第32話 運河を越えて
レイラの治癒術によって、
そしてそのレイラは彼女自身の希望もあって、私たちが乗る船の寄港先の一つでもあり、また彼女にとって故郷でもある熱砂の都――マタール王国まで私たちと同行することになった。
そこで私は自身の判断で、彼女には偽名ではなく、リゼと共に本名を名乗ることにした。それはこうしてレイラと過ごせる時間が、もうそれほど長くはないことに加え、怪我を治療してもらった恩もあり、特に信頼に足る人物だと感じた彼女に、私なりにせめてもの敬意と謝意とを表した結果だった。
なおクリストハルトの一件は、オスヴァルト伯によって間もなくザールシュテット中が知ることとなり、王城があるフェルゼンハイムにも伝書鳩を通じてすぐに連絡がいくだろうとのことだった。
この件に関しては私たちがこれ以上介入することも出来ないため、一抹の憂いを残すものの、あとの事はオスヴァルト伯に一任するほかなかった。
今はこの運河を越えて、一路フィルモワールを目指すのみ。
「あの男を逃してしまったのはどうにも後味が良くないけれど……でもこうして無事に運河を進むことが出来たのは幸いだったわ」
「そうですね。しかしメルと共に屋敷に居た時には分からなかったもの……外の世界には様々な人間の思惑が渦巻いているということを、よく思い知らされたような気もします」
「ええ。まぁあちらにはあちらで、腹づもりがまるで見えない連中が犇めき合っていたから、色の違いみたいなものかも知れないけれどね。結局妖魔よりも人間の方が厄介だということなのかしら……」
甲板を過ぎる早朝の風は肌に沁みるというより、むしろ清々しくさえ感じられる。
そう思わせてくれるのはきっと、この運河を越えた先に私たちの目指す場所があるという事実から来る、期待感のようなもの。
「あの……メルさん、私ずっと気になっていたことがあるんですが」
「あらレイラ、何かしら?」
「こんなことをお訊ねするのは失礼かもしれませんが……その、ひょっとしてお二人は、誰かから追われているのでしょうか?」
「……そうね。偽名のこともあったし、私たちのやり取りを見ていたならそう思うわよね。ええレイラ、はっきり言って私たちは追われている身よ。そしてその原因を作ったのは私自身。けれど、私は何一つ間違ったことをしていないと天地神明に誓ってそう言えるわ」
――本当なら追われるのは私一人で済んだのだけれど、リゼは自ら進んで私が本来独りで負うべきだった責を分かち合う、という選択をしてくれた。そしてそんな彼女が居てくれたおかげで、こうして目的地に向け確かな一歩を踏み出すことが出来る。
「分かります。私はまだほんの少しの間ですけど、メルさんたちの近くに居ましたから。そんなお二人が何か悪いことをしてきただなんて、私には欠片ほども思えません。きっと何か一言では表せないような、大変な事情があったのですよね」
「ふ……そうでも無いわよ。積もり積もったものもあるけれど。私ね、自分が知らない間に一度も会ったことがない相手と結婚する手筈になっていたの。そして私は娘に黙ってそんなことをした父親がどうにも許せなくて、家を飛び出して来たのよ」
「メル、そんな個人的な事情のことまで――」
「良いのよ。だって本当のことだもの。けど私の家はちょっと普通とは事情が違って、そんな理由で家を棄てることは決して許されないことなの。だから私とリゼは追っ手が容易に手を出すことが叶わない遠くにまで、早く行く必要があるのよ」
私は自ら家を棄てて、父が堅持したいであろう家名にも泥を塗って来た。
今頃は偽装した逃走経路も見破られて、本格的な追跡が行われているはず。
そして貴族院が擁する諜報組織は、目標を達成するためなら手段を選ばない。
時間が経てば経つほど、私を取り巻く状況は必ず不利になる。
故に、その勢力圏外に可能な限り早く達するのは、最善の一手。
「そう、だったのですか……すみません、何だか変なことを聞いてしまって」
「ふふ、別に構わないわ。訊かれたからというのもあるけれど、私が話したかったから話しただけだもの。ただマタール王国に着いたら、私たちのことは全て忘れた方があなたのためよ。いつか誰かに何かを訊かれても決して答えてはならないわ」
「ごめんなさい……私、メルさんたちと出会ったこと、忘れろって言われても忘れることは出来ません。私の命が今もこうしてあるのは、お二人のおかげです。それを無かったことにしろと言われたら、私が何処にも居なくなっちゃいますから」
「レイラ……」
「でもメルさんたちのことは何を訊かれても、幾らお金を積まれようと、絶対に誰にも話しません。それだけは、この救って頂いた私の命に懸けてもお約束します」
「……命を懸けては駄目よ。命より大事なものなんて、あるわけないから。けど、そう言ってもらえて嬉しいわ。大丈夫、レイラのことは信じているから。もしもの時は前に私が伝えた場所に居る人物を訪ねれば、きっと悪いようにはならないわ」
「はい……ありがとうございます、メルさん」
――ここからフィルモワールに達するにはまだまだ時間がかかる。
今はもう船の上だから、レイラの故郷であるマタール王国の首都、アル・ラフィージャに寄港するまで、彼女とリゼと私とで、もう少しお話をするぐらいの余裕は十分にありそうね。
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