第11章 内に潜む殺意
事件が起きてから数日後、
通用口に回ってドアを引く。施錠はされていなかった。廊下を歩いたすぐの事務室に、その人物は待っており、理真と私が入ると椅子に座ったまま振り向いた。
「どんなご用件でしょうか」
すでに業務は終えていたのだろう。机の上は綺麗に整頓されており、パソコンの電源も落とされていた。
「犯行に使われたトリックが分かりました」
理真が静かに告げる。対面する人物は、そうですか、とだけ答え、真っ直ぐに理真の目を見返すと、
「それは面白いですね。興味がある。もしよろしければ、聞かせてもらえませんか?」
なぜ自分にだけそれを伝えに来たのか。ということを問い質してこない。それは、すなわち。
理真は、わかりました、と返事をしてから、
「私はまず、犯人が取った手段が
以上のことを鑑みてもなお、犯人が実際に扼殺という手段を選んだからには、それそのものに何かしらの必要性、メリットがあったとしか思えません。では、扼殺が持つメリットとは、何でしょうか。まず考えられるのは、出血を引き起こさないという点です。首の頸動脈を強い力で押さえつけることによって、脳へ行くはずの血液を遮断して死に至らしめるのですから。
ここではとりあえず、犯人の目的が〈出血を引き起こさずに相手を殺す〉ことにあったと仮定してみましょう。ですが、同じメリットは何も扼殺だけに限定されるわけではありません。一部の毒物を用いた殺人や、同じ〈窒息死〉でも、さっきも言った紐などを使って首を絞める絞殺にも適用できます。では、毒殺や絞殺と扼殺の違い。正確には、扼殺だけが持つメリットというものが、まだ考えられるでしょうか。私が思うに、それは素早く、かつ確実に犯行を行えるという点にあるのではないかと考えます。殺したい相手に毒を飲ませるのは手間が掛かりますし、絞殺は首に紐なりを巻き付ける必要が当然あり、その動作の途中に相手に紐を掴まれて犯行を阻止されてしまうという恐れもあります。対して扼殺であれば、相手の正面に立った瞬間、まず間違いなく殺害体勢に、恐らく一秒も掛けずに移行できます。これは大きなメリットなのではないかと考えます。つまり扼殺という手段は、出血を引き起こさず、何の道具も使用しないという条件下においては、最も確実に相手を殺害可能な殺し方だと定義できるでしょう。ここまではいいですか」
対面する人物は黙ったまま頷く。理真はそれを確認してから、
「ですが、扼殺は当然、万能な殺害手段ではありません。何事にもメリットがあればデメリットも存在します。扼殺のデメリットとは何でしょうか。私が考えつく扼殺最大のデメリット、それは、相手に極度に接近しなければならないという点です。凶器となるのは犯人自身の両手なのですから、腕のリーチ、イコール殺害の射程距離ということになってしまいます。試してみれば分かりますが、相手の首に手を掛けるというのは、相当接近しないと無理です。しかも、矢石さんの首についた痕跡は、犯人に真正面から首を絞められたことを物語っています。矢石さんは、それほどの接近を犯人に対して許したということになります。ここで、矢石さん自身のパーソナルな面が障害となってきます。彼は極度に用心深く、加えて人の気配を察知する能力に長けた人だったそうです。そんな人物が、他人に対してそこまでの接近を許すとは考えがたい。
ですが事実、犯人は真正面から矢石さんを扼殺することに成功しています。どういった手段を講じれば、これが可能となるでしょうか。私は、ひとつしかないように思いますし、犯人も実際にその手段を行使したに違いありません。それは、誘導と奇襲です。犯人が近づくのではなく、矢石さん自身がこちらに接近するよう仕向け、彼が完全に油断した隙を突いて首に手を掛けるというものです。そんなことが可能な人間がいるでしょうか。あの用心深い矢石さんを自分の真正面へと誘導できる人物が。身近に考えて、ひとりだけいます。トマホークチキンの事務員、
対面する人物は肯定も否定もしなかった。理真は続ける。
「犯人は、それを利用しました。自分を上坂さんであると矢石さんに思い込ませて、扼殺可能な射程距離にまで近づけさせることに成功したのです」
「……いったい、どうすればそんなことが可能なのですか」
目の前の人物の声と表情に、焦りの色が浮かんだように思えた。対する理真は、冷静な口調を崩さないまま、
「犯人は、トマホーくんの中に入っていたのです。あの着ぐるみに入るのは上坂さん以外にいないというのは、社の全員が承知していたことです。矢石さんも例外ではなかったでしょう。トマホーくんの着ぐるみを着てさえいれば、その〈中の人〉が全くの別人であるとは、矢石さんは疑いもしなかったのではないでしょうか」
「……だとしても、扼殺は無理でしょう。ご覧になりましたよね。あの着ぐるみの両腕は大きな翼になっています。人の首を絞めることなど不可能です」
「おっしゃるとおりです。犯人は着ぐるみ越しではなく、その手で直接――指の跡などから個人の特定がされないよう、コートの襟越しにですが――矢石さんの首を絞めたのです」
「着ぐるみを脱いだということですか。あの着ぐるみは確かにひとりで脱着可能に出来ていますが、脱いで姿を見せては結局同じことではありませんか? その時点で中に入っているのが上坂さんではないとばれてしまう。着ぐるみから顔を出した直後の状態では、下半身はまだ着ぐるみの中です。警戒して距離を取るであろう矢石さんに近づくことは不可能です」
「それもおっしゃるとおりでしょう。その問題をクリアするために、犯人はもうひとつの策を講じました。犯人は、自分で着ぐるみを脱いだのではありません。矢石さんに脱ぐのを手伝ってもらったのです。
犯人の動きは恐らくこうです。着ぐるみを着たまま矢石さんに姿を見せる。矢石さん当然、中に入っているのが上坂さんだと思ったでしょう。そこで、犯人は着ぐるみの背中を矢石さんに向けて、ファスナーを下ろしてもらうよう頼んだのです。背中を向けて体を左右に二回揺するのが『ファスナーを開けてくれ』というサインとして皆さんの中で通っていたそうですね。要請どおり、矢石さんは着ぐるみに近づきファスナーを下ろします。あの着ぐるみは中からもファスナーを開けられるよう上坂さんによって改造されていましたが、外から開けてもらったほうが楽であるため、近くに従業員がいた場合はそうしてもらう、と上坂さんもおっしゃっていました。そのことは矢石さんも承知していたはずですし、彼女に興味を持ってもいましたから、何も疑わずに手伝いをするでしょう。そして、矢石さんがファスナーを下ろし、着ぐるみの背中が割れる。その瞬間、中にいた犯人は矢石さんに襲いかかりました」
「首を絞めたということですね。ですが、それもやはり不可能なのではありませんか? なにせ、犯人は矢石さんに背中を向けている状態です。どうやって即座に首に手を掛けると」
「問題ありません。矢石さんに対して背中を向けていたのは、トマホーくんだけだったからです。中の人となっている犯人自身は、着ぐるみの中に前後逆の状態で入っていたのです。そのため、矢石さんがファスナーを開けた瞬間、すでに着ぐるみの中で両翼から腕を抜き身構えていた犯人は、即座に奇襲をかけることが可能だったのです」
それを聞いた瞬間、対峙する人物は表情を歪めた。
「このトリックを可能としたのは、トマホーくんの着ぐるみの構造でした。あの着ぐるみは、腕部が肘も手首もない一枚の翼で構成されています。脚部も筒状で膝関節のない極端な短足のため、中の人の膝から下しか入らない。足首も鳥類独特の、前三本、後ろ一本に指が突き出た、
その状態で前進すれば、外から見る分には、トマホーくんが後ろ歩きをしているようにしか見えない。会場で女の子が目撃したのは、まさに犯人がトマホーくんの中に逆向きに入って歩いている現場だったのだ。時間帯が不明なことから犯行の前後どちらかは分からないが、理真の推測では、客のいる場所から見て遠ざかっていったということは、犯行後に着ぐるみを戻すため控え室に向かっているところだったのではないかという。
「これで、犯人が用心深い矢石さんに真正面から近づけたことに加え、殺害手段に扼殺を選んだ理由も分かりますね。犯人は返り血で着ぐるみを汚したくなかったからです。トマホーくんの白い体は、僅かな返り血も目立ってしまいますから。そんなものが見つかったら、着ぐるみが犯行に使用されたことがすぐにばれて、このトリックも容易に露見してしまいかねません。さらに、着ぐるみの内部も徹底して調べられるでしょう。上坂さん以外の人間の汗の成分や髪の毛、そのとき着ていた服から抜け落ちた繊維などが発見されたら、有力な証拠として効力を発揮するはずです」
今、理真が言ったとおり、すでにトマホーくんの着ぐるみは鑑識により徹底的に調査をされて、実際に上坂以外の人物の汗と頭髪が発見されている。
「犯人が紐などを使った絞殺を選ばなかったのは、着ぐるみの中から奇襲を掛けて、首に紐を回す初動に失敗してしまうことを恐れたためです。それを回避されてしまったら終わりですから。犯人は恐らく首に手形を残さないために手袋を用意していた可能性がありますが、矢石さんはコートの襟を立てて着ていたため、それを利用することにしたのでしょう。これが、私が推理した犯行トリックの全てです。どうでしょうか」
「どう、と言われましても……」
目の前の人物は目を逸らしたが、
「出頭していただけませんか」
そう言葉を掛けられると、対峙している人物、
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