第52話 黒い火

 兵士たちは全員起こすことに成功した。

 しかし逃げ道がない。

 唯一の退路であった階段は、既に火炎地獄と化している。


 映画や漫画だと、登場人物は炎の中を気合で突破できることになっている。

 実際にはとても無理だ。

 燃え盛る炎は、人が近寄ることすら許してはくれない。


 炎の勢いは秒単位で増しているようにも感じる。

 熱風は手足をあぶり、煙は目と喉を傷めつけてくる。


「ど、どうしましょう」


 焦ってしまって頭が回転しない。

 いや、一生懸命回してはいるのだが、軸だけ空回りしている。

 汗が垂れてくる。もちろん暑いからという理由だけではない。


「そうだな……火の回りが早すぎる。階段は無理だ。飛び降りるしかない」


 兵士の一人――この中ではリーダーと思われる――は落ち着いた様子で、飛び降りが唯一の手段であることを示した。

 そして、片手で俺の肩をがっしりと掴んだあと、階段とは反対の方向に歩いていった。


 人の手というのは不思議なものだと思う。この一掴みで、なぜか一気に落ち着いた。

 兵士の行き先を見る。


 なるほど。廊下の先の窓か。

 各個室に備えられている窓は、ほんの申し訳程度の正方形の小窓だ。人が出られるほど大きくはない。

 しかし、廊下の階段と反対側の突き当りにある採光窓。そこなら大きさは十分だ。

 開かないタイプの窓だが、あれを破ればここから――。


 そう思ったときには、すでにカイルがどこからか木の椅子を持ってきていた。それを鈍器にして窓を叩き始める。さすが。動きが早い。


 ――あ、そうだ。


「ベッドの敷布団をマットにして、その上に飛び降りましょう」


 俺はそう提案して一番近い部屋に入り、ベッドの上に敷かれていた藁布団を手にした。

 二階から飛び降りたとしても死ぬ可能性は高くないだろうが、下は硬めの地面だったはず。そのまま飛び降りると怪我をする可能性はある。藁布団なら緩衝材として使えるだろう。


 今ここにいる彼らは、首都から一週間以上かけて来てくれた兵士たちだ。こんなところで怪我をして首都へ送還されようものなら、なんのために来たのかわからない。

 そして何よりも――クロだ。

 ここで骨折させることがあってはならない。


「窓壊れたよ!」


 藁布団を取ってきたら、窓の破壊はちょうど終わっていた。

 地面に向け、藁布団を落とした。


 他の兵士も、近くの部屋からまだ燃えていない藁布団を取ってきていた。それを次々と下に落としていく。

 あっという間に即席の衝撃吸収マットができあがった。


「考えたな」


 リーダーの兵士が満足そうにそう言うと、俺の肩をバシンと強く叩いた。


「よし! 時間がない。一人ずつどんどん降りていけ!」


 それを合図に、兵士から次々と飛び降りていく。


 カイルが俺の尻を叩いてきた。行けということだ。


 振り返って、クロの前でしゃがむ。

 嫌でも目に入ってくるクロの背後の景色は、すでに兵舎のものではなかった。

 ただただ燃え盛る、火の海。


「クロ、俺が抱えて飛び降りる。覚悟はいいか?」

「すまない。頼む」


 俺はクロを抱えた。

 正しい犬の抱え方などはわからない。ゆっくり考える暇もない。

 適当に、前足と後ろ足の付け根あたりを包むようにして持ち上げ、手前に寄せて体に密着させた。


「あのさ。こんな時だけど」

「なんだ」

「抱えるのは初めて、かな」

「……そうだな」

「ちゃんとした抱え方、わからないから。苦しかったらごめんな」

「大丈夫だ」


 すでに散々あぶられていた自分の体は、全体が火照っていた。だがそれでも、クロの体温はしっかり感じた。


 そのまま窓に向かい、下にダイブした。




 ***




「そこに座って頭を出せ」


 国王がこの城に滞在中、使うことになっている部屋。

 俺は事件を知った国王に呼び出されて来たのだが、入るなりそんなことを言われた。


「え? あ、はい。こうですか」


 正座で座ったら、国王に頭をポカっと叩かれた。


「痛っ……」

「バーカ」

「あの。前にも同じようなことを言ったかもしれませんが、国王が国民に『バーカ』はいかがなものかと――」

「バカに『バーカ』と言って何が悪い」

「……」


 国王は背後に回ると、後ろから抱き付くようなかたちで、俺の首に手を回してきた。

 そしてすぐ耳元に顔を近づけてきて、ささやくように話し始めた。


「何か異変があればまず報告が基本だろ。一人だけ変なところに入れられたのであれば、まずその時点で言いに来るべきだったはずだ。仕事は報告、連絡、相談だ。違うか?」

「いやあ、違わないです……」


 国王がわざわざ小声でしゃべっている意味には、なんとか気づいた。俺も小声で返す。

 部屋の外にはヤマモトや女将軍などが控えているが、万一ということもある。

 そう。聞き耳を立てている領主側の人間がいるかもしれないためだ。


「またお前の考えていたことを当ててやろう」

「はあ」

「会談間近の余に余計なことを考えさせまいとして言わなかったのだな」

「……相変わらず正確なことで」

「気遣いはありがたいが、今回はすぐ言うべきだったな。お前が廃屋の兵舎に入らなかったら、今回の事件は起きなかったかもしれぬぞ」

「どういうことですか?」


 国王がさらに声を潜めた気がした。


「わざわざお前が引き離されたタイミングで、しかも兵舎の周りは城側の警備の者が見回りをしているにもかかわらず、火事ときた。あまりにも不自然すぎる。おそらく、お前を殺すための放火だ」

「やっぱりそうなんですかね。でも二階で逃げ遅れて死ぬ確率って、そんなに高いように思えないんですが。現に俺、助かってますし。暗殺にそんな不確かな手段を使うもんですか?」


 国王は首を巻いていた腕を右だけ外し、俺の頭をポカリと叩いた。


「お前は火の怖さも知らぬのか……。寝ているときの火事は、熱さで起きたときにはもう手遅れのことがほとんどなのだ。燃え広がり過ぎていて逃げ道が無かったり、毒ガスを吸い込んでしまって体が動かなくなったりしてな」

「えっ、そうなんですか?」

「そうだ。今回全員無傷で助かったのは奇跡だぞ」

「ひえー……」


 それは初めて知ることだった。

 たまに、火事で二階にいて逃げ遅れたというニュースが流れるたびに、「なんで二階で逃げ遅れるんだろう?」とは思っていたが。そういうことだったのだ。

 俺は実際に火災現場を見たことなどはないし、身内に経験者もいない。

 火を舐めていた。


 では、俺や兵士たちが助かったのは、もしや――。


「どうせクロが早めに気づいてお前を起こしたのだろう。礼を言っておけよ」

「やはりそういうことですか。わかりました。クロ、ありがとう」


 目の前で体を巻くように座っていたクロは、少しだけこちらに目線を合わせると「ああ」とだけ言って、また目線を外した。

 この照れ屋さんは、正面から感謝されるのはまだ苦手らしい。


「でも俺を暗殺って、意味不明なんですけど」


 そう疑問を言うと、国王はまた腕を右だけ外し、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回した。


「犯人にとっては、お前を暗殺する価値があるのだろうよ。少しは自覚しろ……お前はこの時代の普通の人間ではないのだぞ? 真相はまだ分からぬが、余は領主のオドネルに何か重大な隠し事があるのだと思っている。単にお前が気に食わぬという理由だけではないはずだ」


 そう言われれば確かに、単に「気に入らないから」という理由だけで、他の兵士ごと焼き殺すということはあり得ないだろう。何か他の理由があることになる。

 もちろん今すぐに思い当たるものはない。


「この件については、ファーナに極秘調査を依頼した。どのみち証拠が挙がらないと処分もできぬ。最悪、証拠が見つからなくてもお前を無断で閉じ込めたという理由で罰するつもりではあるが、当面はただの火事として扱うしかない。

 お前に対する警備の手配などはこちらでやる。だからお前は余計なことを考えるな。今日の打ち合わせと明日の会談に集中しろ。いいな」

「はい。わかりました」


 気を遣うつもりが、逆に気を遣われた。

 なぜ俺はやることが裏目に出てしまうのだろう。


 国王は背中から離れると、また俺の頭をポカリと一回叩いた。




 ***




「どうだった?」


 部屋をあとにして廊下に出ると、女将軍ファーナが寄ってきて声をかけてきた。


「陛下に頭を叩かれました」

「そうなのか? リクが無事だという知らせがあったときは、陛下はずいぶん喜んでいたが」

「……」

「これは愛のムチというやつだな。そうか、なるほど」


 よくわからないが、勝手に納得して去っていった。


 そして次はヤマモトがやってきて、「打ち合わせの時間までは、子供たちが寝ていた大部屋で待機するように」と伝えられた。

 子供たちは今それぞれの仕事があって不在のようで、タケルとカイルだけがその部屋で待機中らしい。


 ――さて。


「クロ、ありがとな」


 歩きながらあらためて礼を言う。


「何か褒美が欲しくなったりはしないのか? 希望があれば用意するぞ。俺が用意できるものであれば」


 クロは目を伏せたまま、少しだけそのまま歩いた。

 そして俺のほうを振り返り、答えた。


「いや、要らない」

「そうか。相変わらず欲がないな」

「……私はあれで十分だ」


 ん? 『あれ』?

 何かあげたっけ?


 そう思いながら、部屋に向かった。

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