第7章 出現

 寝て起きて、何を忘れていたのかを思い出した。昨夜現場で、トマホークチキンのマスコット〈トマホーくん〉に会うのを見事に失念していたのだった。約束していたのに、〈中の人〉である上坂うえさかに申し訳ない。

 念のため丸柴まるしば刑事に電話をしてみたら、今朝早くにとま社長以下、社員全員が会場に寄り、捜査に支障のない社用物は全て回収していったという。その中には、トマホーくんの着ぐるみも含まれていた。

 ちなみに、その電話を掛けた時刻は午前十時を回っていた。私は、アパートに住み込みの管理人という「出勤」のない仕事をしてはいるが、比較的早起きだ。いつもなら朝八時には起きて、自分で作った朝食をいただいているのだが、昨夜は帰りが遅くなったことに加え、寒さのためについつい布団でぐずってしまったのだ。反省。

 だが、丸柴刑事の口から朗報を聞くことが出来た。


由宇ゆうちゃん、トマホークチキンのオープンにはまだ日があるけれど、今日の午後に店舗の駐車場で試食会を開くって、苫社長が言っていたわよ。自慢のフライドチキンを一足早く、無料で提供してくれるそうよ。数に限りがあるのでお早めに、だって。上坂さんもトマホーくんに入って参加するみたい」


 これは行かねば。礼を言って通話を終えると、私は理真りまの携帯電話へダイヤルした。数回目のコールで、理真は眠そうな「おはよう」の声を聞かせた。私が丸柴刑事から聞いた話をすると、


「ぜひ行こう」


 即答した。もしかしたら、昨夜の聴取では訊き足りないこともあるのかもしれない。出発時間になるまで、私は理真の部屋で駄弁って過ごすことにした。理真は私のアパートに住んでいるのだ。



「トマホークチキン、どんな味なのか楽しみだね。苫さんがあれだけ豪語するからにはさ、生半可のおいしさじゃ納得できないよ。私、思いっきりハードル上げるからね。フライドチキン、おいしいよね。食べるのが面倒くさいっていう人もいるけどさ、まあ、確かにフライドチキンを上手に食べるにはテクニックがいるからね。そうが食べ終えたフライドチキンなんて、ひどいものよ。まだまだ全然食べられる部位が残ってる。もったいないから、私はいつも宗の残したのにも手を出すの。だから同じ量で分けても、結果、いつも私のほうが多くチキンを食べられるという……」


 車中、理真の口から出るのはフライドチキンの話ばかりだ。彼女がトマホークチキンに向かう目的には、聴取の続きなど少しも含まれていなく、百パーセント試食しかないらしい。そんなことじゃないかと思ってはいたけど。ちなみに、理真の話に出てきた「宗」というのは、実家に住む彼女の高校生の弟だ。

 トマホークチキンが見えてきた。テナントでなく、小規模ながらも平屋の独立店舗だ。そう多くの台数は駐められないが駐車場もある。その駐車場の一角に長机が出され、フライドチキンを並べたケースが置かれている。そこで道行く人たちに声を掛け、チラシを配り、チキンを振る舞っているのは、苫と調理担当の林山はやしやまだった。理真が運転する真っ赤なスバルR1を駐車スペースに入れると、私たちは降車して試食会場へ急いだ。いや、正確には急いだのは理真ひとりで、私はそのあとを追って走ったのだ。


「あっ! 探偵さん」


 理真の姿をいち早く目に留めたのだろう。林山が声をあげた。その後ろに私の姿も認めると、「助手さんも」と私にも声を掛けてくれた。「助手さん」って、あまり呼ばれたことはないな。かといって、「ワトソン」という専門用語で呼ばれるのも何だし。まあいいか。


「苫さん、林山さん、昨夜は遅くまで御協力ありがとうございました」


 理真は聴取の礼を言いながら、林山から丁重にフライドチキンを受け取った。私の分は苫社長自ら手渡してくれた。これがトマホークチキン。油が染みないよう厚手の紙に挟まれて黄金色に輝いているチキンは、見た目からしてもう美味しいことが保証されたような代物だったが、そこから立ち上る香りも負けてはいなかった。衣の甘みと肉の旨み、双方がブレンドされた香気が食欲を駆り立てる。「いただきます」私はチキンにかぶりついた。パリパリの衣を噛み破ると、歯と舌が柔らかな肉に達する。全く咬合力を駆使せずとも容易に噛み取れるほど肉は軟らかく、断面から溢れる肉汁が口内に満ちる。味の濃い衣とあっさり鶏肉という最強のタッグチームが、舌の上というリングで問答無用のツープラトン攻撃を繰り出し続ける。これは美味しい。トマホークチキン。その味は私の想像を遙かに凌駕していた。


「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです!」


 私は嘘偽り社交辞令一切抜きで感想を述べた。理真もチキンを(まさに言葉どおり)骨までしゃっぶり尽くして完食しており、私と同じように味を絶賛していた。彼女が科した高いハードルをトマホークチキンは楽々と跳び越えたようだ。

 昨夜聞いた木出崎きでさきの話によると、このフライドチキンは、苫の母親が息子のために試行錯誤して考案したレシピが元になっているという。はっきり言って家庭料理のレベルを越えている。げに恐るべきは母の愛か。私自身も料理は得意と言ってよい腕前だと自負しているが、これと同じレシピを編み出せるかと言われたら、正直無理だ。苫のお母さん、あなたを尊敬する。


「苫さんのお母様は料理の達人だったんですね」


 思わず私は言った。すると、苫は一瞬驚いたような表情になって、


「どうしてそれを――あ、木出崎さんですね」

「――あっ、そ、そうです」


 人に知られたくない過去だったのか? と思い、私は考えなしに口にしてしまったことを恐縮したが、


「ああ、いえ、別に隠していることではありません。林山くんを始め、うちの社員も全員知っていることですから」


 苫は横目で林山を見る。その彼は変わらぬ笑顔でお客さんにチキンを配っていた。私と、そして理真に顔を戻した苫は、


「当然、木出崎さんの過去や、私と母の素性のことも木出崎さんからから聞いて、ご存じなのですよね」

「はい」

「そうですか……」

「あの、お仕事中のところ申し訳ないのですが、少しお話伺えますか」


 理真が予定外の探偵モードに入ったようだ。苫は承諾し、理真と私と三人で、試食会場から離れた店舗の脇に場所を移した。


「さっそくですが」理真は少し声のトーンを落として、「苫さんの過去は社員の方全員もご存じなのでしょうか?」

「いえ。みんなが知っているのは、トマホークチキンが私の母親の味だということだけです。私と母の素性、木出崎さんの過去までは話していません」

「そうですか。変なことを訊くようですが、苫さんはこれまで、ご自身の素性が元で何か不都合や危険な目に遭ったことなどはありますか?」

「いえ。ありません。少なくとも、私自身は自覚していません。私が……」と、ここで苫も幾分か口調を抑えて、「虎哮会ここうかい会長の落しだねだということが発覚したら、何か命に危険があるということですか? あそこはすでに壊滅したと聞きましたが」

「そういうわけではありませんが」


 そう言う理真の表情があまりに真剣味を帯びていたためか、苫は、はは、と笑うと、


「でも実際、これまでの人生で危険な目に遭ったということは本当にありませんよ。探偵さんは、矢石やいしさんが殺された原因が、私の素性と関係していると考えているのですか?」

「そこまで飛躍させてはいませんが」いちおうは否定して理真は、「ちなみに、木出崎さんは今日はどちらに?」

「取引先への対応で外回りです。矢石さんがあんなことになってしまったので、彼がやるはずだった仕事も受け持ってもらうことになりましたので」

「そうですか。上坂さんは?」

「彼女でしたら――」


 苫がそこまで言ったとき、駐車場で、ひときわ大きな歓声が上がった。


「出番のようですよ」


 苫のその言葉で歓声の意味が分かった。

 私たちは試食会場に戻ることにした。理真も聴取は潮時と考えたのだろう。試食会場がしつらえられた駐車場。そこに集う人たちの中に、明らかに人間ではない異形のシルエットが混じっているのが見える。彼(彼女?)こそがそうに違いない。トマホークチキンのマスコット、トマホーくん。私はその姿を正面から見ようと回り込んだ。そして、


「うわあ――」


 これはひどいですね。と私は危うく続けて口に出してしまうところだった。そこに御座おわしていたのは、「ゆるキャラ」と呼ぶにはあまりに禍々まがまがしい何かだった。

 鳥をモティーフにしていることは容易に察せられた。丸い頭部の前方には、くちばしと思しき円錐形の鋭利な物体が生え出ている。頭頂部に乗っているのは「とさか」だろうか。そうとはっきり言い切れないのは、それが「とさか」というよりは逆さにした刃物のようにも見えるためだ。これは恐らく、同じ「トマホーク」の名を持つ斧型の白兵武器にあやかっているのだろう。白目の部分が黄色く着色されている大きな両目は、三白眼気味の黒い瞳が若干互い違いになっているため、どこに視線が向いているのか判然とせず、見るものに不安感を憶えさせる。意図的に配されたのではなく、着ぐるみ製作者の技量と熱量が不足しているために起きたイレギュラーな「互い違い方」であることは明らかだ。くちばしの舌にぶら下がっているのは、鳥類の中でもにわとりに特に目立つ「肉垂にくすい(肉だれ、などともいう)」を模しているに違いない。何もわざわざそれを再現せんでも。首の部分に分かれ目のようなものはないため、真っ白な頭部と胴体は繋がった構造になっている。その卵形の胴体中央には大きく「USA」と書いてある。これは恐らく、同じ「トマホーク」の名を持つアメリカ軍の巡航ミサイルにあやかっているのだろう。鳥モティーフであるため、腕の代わりに大きな翼を持っている。やはり白一色に染められたそれは完全に一枚の部品で構成されているため、肘に当たる関節はない。先端にも指はなく、なぜか鋭いかぎ爪が光っている。胴や翼に比して両脚は細い。胴体が縦長のため、脚はそのしわ寄せを受け、極端に短いパイプのような形状をしていて膝に相当する関節はない。長さからして〈中の人〉の膝から下だけが着ぐるみの脚に入っているのだろう。おかげで〈中の人〉は膝を曲げずに歩行しなければならず、極めて不安定な歩き方を余儀なくされるだろう。足首はこれもあしゆびと呼ばれる鳥類のそれを忠実に再現しており、前方三本、後方に一本という、木の枝などを掴むのに最適な形に指が形成されている(当然のことながら、このトマホーくんが実際に木の枝に掴まることなど不可能だが)。脚と指の直径から考えて、前方に三本ある中央の指に〈中の人〉の爪先がすっぽりと入る構造になっているらしい。ちなみに全部で四本ある指は、そのどれもが同じように中空になっているようだ。歩いて地面に触れるたび、爪先を入れている以外の指もグニャグニャと曲がっていることからそれが分かる。

 ばっさばっさと巨大な翼を前後に振りながら歩行するトマホーくんの姿は、ゆるキャラというよりは、出来の悪いウルトラ怪獣のようだ。そういえば、まだ宗が子供の頃に持っていた「ウルトラ怪獣図鑑」的な書物で、色こそ違えど、これによく似たシルエットの怪獣を見たことがあるぞ(後の調査で、その怪獣は「火山かざん怪鳥かいちょうバードン」だと判明した)。

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