幕間 第2幕 決して消えないもの
「母上!」
「お、お母様……!」
――お母様の前に立ち塞がっている黒いあれは、一体……何?
獣でも人でもないのに、獣のように猛々しく、人のような形をしたあれは?
それにこの……背筋が凍り付いてしまいそうな異質な気配は、何だというの?
「二人共こちらに来ては駄目! 今すぐここから離れて、救援を呼びなさい!」
「お、お兄様、一体あれは……!」
「この異様な気配に、あの容貌……きっとあれが、妖魔だ」
「妖魔、ですって……?」
妖魔。つい最近、学院で歴史の授業を受けた際、その存在のことを教わった。
世紀を跨ぐほどの間隔で、何処からともなく次々と現れては、人々の歴史に深い傷跡を遺して、また何処かへと去っていく。人からはかけ離れた異能の力と屈強な肉体とを併せ持ちながら、その多くが霧に包まれたように判然としない、謎の種族。
――授業では最後に妖魔たちが現れたのは、今から半世紀ほど前だと言っていた。
なら今ここに、その妖魔と思しき存在が居るのは、一体どうして……?
でもそんなことより、このままではお母様の身が危ない!
「私の、せいだわ……私があんな所に、鞄を置き忘れたりしたから!」
「メル、僕を見て! いいかい? よく聞くんだ……! 母上は錬金術で造った護身用の法具で、この場を何とかしのいでいたようだが……これ以上は持たないように見える。だから――」
「お兄様! 私は一体、どうすれば!」
「落ち着くんだ……! これから僕は、あの妖魔と闘う。まだ師匠には遠く及ばないが、エーデルベルタの剣技があれば、注意を逸らすことぐらいは出来るはずだ。そしてメル、君は今すぐ母上と屋敷に戻って、このことを父上たちに伝えてくれ」
「それではお兄様は……お兄様は、どうなるのですか!」
「救援が来るまで、何とか持ちこたえてみせるさ。これまでの修練は、全てこのような時のためにあったのだから。メル、君はまだ小さいけれど、もう一人前の淑女だ。ここからは一個の人間として、ただ成すべきことを成すんだ……いいね!」
「あっ……お兄様!」
――私が今、成せること……とてもあの妖魔というものの相手は出来ない。
お兄様やお母様の手助けをすることも叶わず、むしろ足手まといになる。
非力で無力な今の私が出来るのは、助けを呼ぶぐらいしか、ない……!
「
――お兄様が私たちの逃げる隙を作って下さっている、この隙に!
一刻も早く屋敷へと戻って、お兄様に助けを送らなくては……!
「お母様! 一緒に参りましょう!」
「エルヴィン……もはや一刻の猶予もありません。急ぎましょう、メルセデス!」
――私たちが可能な限り早く戻りさえすれば、きっとお兄様を救える。
だから今は振り返る暇なんて無い。ただ前を向いて、成すべきことを――
「メルセデス、いけない!」
「――っ!」
「……メルセデス、大丈夫?」
「え、ええお母様。私はだいじょ――」
――お母様の背中に幾つも見えるこの歪なものは……一体、何?
どうして、お母様の御召し物が赤く、染まっていくの……?
何……? 一体これは、何が起きたというの……?
「え……何、何なの、これ……? こんな、こんな……お母様の体……が」
「無事、だったのね……メルセデス。良かった……ぐふっ!」
「お……お母様ぁ! 血が……血がぁ、こんな、に……!」
――目はどんどん霞んでいくのに、どうしてこの赤は消えないの?
どうして、こんなに鮮明に広がっていくの? 何故? どうしてなの?
何をどうすれば、この赤を拭い去ることが出来るの? どうすれば……!
「よく……聞いて。メルセデス……あなたは今すぐ、ここから、馬車のあるところまで走って……屋敷に、向かうの。そして、お父様にこのことを伝えて、頂戴……そしてあの子、エルヴィンを、助けてあげて」
「お母様……! 私、お母様を置いてなんて、いけない……! こんなの……こんなの、嫌!」
「ここに……居ては、あなたの命まで、危ない……あなたと、エルヴィンは、私がこの身を、痛めて産んだ、何よりも大切で、誰よりも愛しい……人。例えこの身が朽ち果てようとも、失うわけには……いかないの! 解って、メルセデス……」
「あぁ、お母様……! うっ、私は、私、は……!」
「泣かないで……メルセデス。たとえ姿は見えなくても、私はいつだって、あなたたちと共にあるわ……私が、二人へと注いだ愛の灯は、何者にも消すことなど出来ないのだから……さぁ、お行きなさい、メルセデス。今までも、これからも……ずっとずっと、私は、あなたたち二人のことを、愛して……いるわ」
「私も、私も……お母様のこと、ずっとずっと、ずっと……愛していますわ!」
「ふふ…………」
「……お母、様……?」
「…………」
「あ……あぁ……!」
「行くんだ……行くんだメル! 走るんだ……走れ! 振り返るな! 前へ進め!」
「う……うぅ……うわぁああぁぁあぁあ!」
霞んだ視界の中で、前へと踏み出す足がもつれても、振り返ってはならない。
舌が絡まり、言葉を失い、そして喉が枯れても、前へと進まなくてはいけない。
時間は私を待ってはくれない。ただ刻々と、遠くなる声を背に走るほかにはない。
――ただ、成すべきことを成すために、自分自身を信じて。
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