第5話 浮気者

「しゃぶれ」

「……!」


玄関ドアをくぐるなり、男は私にいい放った。


タクシーで30分ほど流し、私達が連れて来られたのは、彼の自宅のマンションだった。


玄関らしきスペースに、住んでいたアパートの4、5倍はありそうなリビングが直結している。

自動関知のライトが緩やかに照らし出したそこには、洋服ばかりが散らかっているように見える。


絶句する私に、彼は続けた。


「どうした青い顔をして。と言っただろ?

おまえのせいで、これからの予定が全てパーだ。せめてすっきりさせろ」


男は私に前を近づけた。


「…は、い」


ためらいながらも膝まずく。

胸には圭太を抱いたまま、肩にはバッグをかけたまま。

男のベルトに手をかけたところで、私は手を止め、頭を下げた。


「…すみません、出来ません」

「はあ?」


ギロリと睨まれ、恫喝が飛ぶ。


「さっきまで必死に頼み込んでたヤツが、早速口ごたえかよ。

あれはやりません、これはできませんなんて、通用すると思ってんのか、ああ?」


「ち、違います!その…

こ、子どもの前では出来ないと…そういう意味です。

あの、幼い子どもにそういうの見せるのって…よくない、というか…えっと…虐待だっていう意見もあって」


鋭い視線に声が震えた。

暫し、沈黙の中で睨み合う。


と、

「ふっ、ふゃぁ」

さっきの声に驚いたのか、胸の中で眠っていた圭ちゃんがぐずりはじめた。


「…ちっ。しょうがねえな。

俺はシャワーを浴びてくる。

さっさと寝かして、寝室にこい。向こうの部屋を使え。空き部屋になってるから」


男が折れ、私はホッと息を吐いた。

男は斜め右の方を指差すと、くるりと私に背を向ける。


「あ、ありがとうございます!

…あの、それから」

「何だよ、まだ何かあるのか?」


振り向いた男のイラついた声に怯えながらも、私は精一杯に声を張った。


「この子、お腹が空いてるんだと思うんです!

いっぱい飲んだら、きっとぐっすり寝てくれます」


「…チッ」


男は黙って体の向きを変え、ダイニングに向かっていった。


少しして。


「ホラ」

「わっ」


バケットが丸々1本、ロケットのように飛んできた。

私は慌てて片手を伸ばす。袋が指に引っ掛かって、何とかキャッチできた。


「明日の朝食用。買い置きの食料はそれだけだ。我慢しろ」


「あの、出来たら水分も!」


「…ったく。これでいいか?」


男は、かなり奇妙な顔つきをしたものの、紙パックの牛乳1本を、素晴らしいコントロールで投げて寄越した。


私はそれも片手でキャッチし、すぐさま2つを開封する。


仕方ない、これは生きるための図太さなのだ。

これらは、母乳おっぱいの原材料なのだから。


私はすぐに2つを開封すると、男の目の前にも関わらず、すさまじい勢いでそれらを食べ始めた。

バケットを口いっぱいに頬張り、それを牛乳で流し込む。


そんな私に男は、


「ははっ、そんながっついてバケット食うヤツ、初めて見たわ」


今日、初めての笑顔を見せた。



男が私達に指し示したのは、よくあるなんちゃって和室の、4畳半ほどの部屋だった。

男の言ったように、使われた形跡は殆んどいなく、型の古い家電製品や衣類、贈答品の箱なんかが開封されないまま転がっていた。


だが、さほどの量でもなかったので、私はそれらを隅に避けて埃を払い、何とか圭ちゃんの寝場所をつくった。


けぷっ。

私同様、こちらも凄い勢いで飲んだと思ったら、小さいげっぷをして即、眠ってしまった。

すごいな、母親の窮地をちゃんと解ってくれているのだろうか。


胸の上下とちいさな寝息を確認すると、私はそっと部屋を出た。



「あの、寝かして…きました」


おずおずと寝室(場所は言われなかったけど、あたりをつけたの)に入ると、男はすでにシャワーを終え、寝転がってスマホを眺めていた。


画面から顔を動かさないで言い放つ。


「風呂に入ってからこい。

クサい、汚い、勃たない」


「…はい」


"着替えは"、だなんて尋ねようとして、止めた。はじめから答えの分かっている質問を、この男はきっと嫌うと思ったから。


その夜、私は男に抱かれた。


男は、言葉少なく旺盛で、経験上、これまでにないほど刺激的だった。

そうして、コトが終わるとすぐに眠ってしまった。


一方の私といえば、全く寝付けない。


久しぶりの情事に(圭ちゃんが生まれた後、夫婦生活は再開していなかった)、体が興奮しているせいもあるのだろう。


眠れぬ間に、いろんなことがとめどなく頭を巡った。


幸せだった日々と、一月弱の逃亡生活。

夫、圭吾への怨みと心配。

それに…

夫がある身でありながら他の男に抱かれた罪悪感と、"圭吾あなたのせいなんだから" という開き直り。


なにより、生活のためとはいえ初対面の男に土下座までし、お情けで体を買ってもらったことが情けなくて_


気がついたら涙を流して泣いていた。

(涙はちゃんと出た。水分取って良かった!)


ふと脇をみると、無神経にも、男は至極気持ち良さそうに眠っている。


見ているうちに、何だか腹が立ってきた。

心の中だけで悪態をつく。


畜生、このウワキモノめ。


中途半端な半グレが、ちょっとお金を持ってるからって、ちょーっと見た目ルックスがいいからって、どうせいつも、女の子をとっかえひっかえしてんでしょ。


顎蹴りあげて、土下座までさせて。

ちょっとはまともに女の扱い覚えなさいよ。


そうよ。

仮にも一夜を共にした女に、ひと言くらいは優しい言葉をかけてくれたっていいじゃない?


でも。

あはは、なーんだ、寝てる時は圭ちゃんと同じで、案外可愛い。

ぴん。

こっそり鼻を弾いてみても、いっこうに目覚めない。小さな寝息と規則正しく胸が上下を繰り返すだけ。


その寝顔を眺めるうちに、泣いているのも馬鹿馬鹿しくなってきた。


やがて、これまでの疲労が一気に押し寄せてきて_____



私は、いつのまにか深い眠りに落ちていた。

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