誰より近くて遠い夢

餡蜜

文通

 目が覚めた。じっとりと嫌な汗をかいている。僕は起き上がって、コップに水を注いで飲んだ。それからカーテンを開ける。目が開けられないほど眩しい光が僕の目に降り注いだ。眩しい。

 ベットの隣の小さなテーブルには一枚の紙が置いている。

『あなたは誰?』

 僕が聞きたいよそんなの、と心の中で毒づいた。紙を放置してキッチンに立つ。インスタントのコンソメスープがあったのでお湯を注いだ。その間もチラチラとあの紙が視界に映る。

「…………」

 近くにあった適当なボールペンで紙に返事を書いた。

『さあね。僕には名前なんてないから』

 出来上がったコンソメスープを飲んだ。今日も家から出る気にもならず、一日部屋にいた。


『それじゃあ名前を決めましょう! そうね、エドなんてどうかしら? エドワードのエド。いいでしょう?』

 あの紙に返事を書いた日から二日後、新しい紙にまた文字が書かれていた。どうやら僕の名前を決めたらしい。別にいいのに。

『何でもいいよ』

 棚を見ると命の源インスタントシリーズも無くなっていた。流石に何かを食べないと死んでしまう。買い物に行かなくてはならない。

 着替えて赤いリボンで肩ぐらいの髪を結わえる。鞄に財布を突っ込み、久しぶりに外に出た。近所のスーパーまでは徒歩で五分。もう九月というのにまだまだ暑い。

 スーパーに入ると、冷気と賑やかな音楽が僕を包んだ。

「しばらくは家から出なくてもいいように沢山買っておくか」

 インスタントや缶詰などの賞味期限が長いものを中心に買い物かごに入れていく。

「おっも……」

 しばらくすると、つい口に出してしまうほど買い物かごが重くなってしまった。しかしこれだけあれば一ヶ月ぐらいは何とかなるだろう。財布の中身を確認してから、僕はレジに並んだ。朝だというのに何故か混んでいる。

 ちょんちょん。並んでいると肩を突かれた。振り返ると女の人が笑顔で僕を見ている。

「あら奇遇! こんな朝から、一人暮らしは大変ねえー」

「はあ……」

「それに今日は髪をくくっているのね! いつものも可愛いけど、一つに纏めてるのも可愛いわねー」

 


『今日もいい天気ね、エド。昨日近所の方からおすそ分けですってクッキーをもらったの。テーブルの上に置いておいたから良かったら食べて』

 本当に僕をエドと呼ぶことにしたらしい。テーブルには、動物をかたどったクッキーが入った小さな透明の袋が置いてある。

 キッチンでお湯を沸かしてる間、タンスを開けて中を見た。それから姿見の前に立つ。

「……」

 お湯が沸いた音がしたので、コーンスープの粉末の上に注ぐ。飲みながらテーブルの上のクッキーを摘んだ。

『美味しかった。ご馳走さま』

 使った食器を片付ている途中、ふと気になった。

「名前の意味ってあるんだろうか」

 手を拭いて、人名辞典を引いた。悪い意味だったら困る。

『エドワード(Edward)とは、英語圏の男性の名前である。 古い英語で富と幸運を持つ守護者という意味がある。 イングランド王室の伝統的な名前の一つ』

 君はこの意味を知ってて僕に付けたのだろうか。そういえば僕は名前も知らないことに気がついた。メモ帳から新しい一枚紙を用意して文字を書き、テーブルの上に置いた。

『君の名前は?』


『自己紹介が遅くなってごめんなさい。私の名前はエレオノラ。改めて、よろしくね』

『美味しそうなぶどうだったからつい買っちゃったの。冷蔵庫に入れて置いたから食べてね』

『エドは何か好きなものはないの?』

『そう……。それじゃあ絵はどうかしら? テーブルの上にスケッチブックと画材を置いておいたから使って』

 紙でのやり取りも枚数が増えた。エレオノラからの紙を保存しているファイルも厚くなってきた。

 テーブルの上のスケッチブックと色鉛筆を手に取った。新品だ。こんなにしっかり用意されても、僕は何を描けばいいのかわからない。何を描いて欲しいまで書いておいて欲しかった。

「まあなんでもいいか」

 そうだ、今日の朝ごはんにしようか。ジャムを塗った食パンとミネストローネスープ、買った覚えのないヨーグルト。綺麗に並べて描き始めた。

 絵を描くのはなかなかに難しい。やっと完成したものは、目の前の物と全然似てない。けど楽しかった、ような気がする。スケッチブックと色鉛筆を片付けて朝ごはんを食べる。もうスープは冷めてしまったけど美味しかった。

『今日の朝ごはんを描いたよ』


『上手ね! それにしっかりご飯食べてるようで安心したわ』

『梨狩りやってるみたいよ。行ってみたら?』

 エレオノラとの紙のやりとりは続く。

『エドは恋はしてないのかしら? 恋はいいわよ、人生が変わるもの!』

 もう僕だって気がついた。

『でも私の姿じゃ恋しにくいわね……ごめんなさい』

『大丈夫だよ、エレオノラのせいじゃないから』

 エレオノラは好きな人いないの? と書こうとした手が震えて、ボールペンが床に落ちた。もう誤魔化せない。僕はエレオノラが好き。絶対に恋してはいけない人なのに。

 書きかけた紙を丸めてゴミ箱に捨てて新しい紙を取り出した。

『僕に好きな人はいないから気にしなくていいよ』

 エレオノラはもう一人の自分。いや、僕はエレオノラのもう一つの人格。そして僕はエレオノラに恋してしまった。絶対に叶うはずのない恋。僕はこの恋に縛られたまま、恋心を捨てられずに生きていくしかない。もしエレオノラに好きな人が、恋人ができたら僕もエレオノラとしてそいつと過ごさなければいけない。こんなに苦しい事はあるだろうか。逃げる事はできない。

「消えたいなあ……」

 一人に人格は一つでいいのに。この体に僕はいらないのに。

 姿見の前に立った。そこには誰よりも近くて遠いエレオノラがいた。

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誰より近くて遠い夢 餡蜜 @tensimaguni

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