貴族令嬢なんて、辞めてやりましたわ!
綾野 れん
序章
プロローグ
――お母様。
このメルセデスの身勝手を、どうか、お許しくださいませ。
私はただ今より、このラウシェンバッハの名を棄て、ただ一人の己として、生きる道を選びます。
なぜなら私は、伯爵家に生まれた娘である前に、物ではない、感情と意思とを持った、一個の人間だからです。
お母様から
幼い頃は、まだ大きく思えた、この白いリボンで、こうして――
髪の内から少しの分だけを集めて、左右に結って下さいましたわね。
それからこの、海を往く水光を捕まえて、宝玉の中に閉じ込めたかのような瞳。
私はまだ海というものを、絵画の中でしか見たことがありませんが、いつかこの目に収めて、その本当の色を感じてみたいものです。
そしてもちろん、この手足も、肌も、声も……何もかも。
お母様から頂いたその全てが、いつまでも私だけの宝物です。
この姿見に映る自身を見る度、記憶の中のあなたが、囁いてくるようで。
ですが、それもこれまで。
私の中で色褪せないあなたの笑顔に、これ以上甘えてはいられなくなりました。
あなたの姿が見えなくなってからお父様は……本当に人が変わってしまわれた。
かつてのお父様なら、娘の婚約を密に結ぶなど、到底考えられないことでした。
幼馴染のリゼには、
彼女の人生を、私の勝手に巻き込むわけには参りませんもの。
もし事前に伝えていれば、彼女は必ず、同行を願い出たでしょう。
お互いに、もう己の責任が取れる、
彼女には彼女の自由と、幸せを得る権利があって然るべきです。
何より彼女は、多くの才能に恵まれているのですから、このまま私専属の侍女として留めておくには、過ぎた存在ですわ。
ただ一つ、文を
朝を迎えれば、彼女は事の真相の全てを知ることとなりましょう。
己を護る術として、かつてお兄様が使われていた、このしなやかな曲線を描く宝剣――リベラディウスを拝借しました。エーデルベルタ流の
そしてもう一つ、お母様が使われていたこの本革の
***
――この隠し通路を使うのは、一体いつ以来でしょうか。
お母様のクローゼットの中にある、一番右奥のハンガー。
そのフック部分の金具を外せば、中が鍵状になっていて……隅に並ぶ二架の書棚を正面から見て、右隣に掛けられている青い海を湛えた絵画、その陰に隠された小さな穴の奥に、それを挿して左に回せば……ふふ、このように左側の棚が動くという仕掛けでしたわね。
小さな頃はあんなに高く見えた通路の天井が、今は手を伸ばせば届きそう。
でも今は、この右手の人差し指に小さな灯りを燈すだけで、精一杯。
よくリゼと一緒に、こうして屋敷を抜け出しては、彼女に下町を案内して貰ったものです。お母様からはこっぴどくお叱りを頂戴しましたけれど、この通路を塞ぐことなく、今に至るまで残しておいて下さったことには、感謝の言葉もありません。
通路の終わりを告げるのは、訪れる者を外界へと導く、錆に塗れた
其処に施された真新しい
こちら側から開くのは容易いも、一度それを閉ざせば、開錠の文言を示さない限り、外側からは開くことの無い、開かずの扉。
そして恐らくその文言は、新たなものに書き換えられていることでしょう。
しかしながら、私がこの扉を目にする機会は、きっと二度とはやって来ないのですから、私が二の足を踏む理由は、もはや絶無。
今はただその先へと、この足を踏み出すのみ。
外はもう、黒の帳がすっかりと下ろされて、星明りのみが照らす世界。
肌を過ぎる夜風は、本当ならばこの身を切る程に、
けれど、お母様が錬金術で編まれたこの
今しがた閉じた扉に、向けるものはこの背だけで十分でしょう。
私はもう、この家の者……貴族の令嬢では無いのですから。
この言葉遣いも、もう要りませんわ……いえ、要らない。
けれど最後に一度だけ。他でもない、あなたへ向けて。
それでは、お母様。
メルセデスは、行ってまいります。
貴族令嬢なんて、辞めてやりましたわ!
これからはどうか、等身大の私を、空の上から見ていて下さいね。
親愛なるお母様へ、あなたの一人娘にして、今はただのメルセデス、より。
さぁ、行こう。星光列車に乗って。
ここではない、ずっとずっと、遠くへと。
この今から、私の全てが、新しく始まるの。
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