第9章 鳥を見た

 捜査本部に到着した私と理真りまは、さっそく電話をくれた丸柴まるしば刑事に話を聞いた。


「確かに見たんだって」

「トマホーくんが後ろ歩きをしているところを?」

「そう。目撃者は六歳の女の子よ。昨日、事件が起きた時点で連絡先だけを聞いておいた親子連れに今日、話を訊きに行ったのよ。そこで娘さんが証言してくれたの」

「詳しく聞かせて」

「会場内を両親と一緒に歩いていた女の子が、並んでいる屋台の隙間からトマホーくんを目撃したそうよ。真正面から向き合う格好だったらしいの。それを見た女の子は、何か変だなと感じたんだって。注意深く見てみて、その理由が分かった。トマホーくんが遠ざかっていたの。つまり後ろ歩きをしていたのね。で、見ている間にトマホーくんは、どんどん後ろ歩きを続けて、パーティションの角を曲がって見えなくなったそうよ」

「時間は?」

「子供のことだから、詳しく憶えてはいなかったけれど、両親の話だと、自分たちがあの会場にいたのは、午後六時半から七時半くらいの間だって」

「どこで見たかは?」

「そっちは全然はっきりしなかったわ。六歳くらいの子供にとったら、あの入り組んだ会場内はさながら迷路で、どこで見たのかなんて憶えていられないわよ」

「仕方ないね」

「どう、理真、事件に関係があると思う? ただ上坂うえさかさんがバックヤードを歩いていただけかな」

「後ろ歩きで?」

「うーん……」

「ちょっと前に後ろ歩き健康法みたいなのが流行ったことがあったよね」

「わざわざ着ぐるみに入った状態で?」

「さらに体に負荷をかけるためかも」


 着ぐるみ後ろ歩き健康法? かなりやれる人を限定してしまうエクササイズだ。


「というか、上坂さんに直接訊いてみればいいんじゃ」

「それもそうね」と丸柴刑事は手帳を開いて、「理真が電話する?」


 探偵は頷いて、丸柴刑事から聞いた上坂の携帯電話番号をダイヤルした。



 丸柴刑事から聞いた話を理真が電話口で伝えると、上坂は全く身に憶えがないと不思議がっていた。スピーカーモードにして通話していたため、丸柴刑事や私にも向こうの声は聞こえていたのだ。確かに着ぐるみを着たままバックヤードを歩いたことは何度かあったが、後ろ歩きをしたことなどないという。その女の子の見間違えではないか、というのが上坂の見解だった。


「見間違え、かあ……そうなのかなあ」


 丸柴刑事は首を傾げた。


「丸姉、誰か――トマホークチキンの従業員の誰かが、着ぐるみを背負って歩いているだけだった、という可能性はある?」

「ないわね。女の子の話だと、トマホーくんの足下まではっきりと見えていたそうだから。確かに自分の脚で歩いていたそうよ」


 あの短い脚で、か。


「でも、上坂さんは否定したよ」

「そうね。何なんだろう」

「歩いていた……後ろに……」


 理真は考え込むように黙り込んだが、すぐに顔を上げて、


「丸姉、従業員についても調べたんだよね。それも聞かせて」

「分かった」丸柴刑事は再び手帳を広げると、「まず、社長のとまさんだけど、木出崎きでさきさんの話のとおりだったわ」

「暴力団会長の隠し子?」

「そう、虎哮会ここうかいね。新潟に来ることになった経緯にも嘘はないわ。木出崎さんが言っていたように、これは調べればすぐに露見したことでしょうね。苫さんの父親である会長も、木出崎さんの話にあったとおりの人物だったみたい。愛人を常時何人もハーレム状態で抱え込んで、飽きた女性はすぐに手放していたそうよ。でも、身ひとつで放り出すとかの酷い捨て方をしてはいなかったんだって。まとまったお金を持たされて円満解消したという愛人ばかりだったそうよ。そのせいもあってか、会長のことを悪く言う元愛人はほとんどいなかったみたい」

「変なところで律儀なんだね」

「でも、決して人間が出来ていたわけじゃなかったみたいよ。これも木出崎さんの話にあったことだけど、跡目争いのいざこざを避けるため、正妻以外の女性との間に決して子供を作らなかったというのも本当だって。だから、苫さんのお母さんが子供と一緒にいたという目撃証言を聞いたときの怒りようは、それはもう凄かったって」

「そんなの勝手だよね。妊娠を女性だけのせいにされてもね。種を持ってるのは男のほうなんだから」

「そうよね。そっちが好きで弾を撃っておいて、命中したら的が悪いって言ってるようなものよね」

「威嚇射撃のつもりだったのに命中しちゃった、みたいな感じ? お前の射撃の腕が下手くそなだけだろっていうね」


 捜査本部で何の話をしてんだ。みんな捜査で出払ってて、誰もいないからいいけど。


「で、丸姉、そのひどい会長は今も現役なの? 組は壊滅したそうだけど」

「虎哮会は二十年以上前に受けた大規模なガサ入れで事実上壊滅して、会長も身を潜めていたけれど、それからすぐに逮捕されてるわ。で、十年ちょっとで刑期を終えて娑婆に戻ったけれど、もう組の再建とかをする気力はなくなってたみたい。去年病死したのが確認されてるわ。組が事実上壊滅してからは、奥さん、子供にも逃げられて、かつての忠臣と言われたような幹部も次々に離れていって、出所後はずっと孤独な余生を過ごしたみたい」

「……そうなんだ。そのことを苫さんや木出崎さんは知ってるのかな?」

「何とも言えないわね。出所後の暴力団組長が病死したなんて、記事になったとしても地元紙で小さな扱いになるだろうし、新潟に住んでいたなら知らずにいる可能性のほうが高いかも。ただ、苫さん親子が新潟に逃げ延びていたということは、ついに虎哮会の誰にも知られることはなかったみたい。その絡みで苫さんが何か因縁を付けられるとか、そういったことはあり得ないと考えていいと思う。無論、木出崎さんにもね」

「苫さんが虎哮会会長の忘れ形見だということは、特別意味のある属性ではなくなったということね」

「そう」

「なるほど。でも、それだけのことをよく一日かからずに調べられたね、丸姉」

「さすがに一課じゃ無理よ。クロさんに伝手つてを頼って調べてもらったの。兵庫県警に知り合いがいるんだって。助かったわ」


 クロさんとは、組織犯罪対策課第一係の黒崎くろさき警部のことで、本部内のほとんどの人たちは親しみを込めて「クロさん」という愛称で呼んでいる。組織犯罪対策課、通称「組対」はヤクザ担当のお巡りさんの集まりで、そのせいなのかどうなのか、所属している刑事たちも「どちらが捕まえられる側なのか」という風貌をしている人たちが多い。クロさんも例外ではないのだが、見た目に寄らず(などと言うと怒られるかもしれないが)、素人探偵の理真やワトソンの私にも理解があり、気さくに話し掛けてきてくれる、いい人だ。


「あとはね……」丸柴刑事はさらに手帳をめくって、「トマホーくんの中の人の上坂さんと、調理担当の林山はやしやまさんには、過去に特に何かあったとかはないみたいね。上坂さんは高校卒業後、派遣やバイトをいくつか転々として、トマホークチキンが正社員として働く初めての会社ね。林山さんは高校卒業と同時に市内の住宅設備会社に就職したけれど、一年で辞めてるわ。それからは主に調理関係のバイトをいくつかやってるわね。交友関係にも怪しい人物はいないみたい。当然、虎哮会の関係者もね」

「そうか。ねえ、殺された矢石やいしさんのことも調べたんでしょ?」

「うん。その矢石さんなんだけど、ちょっと怪しいところが出てきたのよね」

「なに?」

「矢石さん、どうやら暴力団と繋がりがあったみたいなの」

「暴力団って、もしかして?」

「ううん。ここ新潟の暴力団で、関西が拠点だった虎哮会とは全く無関係」

「どんな繋がりだったの? 元構成員とか?」

「矢石さん自身は暴力団への所属歴はないわ。クロさんも矢石さんのことは知らなかった。でも、彼の携帯電話に登録されている人の中に、暴力団関係者の名前があったの。連絡が取れた何人かに訊いてみたんだけど、組の〈仕事〉とは関係のないプライベートの友人だって。それと、木出崎さんについては、昨日自分で話してくれた経歴に全く間違いはないわね。虎哮会の中でも一番の武闘派で通っていたヤクザで、現役時代は血の気が多いことで地元警察の組対でも有名人だったらしいわよ」

「そんな感じの人には見えなかったけどね」


 私も同感。確かに迫力はあるが、丁寧な物腰と言葉が印象的だった。


「とりあえず、現在手に入った情報はこんなところね」


 丸柴刑事は、ぱたんと手帳を閉じた。


「丸姉、捜査方針はどんな感じなの?」

「矢石さんの交友関係に暴力団関係者がいたので、警察としては外部犯の犯行も視野に入れて捜査に当たることになったわ。虎哮会の残党が事件に関わっている可能性も会議で意見されたけど、二十年以上も前に壊滅した暴力団が今さら何をって気もするしね。いちおう、関西の警察にも協力を仰いで怪しい人物をピックアップしてもらう準備もしてるみたい」

「もし、虎哮会がこの事件に関係してるとなると、矢石さん自身は無関係なわけだから、苫さんと木出崎さんのどちらか、あるいは両方が絡んでる可能性が大いにあるってことね」

「そうね、特にその二人は死亡推定時刻の午後七時二十分前後のアリバイが不明瞭だしね。というか、会議ではアリバイのことはあまり意味がないって思われてるわ」


 それを聞いた私は、おや? と思った。被害者の死亡推定時刻は七時二十分前後で、確かに苫と木出崎の二人には、屋台のそばにいたと自己申告しただけでアリバイを保証してくれる人物はいない。だが、上坂と林山は、七時五分からずっと一緒に屋台の中でお客の対応をしていたという確固たるアリバイがあったはずだが。私がその疑問をぶつけてみると、


由宇ゆう、その二人のアリバイを補完してるのは互いの証言だけなんだよ。口裏を合わせれば済むことだわ」


 答えをくれたのは理真だった。


「あ、そうか。じゃあ、もしそうだった場合、二人は共犯ってこと?」

「もしくは、片方はあくまでニセのアリバイを偽証させられているだけとかね。でも、もしそうなら、偽証させられた側は、矢石さんの死体が発見された時点で、その理由を知ったはずよね」

「殺人のアリバイ工作をさせられたと」

「そう。つまり、二人の証言のうちどちらかが偽証であれば、その偽証をしたほうは相手が犯人だと知っているということになる」

「それでも真実を私たちに打ち明けなかったというのは? 何か弱みを握られているとか?」

「由宇、そもそも偽証があったということ自体、そういう可能性もあり得るというだけの話だからね。二人とも真実を語っている可能性も当然、考えられる」


 確かにそうだ。となれば、従業員を犯人と仮定した場合、アリバイ方面から犯人を絞り込むのは難しいということか。

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