幕間 忘れられないものたち

幕間 第1幕 まだ其処にあったもの


 今日は、お母様とお兄様とが、わたくしの急病が回復したお祝いとして、兼ねてより訪れたかったこの美しい森――フィーン・アジールにある大樹のもとへと、私を連れて来て下さった。


 リゼには無理と心労を掛けた結果、風邪を引かせてしまい、この場に連れてくることがどうしても叶わなかった。いずれまた別の機会に、二人で再訪しなくては。

 あの大樹の、荘厳で見事な在りようは、リゼにもぜひ間近で見てもらいたい。


 しかしこれから屋敷へ戻ろうとした時、私はどこか気が弛んでいたのか、自分の大事な鞄を大樹の根元付近に置き忘れてしまっていることに、ようやく気が付いた。


「メルセデス、鞄を置き忘れたのは分かりましたが、あなた独りで戻らせるわけにはいきません。ほらエルヴィン、あなたも一緒に付いて行ってあげなさい」

「お言葉ですがお母様……私、もう九つになりましたのよ! あちらへ行って戻ってくるぐらい、独りでも大丈夫ですわ。お兄様の手を煩わせるわけには――」

「メル。確かに大樹はここから見えているぐらいだけれど、道中はちょっとした森になっていただろう? あそこにはまれに狂暴な妖獣が現れることがあってね。もちろん、君がもう一人前の淑女レディであることは百も承知だけれど、念のため僕に同行エスコートさせて欲しいんだ」

「では……お兄様がどうしても、と仰られるのなら」

「じゃあ、どうしても。いいかな?」

「分かりました……ではどうかお傍をよろしく、お願いいたしますわ」


 ――どうしてあんなところに、お母様から頂いた大事な鞄を置き忘れてしまったのかしら。ひょっとすると、あの大きな幹に圧倒されて、少し呆けていたせいかもしれないわ。


 しかしあろうことかお兄様に、こんな御側付きのような真似をさせてしまうだなんて、これでは一人前の淑女からはほど遠いわね……。


「ごめんなさい、お兄様。このようなことを、させてしまって」

「気にすることはないよ。人間、幾つになっても、うっかり粗相をすることは誰にだってあることだろうから。こうした失敗から学んでいけば、大丈夫だよ」

「そうですね……本当に、そうです。同じ過ちは、決しておかしませんわ」

「ふふ、そんなに気を張ることはないよ。ゆっくりで、良いのだから」


 ――お兄様はいつもお優しい。


 私に至らないところがあっても、お父様のように厳しく叱責するでもなく、まるで手のひらで柔らかく包み込んでくれるようで。私が解るように同じ目線で話してくれて、今だって自然と私と歩調を合わせていて下さる。

 

 そんなお兄様を、私は心からお慕いしておりますわ。


「でもこうして二人きりで話すのは、何だか久しぶりのように思えるよね。学院の方はどうだい? 今はリゼと一緒に通っているんだろう?」

「はい。お母様にお願いして、リゼと共に通えるようになってからは……前よりも見える景色が明るくなったような、そんな感じがします」

「そうか。最近は、この身の上を色々と言われることもあるだろうけれど、メルはメルであることを、忘れてはいけないよ。それは、本当に大切なことだからね」


 ――これまで貴族階級が持っていた影響力が、近年になって次第に弱まる一方で、それまで虐げられていた階層の人たちが、次々と新しい産業などを興して大きな力を手にし、私たち貴族の存在を疎ましく思うようになってきている。


 そして最近は学院などにおいても、それをこの身に感じるところが多い。

 私は何を言われても極力相手にはしないようにしているけれど、リゼは私が悪く言われていることを腹に据えかねて、周囲と衝突することもしばしば。

 

 リゼの気持ちは本当に嬉しい。あの子が傍に居る限り、私は独りぼっちじゃないから。でも私のために、あの子まで虐げられるようになるのは、何とも心苦しい。


 お兄様の言う通り、私は私。貴族であるのは、ただ生まれた家がそうであっただけだというのに。しかしそんなことを相手が察してくれるわけもなく、偉くもないのに偉そうにしているのが鼻につく、という理由で疎んじる人も少なくはないようで。

 人間って、本当に難しい生き物だなって思う、今日この頃――


「無事に着いたよ、メル。どの辺りに置き忘れたか、心当たりはあるかい?」

「あっ、はい。えっと、確か……」


 ――確か大樹を一通り見た後、近くの川面で水を手ですくって飲もうとして、その時に肩に掛けていた鞄を下ろしたはずだから、きっとこのこんもりとした苔の絨毯を渡った先にあるはず。


「……やっぱり! ありましたわ、お兄様!」

「ちゃんと見つかって良かったね、メル。じゃあ、母上のところに戻ろうか」


 お母様から頂いた大事な鞄。結構長く使っているから、今となってはこの淡い桃の色合いや、動物やリボンの刺繍が、少し甘すぎるようにも感じられるけれど、好きなものは好きなのだから、自分に嘘をついて見栄を張っても、仕方がないわ。


「それにしてもメル、その鞄、ずっと大事にしているんだね。今でもまるで新品のように見えるよ」

「はい……ふふ。私が七つの時にお母様から頂いた、大切なものですから。しかしこれをあんな所に置いてきてしまっただなんて、本当に大失態でしたわ……」

「けど、酷く汚れたり何処かが破れたりしていなくて良かったじゃないか。次からは何処かに置き忘れないようにね」

「ええ、お兄様」


 ――それにしてもこの森、本当に妖獣なんて出ることがあるのかしら。

 森と言えども道中は割と拓けていて、陽もまだ良く入ってくるせいか、そんな気配はどこにもないように感じられるのだけれど。


「ん……メル、今何か聞こえなかったかい?」

「えっ? 私には特に何も……」

「……間違いない。僕たちが最初に来た方向から叫び声のようなものが聞こえる」

「えっ、最初に来た方向って……そんなまさか、お母様が!」

「……少し走るよ、メル!」


 ――嘘、でしょう?

 もしお母様の身に何かあれば、私の……私のせい、だわ。

 お母様……どうか、どうかご無事でいて下さい!

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