第19話 若
*
酒が気化した臭いが、道すがらの端々でよくよく嗅ぎ取れる。スラムは狭い土地に背の高いレンガ造の雑居ビルを敷き詰めた様態だ。その隙間である陽の当たらない細い道を歩き、僕―レイン・フォルディオはスラムの溝に潜っていく。質の悪いガラスの破片が散らばる足元はいつからか気にしなくなり、壁の染み、汚らしい落書きのアートはもちろん、あまつさえ意識朦朧ながらに光悦の表情を浮かべる男が転がっていようとも、僕は目の前を歩く男の背中をただ見つめていた。
「しかし、冒険者がなんで火事場なんかにいたんだ?衛兵でも自警団でもないのに。」
この男はウィナー・ハスキーという名らしい。今の今まで無言の道中だったが、彼もその間を気にしてか、気さくにも声をかけてきた。
「ええと。見物ですよ。ほら、ウェスピンの各地で起こっている火事が気になって。見て回っているんですよ。」
「ははあ。変なやつだなアンタ。冒険者ってのはそんな暇な職業かよ。と、いけねえ。冒険者の悪口は若に怒られちまうな。」
彼は前を向いたままに話すので、僕は、彼の赤地の襟付きシャツの背に描かれたとぐろ巻く蛇と問答をするような心地だ。それは意識的なもので、そうすれば自然と、彼の強めな口調や短い後ろ髪の尖った風貌に物怖じせずにいられるのだ。
「若…という方は、冒険者がお好きなんですか?」
「いやいや。むしろ嫌いなんじゃねえかな。」
「え?それじゃあなんで悪口を言うと怒られるんです?」
「ああ…それはな…っと。着いちまった。話はまたあとだ。…いいか!先に俺が入って話を付けて来る。それまでここで待ってろ。いいな!絶対無礼のないように頼むぞ!」
ようやく僕の顔を見たウィナーは、丸い目を精一杯に細めてその真剣さを訴えた。そんな様子に僕は生唾を飲まされる。
おそらくは一室一室が人の住処であろうレンガ造の薄汚れた雑居ビルの狭間に、酒場のような店がある。それは外に並べられた酒瓶とOPENの掛札が下げられたベニヤのドアから推測できるもので、看板は掛けられておらず、1つしかない窓の奥は暗く中の様子は伺えない。奥行があるようで、その背の低いその建物だけがスラムの灰色の空に小さな穴を空けているようだ。
ウィナーはその酒場に慎重な足取りで入っていく。ここが彼らのアジトらしい。一度来ても迷路のようなこの場所では、再度訪れることができるものだろうか。そしてこんな場所に独り残される心地というのは、時間と共に身の毛がよだつものだ。僕を見下ろす雑居ビルの幾百という窓のどこからか、誰かが覗いてやいないかと気になって止まない。
それから数分が経った。
「おい、入れ。早くしろ。」
ウィナーがドアより顔を出し、小さく手招きをする。僕は中へ入る緊張よりも、この場に独り留まることへの不安が勝り、素早くウィナーの下へと忍び入る。
「そいつがルドルのお客さんか」「可哀相になあ」「さっさとほうり出しちまえよ」
「おい。とりあえず座れよ。そこへ立たれちゃあ、客も入らん。」
「は、はい。」
「ハハ!客なんて年中入らねえじゃねえか!」
「うるさいぞお前ら。品がねえのは顔とテーブルマナーだけにしてくれ。」
カウンターでグラスを磨く、スーツを着込む身なりの整った男に導かれて彼の前へと座る。カウンターテーブルの他に二つある円卓には、ウィナーと似たようなゴロツキがそれぞれ2人ほど座り、昼間から酒を酌み交わしていた。
外からの見た目通りで、それらのテーブルがあるだけで少々手狭となるくらいの広さであるが、窮屈な印象は抱かない。それは1階と2階が吹き抜けになっており、2階が1階を見下ろすギャラリーのようなフロアだからだろう。カウンターの左右にはそんな2階への階段が伸びている。現にカウンターを丁見下ろす格好で、ギャラリーの手すりに頬杖をついてこちらを眺めている男がいる。
目の前のバーテンダーのような男が、グラスに赤い飲み物を注ぎながら優しい物言いで口を開いた。
「災難だったな。青年。大方、ルドルに巻き込まれたのだろう。んん…。名前は何と?」
「レインといいます。あの、僕はこれからどうなるのでしょう。」
「ふうむ…。こちらもね。今は少々気が立っている時なのだ。本来ならばそのままこれを飲んでもらったところで返すのだが…」
そして彼より差し出された、グラス一杯の赤い液体。怪しげな見た目に思わず顔を近づけてみたが、僅かに漂う独特の酸味の香りと、目を凝らせば分かるくらいに沈んでいる果肉の粒でその正体が分かった。
「トマットトジュース…ですか?これ。いただいてもいいんですか。」
「うむ。」
「お金とか、ちょっと無いんですが…」
「ふむ。君はどうやら…スラムの人間ではないようだ。」
突如、周囲に先ほどまで円卓から睨みを利かせていた男たちが、立ち上がって僕を取り囲んだ。
そこから少しの余韻に、彼らが椅子を引いた音が耳に残る。僕は身動きひとつとれず、周囲を見渡すこともできない。ただ静止した目線の先に、バーテンダーの男の瞳がある。
「このように。ちょっとしたことで立ち上がるくらいには気が立っている。スラムの人間にとってトマットトジュースは『サイン』からね。差し出されれば直ちに飲み干すか、相手の顔にぶちまけるが礼儀だ。知っておきたまえ。」
気が付けば口で息をしていた。バーテンダーの落ち着いた声に、僕は我を見失わずに済む。
「す、すみません…えっと。そうです。僕はスラムの人間じゃない。」
「じゃあなぜ、スラムに来た?火事現場に来た?」
「見物ですよ。ウェスピンで多発している、火事が気になっ」
顔で弾ける水の音。瞬間に真っ赤となった視界。言い終わらぬうちにトマットトジュースが僕の口を顔ごと濡らして黙らせたのだ。僕はたまらず顔を拭い、僕のグラスに再度ジュースを注ぐバーテンダーを睨みつける。
「嘘。それは命取りだ。君の脳天が弾け飛ぶ代わりに、ジュースが君の服を赤く染める。このジュースが無くなるまではその嘘を許そう…ほら。この一杯で最後だ。ビンは空となった。さて問おう。君はなぜ、スラムへ来た。火事現場に立ち寄った。」
「……。人探しです。」
フィリッツを探しに来た。その一言だけはどうしても言えない。彼らがフィリッツを匿っているならば、僕は彼らに消されかねない。だが彼らはどういうカラクリか嘘を見抜く。僕の心臓はこれまでにない高鳴りを全身へ響かせ始めた。
「ほう。人探しか。…誰を探している?」
「…それは…」
嘘はつかない。
「…双子です。」
危険な賭けだ。確かに僕はフィリッツを探しているが、あの獣人族の双子の奴隷も探しているのだ。それはフィリッツに繋がる可能性があるからだ。探している、というのはあながち間違いではない。彼の嘘発見器には、これがまかり通るのか。瞬きもせず、僕は彼を見つめ続ける。
「ふむ。嘘はついていないようだ。」
彼はそう言って、への字に曲げていた口元を緩めた。僕は肩の強張りを緩ませる。助かった。なんとかここを退けた―
「双子。ということは、フィリッツを探しているわけではないんだな?」
「!…は、…!」
僕の口は空を切った。言葉が出ずに、空で何度か、金魚が呼吸をするように唇が動いた。肯定も否定もできなかったその姿が、答えを物語っていたことは誰の目からしても明らかである。
「…。若。いかがされますか。」
「ああー、ハハッハ…図星たあ可哀相だねぇ…。しっかしその顔はぁ?アホ!アホだなありゃ!ハハッハ!」
若と呼ばれたその男は、先ほどから2階のギャラリーより僕たちのやりとりを俯瞰していた金髪の男だった。黒いシャツに白いジャケットを羽織る姿は、どうにもマフィアを気取ったように見える。乾いた木の階段を革靴の踵で一段ずつ鳴らして下るその間も、僕の呆気にとられる顔で大いに笑う。
「レインっつったか?よお!俺がホテル・リゾートの若頭こと、グレー・トーレンスさ!おいおいそんな顔すんなよぉ…恐怖で顔が歪んじまってるぜえ?」
…
…若、背ちっさ。
それが彼に抱いた、最初の感想。ナナほどではないにせよ、僕よりも頭ひとつ背が小さそうだ。歳は同じか僕より下か。歳にして珍しい背丈というわけではないが、今の今までの『若』に対する積もり積もったイメージが大きくかけ離れていたので、そのような所感を抱いてしまった。
そんな僕の内心とは裏腹に、啖呵に応じない僕の態度を見くびったか、グレーは左のおでこをキラリと光らせ椅子に座る僕を見下してこう言った。
「お前…フィリッツの野郎のことをどこまで知ってんだ?知ってること全部話せ!そしたら無事に帰してやらなくもねーぞぉ?」
「……え?」
彼らはフィリッツの情報を欲している?であれば、彼らもまたフィリッツを探す勢力のひとつなのだろうか。この場にかかる空気の重さが軽く感じる心持をさせるので、警戒心が奪われそうになる。グラスに写る自らの張りの緩んだ表情と目が合い、慎重に言葉を選ぶことを思い出した。
「…フィリッツの情報なら僕が知りたいくらいですよ。懸賞金がかかってるんですから。」
「フィリッツがスラムに居ると思うかぁ?」
「そりゃあ、自警団も衛兵も、ましてや騎士団もフィリッツを探してるんだ。となると、もうウェスピンで隠れられるような場所といったらここしかないはずだ。スラムしか…」
「ハハッハ!そりゃあそうだぁ。でもよお…それより知ってること、あんだろぉ?そんな気がするんだよ!いや!知ってろ!じゃなきゃあ時間食ってる意味がねえ!なあ!知ってんだろ!?」
グレーはカウンターに注いでいた僕の目線の先を手でひと思いに叩いた。彼はそれによる手の痺れを感じてか、笑顔で天井を仰ぐ。ハハッハ、そう笑ってもう一度問いた。
「…他に何かぁ。知ってんだろ?」
「……いや。知らない。」
再びジュースが僕の顔を、髪を、赤く濡らす。いけ好かない音だ。石畳に撒く打ち水よりも低く、桶の水を背中にかけるよりも高い音だ。三度目の嘘が無くなった。バーテンダーの男は空になったコップを、まるで何かがいっぱいに入っているように、ゆっくりと僕の目の前へ置くのだ。
どういう理屈なのか。嘘は確実に、見破られる。
「他に。何か知ってんだろぉ?」
「…フィリッツの目的は、魔物でウェスピンを襲わせること…」
「それで?それだけじゃあないよねえ?」
「バミアス霊峰の魔物がウェスピンを襲うに違いない…と、みんなは思っている。」
「んんー?『みんなは思ってる』?それ…どういうことだぁ?」
グレーという男は白目を剥くくらいに目線を上にして、思考を張り巡らせている。そんな彼独特の奇人っぷりは、ホテル・リゾートを束ねる者の素質の一片なのだろうか。
もう嘘はつけない。…そもそも嘘とは何だろう。全てを話さないことは嘘ではない。故意に話を逸らすことは嘘ではない。
僕は嘘に割いていた思考を取り戻すことで、ようやく気が付いた。彼らに話の主導権が握られているのが問題なのだ。YES or NO-これを突き付けられたとき、既に僕に選択肢はない。であるならば、質問を作り出すのは僕でなくてはならないのだ。
一度整理しよう。絶対に知られてほしくない情報は、『ナナが帰りの森にいること』。それ以外は知られてもいい。むしろ、あちらの手の内を探りたい。むしろ、奴らを味方につけたい。そして奴らにとってもそれはメリットであるはずなのだ。
「帰りの森にダンジョンがあるかもしれないんだ。バミアス霊峰の魔物じゃあウェスピンを落とすのは難しいが、ダンジョンの魔物くらいの物量があればそれは可能かもしれない。と、僕は見ている。」
「帰りの森にダンジョォン?いやいやそもそも、帰りの森の奥地には辿り着けねえだろうがぁ。」
「確かに、帰りの森の外から中には入れないかもしれない。けど、帰りの森の中から外には出られるかもしれない!あいつは、エッカ村を魔物に襲わせた疑いがある。詳しくは知らないが、魔物を呼び寄せることができるのだとすれば…」
「なるほど、本人は帰りの森の外から魔物を呼び出す、と。ふうむ…どうやって帰りの森にダンジョンがあるのかを知ったのか、そしてなぜそれをすぐやらないのか。それは疑問だが、後者は自警団や騎士団の見立てにも同じく言えること。…若。この青年の言うことには一理ある。」
「うん。そうだけどねえ。そうだけどねえ…それじゃないんだよそれじゃあ。さぁ。」
右足の踵を絶え間なく鳴らし、苛立ちを隠さないグレー。彼は僕の肩に腕を回し、怒りに震えた声を耳元で囁いた。
「仲間がよぉ…。やられてんだよぉ…っ通り魔でぇ…っ何回もぉ…っ!心臓が抜き取られててよぉ…かぁわぁいそぉなんだよなぁ…!フィリッツぅ…あいつが殺ったのを見てた仲間がいるんだよぉ。泣きながら、帰ってきたんだよぉ。俺は褒めてやったのさぁ。よく、仲間を見捨ててぇ、逃げ帰ってぇ、俺に教えてくれたぁ!その勇気をよぉ!俺にはそんなことできねぇからなぁ!」
「…っ」
「だからさぁ。俺が欲しい情報はぁ。フィリッツの、居場所。目的なんざぁどうだっていいよぉ殺せば関係ねぇのよぉー…どこだよフィリッツぅ…どこだよぉ…俺の仲間の心臓を返せよおおおおお」
グレーは泣いていた。舌を垂れ流し、涙は丸い輪郭を伝い顎で雫を作る。彼と僕を囲む彼の仲間達もまた、俯いていた。
「よろしければ、手伝いますよ。フィリッツ探し。」
「…んんう?手伝う?お前が?」
(あれ?)
タイミングは完璧だと思った。
きっと、その涙を拭きながら感謝の言葉を口にするのだと思っていた。『手伝ってくれるのか?ありがとう。』など。しかしどうだろう。差し出がましい申し出と受け取ったか、グレーは泣き顔を一変させ、眉をハの字に迷惑そうな顔をする。僕は慌てて言葉を足した。
「い、いや。手伝わせてください!お願いします!」
「んんうー?こいつマジかぁ…?弱そうな成りしてよお…何ができんだよぉ…?」
「こ、こう見えても腕っぷしには…」
正直自信がありません、と、この言葉は後に続いてしまうから打ち切った。
先日ようやく腰の入った剣の一振りを知ったくらいで、それ以前は他人を殴るどころか殴られたことすらもそうそう無かったもので。
一方で、ここで彼らの協力を得なければ頼るところもない。
しかし、スラムに立ち入り、マフィアの若様とここまで肩を組まれて話す苦労とはなんだ?ウェスピンに思い入れは無いし、スラムにはいい思い出もない。武器屋には高い買い物をさせられるし、ウェスピン自警団は強引な連中だ。
それでも、街の衛兵さんやギルドカウンターのドリアさん、雑用程度の依頼であっても満面の御礼を口にする街の人々、闇市で本を売ってくれたお婆さん…みんなの涙を、悲しむ顔を想像すると胸が軋む。ドッと重みを感じてしまうから。そして不幸が間違いなく人々の心を取り殺すだろう。ならば、形振り構わずフィリッツを捕まえるしかないじゃないか。
「ここはよぉ。実力主義なんだよなあぁ…つまりさあ。俺を納得させたいなら、これだよ、コ・レ。」
グレーの右拳がカウンターに突き立てられた。それを合図に、周囲を取り囲んでいた男たちが、より広い円を作る。後ずさり、机を立ててはどかし、椅子を重ね、彼らの手拍子がゆったりと始まった。やがて誰かが歌いだす。酒に潰れた声や棚の底を叩くような低い声に一際高い声も乗せられて。
我ら畔の宿なれば
恐れる心はないらしい
地平線に魔王が浮かぶ
我ら送るは勇者の友よ
我ら送るは勇者の友よ
友を慕いて我らが宿は
友の強さに憧れ咽ぶ
示せ示せ我が友なれば
怪腕持つが友なる証
我ら岬の宿なれば
恐れる心はないらしい
…
繰り返される男たちの歌。品は無くとも歌い古された息遣いがある。彼らの歌に導かれ、僕とグレーは彼らが囲む円の中央で向かい合った。雑な腕まくりをしながら、口で天井を仰いで大きく呼吸をするグレーは、その背丈に違う大きさに錯覚してしまう。
―恐れている。この男を、この男のその腕を。僕の高鳴る心音は、彼らの歌に四拍子に同調し始めていた。
「レインだっけなぁ…武器は無しぃ。ステゴロだよぉ。それがウチのやりかたぁ。」
「ああ。この剣は呪われていて、この身から離れない。抜きはしないが、腰にはぶら下げさせてもらう。」
「へぇ…じゃあ、持ち主が死体にならねえとその剣はもらえないわけだぁ。まあ。そういうことなら。死んでくれやああああ!」
先手は彼。
大きく振りかぶった拳を見て、僕は咄嗟に顔を腕で隠す。上か。下か。右か。左か。彼の真っ直ぐな目線からは何も察することはできない。指先がほんのり温かくなってはひんやりと温度を感じるのは、手に汗を握り始めた証拠。踏みしめる木の床は、泥を含んでいるかのように僕の足を絡めとっている心地すらする。それほどまでに固くなっている。僕の身体の強張りは、石化の呪いをも受けたかの如く。
「ぐぅっふぅ…」
そして彼の拳が僕の腹部を大きく凹ませたのは、それを認識するよりも数コンマ早かったように思えるのだ―
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