第15話 風呂

  *

こねられた泡でもっこりと膨らんだ髪の毛を両手で握ると、ぶしゅう、と短く音を立て、小さなシャボン玉の粒々が飛んでいくのが楽しい。

深夜の露天風呂は誰もいないので、身体を洗いながらうろ覚えの歌を歌うことも、湯船に体を浮かすことだってできてしまう。

ここはウェスピン冒険者ギルドの裏手にある大浴場だ。脱衣所から出れば屋根は無く、満天の夜空の下で湯浴みに興じることができる。


僕―レイン・フォルディオは頭の上から生温かい水を被り頭の泡を落としてから、湯船へ身体を沈めた。初めての屋根のない露天風呂を、人目を憚ることなく堪能する。屋敷の風呂より何倍も大きく、湯船を岩で囲むという発想も新鮮に感じられた。


「リリーに見せたらなんて言うかな…」


呟いてみてからハッとする。


(…でもそれって、つまり同じ風呂に入るってことじゃ)


彼女の伏目に頬を赤らめる顔と白い首筋を想像したところで、僕は思考を止める。悪いことを考えようとしたものだ、彼女に見せる顔が無くなる前に良心を呼び覚ませたことへ安堵した。

その代わりにと、思い浮かべたのはあの半獣の双子達だ。

クセのあるカーブが毛量過多な灰色の髪の毛にかかっていて、いたるところで髪束が渦を巻きかけていて。真ん円お目々がぱっちりなのも、小動物のようで愛らしい。あと、三角あぶらあげを頭にふたつ乗せたような、大きい耳。

犬でもないし、猫とも違う。北の方に住むという、オオカミのものにそっくりで。すこし口元から見えていた八重歯から、実は逞しい歯並びだったりするのではないかと想像してみたり。


要するに、僕は彼らに純然な興味を抱いているのだ、と自覚する。子どもが、普段は見せない父親の仕事ぶりを覗いてみたくなるような、そんな興味。

子どもだからか、半獣だからか、彼らだからなのか。

理由はどれか分からないけれども、また会う時があれば彼らの話を聞いてみたい。普段は何をしていて、どんな食べ物を食べていて。いや、それよりも、彼らの主人はどのような人物なのだろう。


「お礼もしなきゃなあ。」


自然と言葉が出た。

のぼせかけた重たい頭で、心得という魔導書を思い出す。

『ココロ魔導書』と、勝手に名前を付けてみたがどうだろう。二人組の荒くれ者に奪われたはずだったが、僕がポーションを口にした際に起こる独特の疲労感で少しの眠りに入っていた間に、そっと僕の傍らに置かれていた。

その代わり、双子の忘れ物であったクレヨンが無くなっていたものだから、もしやあの子たちが本を取り戻してくれたのではないかと考えたのだけれども。

流石に、それはないかなあ。

と、考えを改める。

なんにせよ、貴重な本が返ってきて嬉しい。

あの荒くれ者がどのような心境の変化を経て本を手放すことになったのか、おそらく中身が理解できずに手放したのだと予想がつくが―これもまた、運が良かったということなのだろう。


ロウに出会ったことも、ナナに出会ったことも。全部が全部、偶然だというのだから何が起きるか分からない。


父からの逃げ道を奴隷魔法の研究に見出して、ただ没頭した薄暗い机上の日々。

世間と繋がりがあったのは、あの部屋にひとつだけあった、ガラスに傷のある四角い窓だけだった。

その父の死を以て時が動き始めたかのように思えるほど、日常の空が広かったことや陽だまりに色があることも、ぬかるんだ土を踏んだ時の沈むような感触でさえ、真新しいものに感じたのだ。きっとひとつ失って、もっと多くを取り戻したのだ。


肩に片手で掬ったお湯をぽたぽたとかけていると、

―ぽつり。

小さな雨粒が鼻先を叩いた。


「少し、長居しすぎたかな。」


雨に、急かされるみたいだ。

リリーシャがいたら、まだ上がらないのですか、と、声を二度ばかりかけられるくらいにはゆったりしていたのではなかろうか。


誰が見ているわけでもないが、覚束ない足元を悟られぬようにゆっくりと湯船から立ち上がる。


「おっと…はは。」


目に見えるものが良く分からないくらいにのぼせてしまっていたのが面白かった。手を伸ばして湯を囲む岩を掴むと、その認識が動きよりも遅れてやってくる、ちぐはぐで不思議な感覚。


恩とか、弔いだとか。父に対してあるべきそういう謝意を棚に上げて、僕たちは自分勝手に前へ進もうとしているのは分かっている。その言い訳として、ロウと共に世界をひっくり返さなければいけないから、と大儀名分にしがみ付いている自覚すらある。

きっと誰も許しはしない。それは後ろめたい気持ちを確かに感じていて、それでも目を背け続けていることを誰よりも知っているから。

しかし、だからといって向き合うこともできない。プライドだとか、罪の意識だとか。全てひっくるめて忘れ去るほどに前を向かなければ、ロウの後ろをついて行くことはできないからだ。それでも、いずれ立ち止まりそうになる時が来る。そんな予感は既にしているからだ。

感慨に耽る、過去を決別する。それに割く体力も時間も、今の僕たちにはないのだ。


ごめんなさい。


これを言うのはまだ早い。

全てが終わり、奪った命の多くを噛み締めた後に、僕たちは十字を切って心から首を下げなくてはならないのだと。

そう、思う。



  *

「お疲れ様でございます!伝令は受けております。サラ第三騎士隊長殿。」


跨った馬より一足に降り、かしゃり、と地につく鎧の乾いた音を関門のレンガへ反響させる。私―サラ・フェルトは第三部隊の一部である数十名の団員を率いて、帝都からウェスピンへ一夜に移った。

少しばかり降り始めた雨が気になるところではあったが、『初心の林』の足元が覚束なくなれば行軍に支障が出るという判断で、この深夜の移動を決行したのである。


頭には鎧兜を装着していなかっただけに走行中に受けた雨粒で、肩ほどまであるお気に入り金髪が重く感じるだけでなく、首元が蒸れて気持ち悪い。

後ろ髪を風に靡かせていた間は涼しくあったが、こう馬を止めると汗も吹き出してくるものだ。

仮眠もとっていないので、油断をすれば不機嫌な表情をしてしまいそう。元より、私の愛嬌についての人気はさっぱりなものだが。


隣で逸る馬を静める副団長のホーネス・エインズが嫌味に視点を提げた目つきで、甲冑を着た初老の衛兵に言った。


「第三騎士隊長ではありませんよ、衛兵。騎士団第三隊長、です。年を召しているならば相応に鏡となる振る舞いでなくてはならないでしょう。しっかりなさい。」


「は、申し訳ございません。」


初老の衛兵は深々と頭を下げ、誠意を見せる。

また、これか。一歩帝都を出るとホーネスのいびりが目に付くほどに顕著だ。以前、彼のその悪癖を指摘したことがあったが、騎士団が帝都外でもその栄誉たる存在であることを知らしめるためだと宣い退かなかった。

年中強情な私が言えることではないが、彼のたまに見せる余計なこだわりには時折うんざりする。頭は切れてもそういったところが彼を今の地位に甘んじさせているのではないだろうか。現に、彼の評価を管理部に上げるときにはその書類を書く筆の速度も落ちるものだ。


私は眠気に反比例し落ち込み始めた気力を振り絞り、精いっぱいの労いの言葉を衛兵に贈ろうとする。


「いい。気にするな。貴殿、出迎えを感謝する。早速ですまないが、宿まで案内してはもらえないだろうか。」


「かしこまりました。どうぞ、こちらへ。厩舎は宿のそばにありますゆえ。」


ううん。少し素っ気なかったかもしれないが、これが限界だ。ホーネスがああである以上、私がもっと騎士団の顔となるような振る舞いを見せなくてはならないのだが。

―何を隊長がこんなことで悩んでいる、媚びを売るなど、女に戻るだけだ。

内心の私がそう冷たく窘めるものだから、結局私は鉄仮面を崩さないのだ。


衛兵は再び頭を下げると、私たちを関門の向こうへと引き入れていく。

静まり返る街並み。既に街灯の明かりは消され、関門の光が我々の長い影を作るだけだ。

目を凝らせば見えてくる、眼前に伸びた馬車が四台ほど並べられるほどの大通りも、そこに立ち並んだレンガの屋根が尖った三角形を形作る角のない窓が特徴の家屋も、全て帝都の真似事に見える。


「うむ。やはりウェスピンは実に模範的ですね。帝都を敬い帝都に倣った建築。実に美しい。」


「は、勿体無きお言葉…。」


ホーネスめ。本気でそう思っているのなら、私とは一生分かり合えないな。それとも、この男は帝都至上主義か何かなのだろうか?


世辞を受け取り、それに対してえらく畏まった返事をする衛兵も、ウェスピンのその佇まいに不満があるように感じる。

数十年前まではウェスピンも独自の文化の基、発展を築いていたと聞く。この深い皺を顔にいくつか刻んだ衛兵はその時代を知っているのだろう。


さて、そんな帝都よりも狭いウェスピンだがフィリッツ・マクガフィンはこの街に身を潜めているという。騎士団が足を踏み入れた以上、この件において被害ゼロがボーダーラインだ。


明日へ向けて気を改め、既に眠りへついた人々を起こさぬよう静かに馬を引いていく。

そのような使命と責任を認識する一方で、魔物を斬ることに対して今か今かと胸を高鳴らせている自分がいることも、私は確かに感じていた。



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