第71話 目覚めたあとで


「その声は……エヴァ! あなたなのね……!」

「ご名答です。しかしこの有様は……あなたたち、ここで一体どんな戦いをされていたのですか?」

「……私たちはただ、大事なものを守りたかっただけよ」

「ふふ……助かっ……た」


 リゼはそう言うと、意識の糸がぷつりと途切れたかのように、仰向きのまま後ろへと倒れ込んだ。


「リゼ!」

「……大丈夫。眠っているだけです。命の心配はありませんよ」

「そう、良かった……わ」

「おっと。あなたもですか」

「ごめんなさい……もう、何処にも力が入らない、みたいで」

「構いませんよ。どうか今は安心して、眠って下さい」


 自然に前のめりになった身体をエヴァに預けた格好のまま、私は彼女の姿が遠のいていくような感覚を覚えた。そして次第に全身を支配していた痛みと、耳に入り込んで来る微風の囁きとが途絶え、視界から光が急速に失われると共に、鉛のように重く感じられていた身体が、突如として風に攫われたような感じがした。



 ***



 何かが頬を過ぎった。これはきっと窓から迷い込んだ、風のいたずら。

 瞼の向こうで何かが揺らめいた。それはきっと枝葉をしたお日様の足跡。

 誰かが私の名前を近くで呼んだ。この声はきっと、とてもよく知っている、声。


「――ル、――ます、――も晴れて、――日和ですよ」

「……ゼ」

「――りますか⁉ レ――ださい! ――を覚ましそうです!」


 鼻をくすぐるものは、どの花よりも高貴な薔薇の香り。

 手から伝わるものは、何よりも暖かな、あの温もり。

 瞳の中に映るものは、誰よりも大切な、あなたの笑顔。


「……リゼ」

「ようやくお目覚めに……なられたのですね、メル! 心配……したんですから、もしもこのまま目を覚まさなかったら、一体どうしようって、私……!」

「馬鹿ね……この私が二度と、あなたを独りにするわけがないでしょう?」

「ふふ……馬鹿でも何でもいいですよ……こうしてまたメルが、私の名前を呼んでくださるだけで……私は、誰よりも幸せ者、なんですから」


 そして間もなく、リゼの背中側にあった戸が勢いよく開かれ、その向こうから満面の笑みを湛えたレイラが、衣類と思しき布を両手一杯に抱えながら、私の傍らにまで駆け寄って来た。


「わぁ……本当に目を覚まされて……! こうしてまたあなたと言葉を交わすことが出来て本当に何よりです、メル!」

「ふふ、ありがとう、レイラ。あなたにもまた随分と心配をかけたようだけれど、何とかまたこっちに戻ってこれたようだわ」

「本当に良かったです……今日はお祝いをしなくてはいけませんね!」

「そんな大袈裟な……でも、お腹はかなり空いているようだわ」

「それならもうちょっとでお昼ですから、私やレイラと一緒に頂きましょうよ! 着替えのお洋服もこちらでご用意しておきますね」

「あっ、そういえば私もまだ洗濯物を干していたばかりでした……! これを片付けたら、またすぐに戻りますね!」


 リゼとレイラの二人が、その目を煌かせながら各々はしゃいだ様子で居るのが手に取るように伝わって来て、何だかとても嬉しい気分になってくる。


「ねぇ、リゼ。私、一体どれくらいここで眠っていたのかしら?」

「えっと……三日半ほどになりますかね。私の方は一足先に目が覚めたのですが、ここはフランベネルの南西にある、ヴェルデルッツォという町だそうで、青々とした田園風景が広がっていて、とても長閑のどかな、いいところですよ」

「へぇ……ちょっと窓の外を、見てみたいわ」

「あっ、お立ちになられますか……? 今、私の肩をお貸ししますね」


 三日半に渡って動かさなかった足腰はまるで錆びついた車輪のように節々が固くなっていて、足先にまで上手く力を通すことが中々に難しく感じられた。


「ゆっくりで、いいですよ。私も起きてすぐの時は、全く同じでしたから」

「ありがとう、リゼ。世話をかけるわね」

「いえ。ここの窓からだと、近くの木であまりよくは見えませんが……」


 それからリゼに導かれるまま窓辺へと移動し、その風景を瞳の中に収めた。


 リゼの言う通り、窓の近くにある木々の枝葉が、視界の多くを占めるものの、その木間を通して伝わってくるものは、蒼と碧、緑と翠とが、日向と日陰の狭間で揺らめきながら、お互いに争う事無く見事な調和を描いている光景だった。


 そしてまた同時に、今私の居るこの部屋の位置が、建物の三階かつ最上階の部分であることも判った。追手から逃げているという意識がまだ心の何処かに強く残っていて、すぐに緊急時の退避経路を探してしまう癖は、いずれ何とかしたいところ。

 

「それにしても本当、見事な田園風景ね……たわむ青田が風の動きを見せてくれているようで、とても美しいわ。彼方に見える翠巒すいらんからも、瑞々しい山気が伝わってくるようね。あそこに見える風車もきっとそれを受けて喜んでいるのではないかしら。あとでまた書き留めておかないと……」

「ん……書き留める? メル、ひょっとして何か書き物をされて――」

「いえ、何でもないわ。それより外に出る前に一度、聖肌水スミュルナでこの身体を綺麗に拭いておかないと……」


 三日半に渡って眠っていたとはいえ、神や妖精ではない私たちの身体は、生きていれば必ず汚れてくるもの。たとえいかなる状況であろうと、人の身であるものの務めとして、最低限度の清潔さだけは保っておきたいところ。

 

「あっ、それならきっと大丈夫ですよ。私とレイラとが交代で、今日の朝もメルの身体を綺麗にしたばかりですから」

「そう、なの……? それは、どうもありがとう。あら……そういえば、何だか下着も新しくなっているような……」

「僭越ながら私とレイラとで、何度かそのお召し物を取り換えさせていただきました。他の人には決して見せてはいませんので、どうかご安心を……」

「まぁ、あなたとレイラにそうしてもらっていたのなら、別に構わないわ。その身体を拭いてもらっていたこともそうだけれど、あなたたちに要らぬ面倒をかけてしまって、申し訳ないくらいよ」

「……とんでもありませんよ! むしろ……」

「むしろ、何?」

「いえ、何でも! それよりこちらに外出着をご用意しましたので、あとでまたそちちの仕切りでお着がえを。必要であれば、お手伝いしますから!」


 ――今一瞬、リゼが不思議な表情を見せていたような気がしたけれど、あれは一体何だったのかしら? まぁ、今は考えても仕方がないわね。


「ところで、あの子は今、何処に?」

「あっ、エフェスのことですか? それなら今レイラと一緒に、屋上で洗濯物を干すのを手伝っているはずですよ。ちょうどこの真上のあたりなので、さっきもそうだったんですが、この窓から呼びかけても十分に聞こえるようです」

「そうだったの。でもどうしてさっきはレイラと一緒に来なかったのかしら?」

「きっと……今も自分のせいだって、強く責めてしまっているんだと思います。私たちが勝手にやったことだからと言っても、やはりその気持ちに変わりはないようで、メルとも中々顔を合わせ辛いところがあるかもしれません」

「なるほど……この後、食事の席でまた改めて話をしたいところね」


 ――エフェスはエフェスで、きっと心底辛かったはずだわ。

 私たちが居なければ、訳も分からないまま誰かのために使われて、またその誰かの勝手な事情で殺される人生だった。そんなの、あまりに悲しいじゃない。

 あんな風に偶然出会ったのもきっと何かの縁。私たちに出来ることがあるなら、ただそれをするまでよ。


「あ、それと……うっかり忘れるところでした。エヴァという方からメル宛てに、こちらの手紙を預かっていたのです。あとでご覧ください」

「エヴァから……? ありがとう。必ず目を通しておくわ」


 ――私たちに訪れた窮地を二度も救ってくれた人……エヴァ。

 そんな彼女が残してくれた手紙には、一体何が書いてあるのかしら。

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