第77話 逆巻く波を掻き分けて
「あ……そういえばメル、今更ながら髪はそのままで良かったんですか?」
「ええ、私はこれで良いのよ。だって……泳げないもの」
「ああ……そうでした。すみません、くだらないことを訊いてしまって」
「全然気にしていないわよ。ほら、早くエフェスに泳ぎを教えてあげなさい。私はレイラと二人でしばらくここで涼んでいるから。まぁ、あなた達が戻って来るまでに何か皆で楽しめるような面白い遊びが無いか、この冊子を見て考えておくわね」
「リゼお姉ちゃん、早くぅ!」
「あっ、今行くから待ってて! ごめんなさい、メル。それじゃあちょっとだけ行ってきますね。またすぐに戻って来ますから!」
砂浜には海水浴に訪れた人々が休憩を行えるような施設もあり、今はまだ営業していない様子だったものの、近くの案内板を見る限り屋内では飲食までも楽しめるようになっているとのことだった。
そして施設の前には日除けの傘が幾つも立てられていて、それぞれの下には白く塗られた木製の円卓と椅子が置かれた空間が設けられていたため、私と同じで泳ぎが達者ではないレイラと一緒に、其処でリゼたちが遊んでいる光景を遠目に眺めつつ、しばらく二人で涼んでいることにした。
「それにしても本当に意外です……メルが泳げなかった、だなんて」
「実はね、小さい頃は泳げたの。けどある日、近くの湖にお母様たちと出かけたことがあってね。その時、泳いでいる最中に脚が急に
「なるほど、そんなことが……確かにそういう過去があると、泳ぐことに抵抗があるのも解る気がします。私の場合は単に身近な水場がグラウ運河と下層区の水路しかなかったもので、泳ぐ機会というかその必要性自体があまり無かった感じです。そのせいか自分の足が届かない場所に行くというのは、何だかちょっと怖くって」
「……まぁ、気が向いたら私たちもリゼに泳ぎを教わりましょうか。ここに住んでいれば海に行く機会も多いから、水に触れている間にそういう抵抗感も段々和らいでくるかもしれないわ」
「そうですね。ところでリゼはどうしてあんなに泳ぎが上手なのですか?」
「リゼの場合は水泳が体術における修行の一環でもあったみたいでね。元々身体を動かすのが好きなのもあったのでしょうけど、昔私が夏場に湖や川へ涼みに訪れた時も、よく私のお兄様と一緒になって泳いでいたわ」
その間、リゼやお兄様は私がまた泳げるように、何度も優しく誘ってくれたものの、私はそれをこの今に至るまで拒み続けてきてしまった。あの時、ほんの少しの勇気を出して一緒に泳げるようになっていれば、楽しい時間の記憶が今よりもっと多くあったかもしれないように思える。
「小さい頃に感じた恐怖って、どうしていつまで経ってもあんなに大きなままなのかしらね……私自身はここに来るまでの間、もっと危険な行動に出たというのに」
「それは――」
「メ、メルお姉ちゃんたち! リゼお姉ちゃんが大変なの!」
レイラの言葉を遮るようにして急に声をかけてきたのは、リゼと一緒に泳いでいたはずのエフェス。私とレイラがほんのちょっと視線を離していた間に何かが起きたようで、つい先ほどまで笑みを満面に湛えていたはずの彼女の顔が、今では打って変わって真っ青になっていた。
「えっ、大変って……リゼが? 一体、どうしたの……?」
「よく分からないけど急に足がおかしくなって、泳げなくなっちゃったみたい! しかもその辺から急に深くなってるっぽくて、足も届かなくって……魔現も、ほとんど攻撃にしか使ったことがないから、どうしていいか分からなかったの……!」
「落ち着いてエフェス! リゼが今、どの辺りに居るかだけ教えて頂戴!」
「分かった! とにかくこっちに来て!」
そうしてエフェスに導かれるがまま波打ち際へと駆け付けて、彼女が指し示した辺りに目を凝らしてみると、視線の先に何か点のようなものが現れたり消えたりしているのが見て取れた。それから間もなく魔導で強化した視力を以て再確認したところ、果たしてそれがリゼであることが判った。
辺りを見渡してもまだ今が初夏であることも手伝ってか、声の届く距離には人影が全く見当たらず、今すぐ誰かに助力を乞うことは叶わないようだった。そしてさらに不運なことに、私たちの近くに救命用の浮具となりそうなものが、ただの一つも認められなかった。
「くっ、どうしてこの辺りには浮具の一つも置いていないの……!」
「リゼ……! さっきまで浅いところにいたはずなのに、もうあんな遠くに! ですが私たちは泳げませんし、浮具もない中でどうやってリゼを助ければ……!」
「レイラも見えたのね……きっと潮流か何かに巻き込まれて沖に流されたのよ! こうしてはいられないわ……レイラ、あなたのその髪留めを私に貸して!」
「えっ? は、はい!」
「……これで、よしっと!」
レイラの髪留めを借りて長い髪を強引に後ろで纏めると、次の瞬間にはもう私の身体がリゼが居る方へと向かって独りでに動き出していた。背後でレイラが大声で何かを叫んでいる気がしたものの、もはやその言葉を解する余裕でさえ今の私にはないようだった。
「はぁ、っく……! リ、リゼ……どうか、無事でいて……!」
泳ぎ方なんて何がどうだったか頭では覚えていない。ただ無我夢中でリゼのもとに辿り着くことのみを考えながら身体を動かし、行く手を阻もうとする波を両腕で必死に掻き分け、脚に絡み付く海水を強く蹴り飛ばし続けた。
そうこうするうちに、いつしか点だったものがお手玉ほどの大きさになって、そしてやがてそれが蹴鞠ほどの大きさへと変容していき、最終的には私の手の届くところにまで迫って来た。
「リゼ!」
「くあっ、ごほっ! メ……メル⁉ ど、どうして!」
「何でもいいから早く私の後ろに掴まりなさい!」
「す、すみません……! でも、これじゃあメルが……!」
「首に腕を回しても魔導で身体を強化しているから全然平気よ! とにかくしっかりこの私に掴まっていて頂戴!」
私に身を預けたリゼを水中で背負いながら、かなり遠くに見える砂浜を目指して私は再び全力で波を掻き分け始めた。今度はリゼの身体を抱えながらであるため、いくら魔導で身体能力を飛躍的に向上させているといっても、先ほどまでのように速く進むことは出来ない。
「大丈夫、リゼ?」
「は、はい……何とか。急に脚が
「そんなの全然構いやしないわ。それより、早く岸まで辿り着かないと……!」
しかし奇妙なことにいくら前に進もうとしても、岸辺までの距離は一向に縮まることがなく、むしろさらに遠のいていくような気さえして、私がリゼを目指してここまで一心不乱に泳いでいた間は、ずっと鳴りを潜めていたであろう恐怖の足音を、その時初めて明確に感じ始めていた。
「そんな……どうして? ちゃんと前に進んでいるはずなのに……!」
「メル、このままでは二人とも、沈んで……しまいます……ここは――」
「駄目よリゼ! 私は絶対に諦めないわ! ようやくここまで一緒に来れたのだから……こんなところで、終わらせなんてしない……!」
ただし現実はそんな私の想いとは裏腹の姿をありありと見せつけ、私が足掻けば足掻くほどいたずらにその体力ばかりを消耗し、目的地までの距離は縮まるどころか、先ほどよりも明らかに遠くなっているのが判った。
「きっと何か、何かまだ手立てがあるはず――」
「――に掴まりなさい!」
「えっ? これは……」
その時、聞き覚えの無い女性の声と共に、不思議な材質で出来た大きな輪っかのようなものが突然私たちのもとに投げ入れられた。どうやらそれは強力な浮具であるらしく、私は何よりもまずリゼの身体がその輪の中に入るように、持ち上げた輪っかを彼女の頭の方から即座に被せた。
「さぁ……こっちよ!」
そして私は行く手を阻む水塊を再び掻き分け始めた。
ただひたすら、見も知らぬ女性の言葉に
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