますね……何というかこう、圧倒的というか……すごいとしか言葉が出て来ません」

「本当ですね……私はこれまで町から見える運河しか見たことがありませんでしたが……この海というものは一体どこまで繋がっているのでしょうか」

「すごい、これが海なんだ! 今まで色んな所に行ったけど、こんな大きな水たまりは他に見たことないよ!」


 皆が皆、思い思いの感想を述べる中、私はいつか夢の中にまで想い描いていた場所に自分が立っていることがまだ何処か信じられないようでいて、今自分が感じているこの感覚が本当に現実のものなのかどうか、半信半疑なところさえあった。


「……メル、そんな顔をしなくても、私たち本当に海に辿り着いたんですよ。それは同じようにこの風景を目の当たりにしている私が、断固として保証します」

「リゼ……? あなた私の心を読んで――」

「いえ、そんな大層なことはとても。ですが、何となくそういうお顔をされていたので、つい」

「……いえ、ありがとうリゼ。そうね、私たちは本当にここまで来れたんだもの。だったらこんな顔をしていてはいけないわよね、ふふ……!」


 その瞬間、私の中に渦巻いていた一抹の憂いを、過ぎゆく潮風が運び去ったのを確かに感じた。そして程なく鮮明さを取り戻した視界の中で、いつの間にか波打ち際で白波と戯れながら無邪気にはしゃいでいるエフェスの姿が目に留まった。


「ほら、私たちも早く行きましょうよ、メル! レイラも!」

「ええ、そうね!」

「はい!」


 足元に触れた清らかな滄はとても冷涼で心地よく感じられ、その気持ちよさに心を浸したのも束の間、太陽のような笑みを満面に湛えたエフェスが、リゼに向かって大きな水鞠みずまりを勢い良く、その手足を使って飛ばし始めた。


「わわっ、冷たいよエフェス! 何するの!」

「あはは! だって何だか心が飛び回ってる感じがして、こうでもしないと体が爆発しちゃいそうなんだもん」

「んもう、そういうことなら私だってお返ししちゃうからね! えいっ!」

「うわぁ、しょっぱい! じゃあ私も本気出しちゃうもんね、リゼお姉ちゃん!」


 傍らで激しく水を飛ばし合っているリゼとエフェスは、さながら年の離れた姉妹が一緒に遊んでいるかのように見えて、何とも微笑ましかった。ただ一つ、その水飛沫みずしぶきの余波が、こちらにも飛び火として次々と襲い掛かってくることを除けば。


「はは……二人ともすごく楽しそうですね、メル。水がこっちにまで飛んできちゃってますよ」

「全く、とんだ巻き添えだわ。けど……悪い気はしないわよね、ふふ」

「えいっ」

「きゃっ! レ、レイラ! びっくりするじゃないの!」

「あはは! ごめんなさいメル、でも二人を見ていたら私も勝手に身体が動いてしまって、ついやっちゃいました」

「……ふふ、私を背中から襲うだなんていい度胸だわ。それなら私もつい、身体が勝手に動いて反撃しちゃうわよ……ねっ!」

「ひゃあっ! て、手加減はちゃんとしてくださいぃ!」


 それは、誰かと一緒にただ水を飛ばし合っているだけの、何でもない時間。

 しかし、今の私にはこうした有り触れた瞬間の中に自分の身を置けることが、とても尊く、そしてまた心から幸せであるように感じられた。

 

 それから私は、心の中でこう強く祈った。

 願わくばこの時間が、いつまでも長く続きますように、と。

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