第16話 落書き

  *


「それでは、いってらっしゃいですかね。あ。午後ですが、私は不在なので。他の職員も休暇で、この窓口はお休みをもらいますかね。」


本当だ。焦げ茶色の堅木でできた艶のあるカウンターに、藁半紙に書かれたそれらしい臨時休暇のお知らせが張られている。

朝食を冒険者ギルド併設のレストランで済ませた後、そんな会話をドリア・トーレンスと交わした僕―レイン・フォルディオは、再びウェスピンの南西エリア、スラムへと向かった。


昨夜からずっと、重たい雲が空を覆っている。ドリアよりギルド印の青い傘を借りてはいるが、スラムのあの細い道で傘をさして歩くのはトラブルのもとになりはしないか、と不安に思うところもあった。

そもそも、昨夜の一件のことが脳裏を掠め、足取りは重くもある。

昼間なら大丈夫だろう、剣を抜けば怖いものはない。そう言い聞かせてみるものの、口の中に広がったあの鉄臭い味を思い出しては、ふう、と喉までせり上がる鬱積し始めていた気持ちを吐息に混じらせる。


宿にこもって、魔法でも覚えて。それから動き出しても遅くないんじゃないか。

ギルドを出てからというもの、何度もそんな迷いを頭に立ち込めさせては、

(いや、それは…)

と、あの夜に見た、槍でアンデッドを薙ぎ払うリリーシャの姿を思い出すのだ。


今もきっと、ナナと共にその腕を磨き続けているであろう彼女。

先へ行かれることへの焦りか、彼女を前にしての性とも言えるプライドかは分からない。ただ、それが克己心となって、早々に立ち止まりそうになる僕の背中を押してくれているようで。結局、魔法は空いた時間に少しずつ覚えることにしたのだ。それが前へ進むことになると僕は信じた。

背負った四角い革のリュックサックに、『ココロ魔導書』がしまってある。いつでも読める。そんな状態は必須だ。

だが、結果というのは亀みたいに足の遅い生き物のようで。

寸でのところで前向きとなった意識とは裏腹に、昨夜から勤しんでいるこれの解読の進捗はあまりよろしくなかった。

魔法の構造はよくよく書かれてはいても、それに関する魔力の使い方という点での記載がほとんどないのだ。

(想像で補うしかないなあ。痛覚遮断、とかいう魔法はそれで使えたわけだし。)

読解の方針は間違っていない自信がありはする。『気』というものの概念や魔力の使い方など、問題は多々あるがそれはこの魔法を使いながら覚えていくしかないだろう。


そんな考え事に耽っていると、いつの間にか関門の前にまで来ていた。

昨夜の雨もあってか、門の前の整備された石畳みの地面は泥で汚れている。それなりに多くの馬が通ったのだろうか。泥は大通りの方へと続いていた。

立ち止まり、並んだ店の前で客引きを始めたばかりの調子が乗らない声を出す店員を眺めていると、見慣れた姿が人混みの隙間より見え始める。


「おう。お前さんか!また会ったな。」


鎧が擦れる音と共に、昨日言葉を交わした初老の衛兵が駆け足で向かってくる。ようやく、という表情で僕の前までたどり着くと、肩で息をし始めた。

屈んで呼吸をする度に、彼の鎧の隙間から蒸れた空気が押し出され、僕に熱気を伝える。


「あれ。遅刻ですか?」


「バカ言え。こちとら、朝7時から、出勤よ。寝たのは、2時!だがな!…今、街の中央の噴水のそばにガキの落書きがあってな。役人どもが、消せ消せってうるさくてなあ。んなことをやってる暇はないんだが。ったく、騎士団が来たり、朝からスラムで辻斬り死体は見つかるし、また火事が起こるわ、散々だ!」


スラムで辻斬り。そして火事。ウェスピンの治安がどうにも悪いのは昔からなのだろうか。

僕は途切れ途切れの息でそう語る衛兵の多忙さに同情した。


「えっと…落書き消すの、手伝いましょうか?」


こういう人を見ると、つい自分のことをそっちのけでそんな申し出をしてしまう。本意でなくともだ。


「おお!ありがたい!待ってろ、今道具を持ってくるからな。」


衛兵はそう言い残し、再び門の方へと走り出した。

…まさか快諾されるとは。

労りの表現のひとつとして言ってみたくらいのものだったが、相当人手が足りないと見た。

落書きくらい、魔法で消せないのか?

それとも、そんな魔法を使える人物がいないのか、出払っているのか。

しかしまあ、考えてもみれば落書きを消すついでにあの衛兵からあれこれと聞き出せるかもしれない。スラムを当ても無く歩き回るよりは、治安に詳しそうな衛兵の話を聞いてみるのも悪くはなさそうだ。

お節介を焼いたのもあながち無駄な時間にはならないかも、ケチな損得勘定が働いて僕の心中は多少なりとも晴れるのだから、単純なのか情に薄いのか。



―15分後。

昔から、半ば思い付きで行動した先で、後付けのように結果が付いてくることが間々ある。運が良いのか、知らず知らずのうちに誰かの世話になっているのか。


「んで、うちの嫁がこう言ったわけだ!『とっととトマットト取っといで!』ってな!」


しかし、今回はこう、どちらかというと、限りなく失敗に近い気がする。

初老の衛兵の無駄話は思ったより平坦で、思ったより途方もない。


ウェスピンの街の名所、中央の噴水を背に地面いっぱいに描かれた落書きを二人でひたすらにブラシでこする。

ピンク色の粘土を擦りつけたような線に、キラキラと光を反射する粒が塗してあって。無造作に細い線だけで描かれた模様は、なぜか妙にしっくりくるようなバランスなのが不思議だ。一見すると、幼児が縦横無尽に画用紙をクレヨンで汚したかのようであるのだが。


クレヨン。そういえばあの獣人族の幼い双子も、クレヨンを持っていたではないか。


(まさかあの双子の仕業では…)


『お絵描きなのー!』『なの~。』…地面に突っ伏して、お尻のしっぽをぱたぱたと振りながら意味のない直線や曲線を、ひたすらに描きでもするのだろうか。なんとも容易に想像できるのは、きっと僕の想像力が豊かなのではなく、彼らが本当にやりそうだから…

いや、内心であっても濡れ衣はよろしくない。


「そんで、お前さん。何か聞きたいことでもあったから手伝ってくれているんじゃないのかね?」


「あ、…っと。いえ、そういうわけでは…最初は善意で。いや、最初は、というのはですね…」


「図星かい。良いぞ、なんでも聞け!年老いた衛兵の知ってることなんざ、そこらへん聞き回れば揃うような情報だらけよ。」


おいおい。さっきまでのくだらない話から急にそうなるのか。唐突に魂胆を見破られるのだからたまったもんじゃあない。

…そんなに顔に出ていたのだろうか?

この人を侮っていたわけではないが、年の功には敵わないということなのか。安い目論みや隠し事など容易く引っ張り出されるようで、ロウを相手にしたときもそうだったが、自分の至らなさにはより一層顰蹙するというものだ。


「では、お言葉に甘えて。ウェスピンに来た騎士団って、帝都の騎士団ですか?」


「そうよ。帝都の騎士団第三部隊だったな。知ってるか?サラ・フェルト。20歳にして騎士団第三部隊長を務める天才よ。その若さで、しかも女。異例ずくしの鉄仮面ってな。」


その人のことは世俗に疎い僕でも耳にしたことがあった。特に同い年であるから、比較されやしまいかどうにも気にかかったものだ。

今は亡き勇者―レヴン・フェルトを家系にもつ女。財と実力で瞬く間に騎士団の幹部へ昇進。胸下まである緩いうねりが上品な眩い金色の髪が特徴で、高い鼻と鋭くも大きな目が美しいと聞いた。

一方、その口角は常に下がっており、愛嬌の無さがよくよく嘆かれるだとか。


「鉄仮面っていうのは、アレですか。噂に聞く、無表情と冷徹さだとか。」


「ああ、まあそんなところだが。でもなあ、昨日会ってみたが、どちらかというと理性的に尽くしている感じだな。そりゃあ、表情ひとつ変えなかったがなあ?」


会ったのか。サラ・フェルトに。

それに関して眉のひとつでも動かしようものなら、まるで彼女に気でもあるような印象にされかねないと直感する。それを嫌って顔を強張らせたのは、この衛兵にはお見通しなのだろうか。


「…騎士団が来た目的って何なんですかね。」


「あーなんだか。魔物の群れがウェスピンを襲う可能性がある、とか。」


ブラシを磨く手が止まりかけた。


「…それって、どういうことですか?」


「いや、なんだか指名手配中のテロリストがウェスピンに潜み、そんなことを目論んでいるらしい。」


「指名手配中のテロリスト…って、まさかフィリッツ・マクガフィン!?」


「おお、そうさ。よく知ってるなあ。見つけるのは自警団任せで、騎士団は魔物の相手をするらしいな。」


まさかフィリッツ・マクガフィンが、騎士団が来訪するほどの出来事の渦中にいる人間だったとは。偶然か、それともこの賞金の額と相応の問題を起こす人間として必然なのだろうか。

僕はブラシで地面を擦るのを止めるどころか、屈んだ姿勢を解いて衛兵の話に聞き入り始める。そんな様子に触れもせず、衛兵は落書きに語りかけるように言葉を続けた。


「まあワシの見立てでは、ウェスピンを囲む壁を突破して街を襲うほどの魔物もその物量も、近隣にはないから大丈夫だな。」


ウェスピンの東に隣接したバミアス霊峰。

あそこがウェスピン近郊において最も多く魔物が住む場所だ。中堅の冒険者ならば一捻りもできる程度のあそこの魔物では、帝都ほどではないにせよ頑強な壁に囲まれているウェスピンを落とすには力不足らしい。

次点で魔物が多く群生するのは帰りの森であると聞くが。

あそこはアンデッドが目撃されるくらいで、あまり魔物がいないという。おそらく、ナナの管理が行き届いているのだろう。


(…待てよ。ナナ、といえば。)


魔物の住処。

そうだ、つい最近新しくできたではないか。

ナナとリリーシャが現在対策中の、帰りの森に出現したというダンジョン!

あの森は百年以上前にされたナナの魔術とロウの虚偽報告で、一般には何もない土地とされているが、実質は未踏の地だ。

つまり、現れたばかりのあのダンジョンの存在を知るのは、ナナと僕たちだけのはず。衛兵はおろか、騎士団も知るはずがない。


「ちなみに、ですが。もし近隣にダンジョンがあったら、その魔物がウェスピンを襲えたりします?」


「ああー、まあ。それなら不可能じゃあないだろうな。ダンジョンの魔物の量は無限と言っていい。ただ、ここから一番近いダンジョンといったらバミアス霊峰を越えた先にある、あのエッカ村にできたダンジョンだろう?山を越えて魔物が来る、なんてあり得るのかねえ。」


あり得ないとも。エッカ村からウェスピンまで、直線距離でも4日はかかる。そんな大移動は目に見えて異変が分かるし、中間に聳え立つバミアス霊峰の魔物たちも黙ってはいないはずだ。

だが、僕の知る近隣のダンジョンといえば、エッカ村のダンジョンではなく帰りの森のダンジョンに他ならない。

フィリッツがどんな経路で森のダンジョンの存在を知り、どんな手管で魔物を連れてくるのか分からない。これは可能性の高くない仮定の話であることは確かだ。

しかし最悪のケースは、帰りの森のダンジョンより魔物を呼び寄せることに違いない。それは間違いないのだ。


「どうした、手が止まってるぞ。」


「は、はい…」


ナナのことがある以上、騎士団に帰りの森のダンジョンのことを教えるわけにもいかない。かといって、フィリッツが魔物を呼び寄せるのを黙って見ていられるものか。

おそらくフィリッツは、騎士団のウェスピン入門という事態を受け、すぐにでもそのテロイズムを発動するのではなかろうか。そうなると、リリーシャたちにこれを伝えに行く余裕があるとは到底思えない話になってくる。

こうなればフィリッツを探し出す方が先決なのではないか。

そんな見通しが立ってしまった。


「自警団もフィリッツを探しているんですよね?それでも見つからないなんて。自警団が探さなさそうなところって、あるんですか?」


「自警団はスラムだろうと行くところには行くからなあ…。うむ、ひとつだけあるが。お前さん、まさか行く気じゃあなかろうな。」


衛兵が唐突に手を止めて僕へそう問いたものだから、答えようとした言葉をつい飲み込んでしまった。そんな沈黙の間の意味を読んだ衛兵は、ふぅ、と髭の隙間から困ったような吐息を漏らして、小さな声で言う。


「どうせ…ほかの人間がしゃべるだろうしなあ。仕方ない、教えよう。…自警団が手を出せねえのは、場所じゃねえ。ホテル・リゾートの連中だ。」


ホテル・リゾート?

宿屋か?

僕は顎を斜めにあげるように首を傾げた。


「名前に騙されるなよ。ありゃあトーレンス家がボスの、いわばマフィアさ。ウェスピンにもそいつらの支部みたいなもんがあってな、表では宿屋や露店、闇市の管理だとか、幅広い経営で儲けを出している。まあ、メインは裏の商売でな。違法な魔物の素材売買やら密輸やらで食ってんのさ。」


トーレンス。どこかで聞いたことがある響きだが。口の中で何度か繰り返すが、どうも思い出せない。

魔物の素材売買といえば、特生取引法(第三話参照)が規制している内容だ。あからさまな違反はもちろん、疑いのひとつでもかかればすぐに摘発されるものだが。

こちらは魔物の素材売買ができないから、デプリッチを使ってまどろっこしい儲け方を画策しているというのに、何とも度し難い連中に聞こえる。

僕は僻みに近い嫌悪感で、口元をへの字に曲げた。


「…そのホテル・リゾートに接触する方法は?」


「簡単よ。例えば…闇市の傍らでテント立てて、商人相手に金をどうこうやってるやつがいる。ホテル・リゾートのウェスピン支部員が唯一、直接管理しているのが闇市だ。そいつを尋ねりゃ、運が良ければ支部員と会わせてくれるかもな。」


まあ、無理だろうがな。そんな含みのある言葉尻を肌で感じた。

しかし、まだウェスピンの街の人々も知らない、火急に対処すべき事態が始まろうとしているかもしれないのだ。それを感じているのは、僕だけだ。背に腹は代えられない。


僕だけ。

ぐっ、と下腹が上から抑え込まれるような重みを感じる。そう、重たいのだ。フィリッツという賞金首を捕まえるだけではない。それに至るには、あろうことか筋金入りのマフィアに接触し、情報を得なくてはいけない。それも、ひとりで、だ。正気の沙汰とは思えないだろう。僕もそう思う。


「すいません。手伝う、とか言ったんですけど。そろそろ行かなきゃ。」


ブラシの先端から水を滴せたままで、それを衛兵に差し出した。


「そうか。」


衛兵はそれを受け取って自らの傍らにそっと置くと、他には何も言わなかった。

黙々と、擦りつけるブラシと地面との摩擦に泡立つ白い洗剤を見つめるだけだった。


少し首を下げた程度にお辞儀をし、その場を後にする。


怖いなあ。

せめて、笑顔で送り出してもらえれば、僕の足取りも少しは軽やかになっただろうに。


遠のくほどに人の陰に隠れていく衛兵を横目に振り返りながら、そんな甘えで気を紛らわせ、僕は闇市へ向かうのだった。

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