エルフの国の厄災
一話
それは、エルフの国におとずれた危機であった。
エルフとは弓術に優れ、精霊との親和性も高く、地に降り立った神の末裔である。
世界樹を中心として繁栄を築きあげてきた彼らは、邪悪な魔王軍との戦いにおいては人々に知を授け、精霊魔法をもって先頭に立って導いてきた賢者の種族でもあった。
しかし、その偉大なる彼らが神代の頃から受け継ぎ、長い歳月をかけて作りあげてきた英知や神秘ですらも、突如として現れた厄災に対してはまったくの無力でしかなかった。
その厄災は、山のような巨体を持った邪悪な怪物だった。
前触れもなくエルフの国に出現した漆黒の魔獣は咆哮と共に火炎を吐き散らし、目につくものすべてを蹂躙していった。
街や村だけではなく、絶対防壁とうたわれたエルフの精霊城壁さえもが破壊された。
恐るべき魔獣である。
それでもエルフの英知と神秘の力をもってすれば、この不遜な侵略者を討伐することは容易に思えた。
だが……怪物の強さはエルフたちの想像を遥かに超えていた。
魔王の兵団と互角の戦いができるエルフの騎士団が、怪物と交戦し一刻も保たずに壊滅した。
予想もしない事態であった。
エルフの騎士団はいつもの戦いのように、精霊魔法による先制攻撃、つぎに弓矢により遠隔攻撃、そして馬上の騎士が魔力を宿した槍による近接攻撃を仕掛けた。
しかし怪物の強靭な肉体の前に、精霊魔法は霧散し、矢も弾かれ、馬ごと突進した槍すらもその鱗を貫くことができなかった。
怪物の体があまりにも強固すぎたのだ。
ましてや山のような巨体である。
聖剣のような高い切断力をもつ魔法武器で厚い外皮を骨まで切り裂いて、体内に直接魔力をぶつける以外に怪物を打破する有効な手段が見いだせなかった。
しかし、エルフの国にそこまで強力な兵器はなく、また聖剣に頼ろうにも保管されているのは遥か遠い人族の国であり、力を引きだせる使い手も不在であった。
エルフの知恵者たちが集まり、幾つかの策が講じられたが、どの手段でも怪物を止めることはできなかった。
ことここに至って怪物の侵攻を止めるため、エルフの国に総動員がかかった。
エルフたちは神の末裔であるという誇りを捨て、エルフの国に滞在していた様々な種族の戦士たちに協力を頼んだ。
その要請に様々な種族の様々な攻撃が怪物に対して試されるも、怪物の体表を貫くことはできず微かな傷をつけることすらもできなかった。
万策尽きた絶望的な状況である。
だがエルフたちは逃げだすことができなかった。
なぜなら、巨大な怪物の進む方角にはエルフに加護を与える世界樹が存在したから。
聖なる大樹を破壊されればエルフの出生率は下がり、ゆるやかな滅びを迎えるだろう。
種族の存亡がかかっている。
例え勝ち目の薄い戦いでも引くわけにはいかなかった。
鈍重な怪物の歩みはそんなエルフたちを邪悪に嘲笑い、じわじわとなぶり殺しをすることを楽しんでいるかのようであった。
怪物という厄災。
しかも不運なことにエルフの国に襲いかかる脅威はそれだけではなかった。
同時期に、まるで申し合わせたかのように悪魔の目が大量に現れ、魔界から魔物の大軍勢が召喚されたのだ。
それは魔王が復活したときと同じ、とてつもない大軍勢であった。
この難局に知らせを聞いた近隣の国々も軍を動かし支援をしたが、出現した魔物の数はあまりにも多すぎた。
エルフの国で好き放題と暴れまわる邪悪な魔物たち。
エルフの国のいくつもの砦が無残に破壊された。
エルフの国のいくつもの町や村が残酷に滅ぼされた。
多くの力なきエルフの民たちが野に引き出されて……男も女も、子供も老人も等しく虐殺された。
慈悲深きエルフの王が逃げ遅れた者たちを救うために、その身に宿したかけがえない高位精霊を開放して怪物や魔物たちを食い止めようとした。
しかし……疲弊し、力が弱ったところを魔物の群に狙われ命を落とした。
エルフたちの成すことのすべてが悪い方向へと向かっていた。
厄災の怪物と魔物たちの前にエルフの国は風前の灯であったのだ。
最終防衛線。
世界樹の周辺を囲う長い城壁の一つに、エルフの王族である幼きリオンがいた。
怪物との戦いが始まってすでに一ヶ月が過ぎている。
恐らくはエルフ種族の命運を決める最終決戦のその日……空は雲でおおわれ月どころか星一つもでていない暗雲の夜であった。
ここまでの戦いを生き抜いた兵士たちは例外なく疲弊し、勝利の見えない未来に誰もが失意の表情を受べていた。
リオンが城壁の上から背後の野営地を見下ろすと、不安げにこちらを見あげるエルフの民たちが見えた。
街や村との連絡は魔物たちの侵攻によって途絶え、生き残ったエルフたちが身を寄せるのはこの場所だけになっていたのだ。
口を引き締め前を向く。
リオンは、危険だと引き留める家臣を振り切って兵士たちと運命を共にしていた。
まだ幼ないとはいえ王族の端くれで精霊の力を使える。
怯える民の力になりたい……そんな思いがリオンを突き動かしていたのだ。
悲鳴のような声とともに怪物到着の報が城壁内に伝えられる。
鉄と鎖と皮がこすれる音、そして兵士たちの息を飲む声が聞こえた。
リオンは決意も新たに、精霊に力を貸してもらうため意識を集中しようとした。
だが……だがしかし、炎に照らされた異形の怪物の姿を見た瞬間、リオンの動きは驚愕と共に止まってしまう。
現れたその漆黒の怪物は……予見の力を持つリオンは理解してしまったのだ。
あれは紛れもない、半神である……と。
それは、ただ群れるだけの人の身では絶対に勝つことのできぬ存在であると。
遠くから、爆発する魔力が散発的に見えた。
エルフの森へ迎撃に向かった者たちの命を賭けた最後の抵抗であった。
恋人を、妻を、子供を、家族を、愛する者たちを……エルフの未来を守ろうとする者の必死の抵抗の光であった。
嗚咽が聞こえ、視界がぼんやりと歪んだ。
リオンは自分が泣いていることにようやく気がついた。
多くの命が散っていく、しかし、神の救いは訪れず、無慈悲な怪物の進みは一向に止まらない。
大地を揺らす耳障りな咆哮と、木々が折られる甲高く重たい悲鳴だけが響く。
自らに攻撃する者たちを歯牙にもかけず、怪物は世界樹を目指してゆっくりと近づいてくる。
何度も何度も、五月蠅い小虫でも追い払うかのように怪物の口から無造作に火球が放たれた。
そのたびにかけがえのない命たちが失われる。
炎……炎は業火へと代わりエルフの森が燃えていく。
絶叫と共に焼かれる者たち……。
失意の叫びと呻き声……。
死の炎は渦となってリオンのいる城壁へと雪崩のように次々に流れこんでくる。
激しい熱波と飛び散る火の粉にリオンは手で顔をおおった。
音……大地を砕くかのような音。
すべて薙ぎ払い、地形を大きく変え、地獄を作りだし、爆炎と共に暴君が全身を現した。
恐るべき異形、それは一頭のドラゴン。
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