ほしのあらし

冴草優希

chapter1.平成最後の夏が来て

ほしのあらし


 五十嵐真澄は、クラスの一部から人魚姫、と呼ばれていた。

 実際、真澄は美人だと思う。学校内でも、それなりの上位に位置する部類の。けれどあの連中が呼ぶ「姫」というのは、真澄の教室ではいつも無口で、コミュニケーションを取りたがらない性格……そんな「お高くとまった不思議ちゃん」である真澄への、やっかみや皮肉、嘲笑の意図が込められているらしかった。

 そんな空気を知ってか知らずか……気づいていないことはないとは思うけれど……真澄は窓際の席で、いつも空を見上げている。そんな小学校からの友人の姿を、私はいつからか、遠くから眺めるようになっていた。

 嫌いになったわけじゃない。ただ、私は私で自分の人生で手一杯で、わざわざ私の方から首を突っ込むのは、どうにも気が引けたのだ。

 なのに、あの物憂げな瞳が気になって……私は無意識のうちに真澄を観察するようになっていた。時折、一つ結びのおさげ髪が揺れて、振り向いた彼女と目が合う。真澄は目を細めて笑い、私は顔が熱くなるのを悟られないように曖昧に頷いて視線を動かす。まるで初恋をした中学生男子みたいだ、なんて自分でも思う。

 高校に入って一年半、それが私の日常だった。

 そう。あの、夏の終わりが来るまでは。


「らっこちゃん」


 その懐かしいあだ名で呼ばれたのは、八月後半の暑い夜。あまりに寝苦しくて、コンビニまでアイスを買いに行った帰りだった。

 篠原琴夏から「らこ」を取ってあだ名にした知り合いなんて、一人しかいない。それは確かだったのだけれど、教室の外で真澄に会うことなんてしばらくなかったものだから、正直、私は軽い恐怖を感じていた。私は以前、彼女とどんな話をしていたっけ。

 

「ひ……久しぶり、真澄。真澄も買い物?」

「うん。立ち読みしてたら、らっこちゃんが来る気がして」


 そう言って、真澄は笑う。笑顔でそんなことを言うのは、小学校の頃から変わらない。思いついてからの決断が早すぎる、運命論者のロマンチスト。昔の認識と彼女が変わらなかったことで、私はどうにか気持ちを落ち着かせることができた。


「えーっと……アイス、半分食べる?」

「いいの? ふふ、らっこちゃんとはんぶんこだ」


 袋から取り出したチューベットを二つに割り、片方を真澄に渡す。話していると調子が狂うけれど、それがなんだか心地よかった。私が気にしすぎていただけで……真澄は、変わっていない。

 並んでチューベットを食べながら、私は真澄の横顔を間近で見てうれしくなっていた。二学期になったら、もっと私から真澄に話しかけてみよう、とも思ったりした。


「じゃ、夜道気をつけて。ナンパされてもついてかないようにね」

「あ……えっとね、らっこちゃん」

「んー?」


 空の容器をゴミ箱に放り、連絡先を改めて交換し直して。そろそろ眠いし解散しようか、となったところで、真澄は私へと向き直った。至近距離で久しぶりに見る、真澄の目。心臓の、高鳴る音。


「今度の日曜日、星空を見に行きませんか」


   ◆ ◆ ◆


 スマホから流れるアラーム。そしてばらばらばら、と雨粒が窓を叩く音で、私は目を覚ました。

 天体観測、決行日。真澄から提案された、流星群の見える日……異常に発達した低気圧が、日本を横断していた。今夜はダメそう、とニュースでも天気予報士が言っていたけれど、残念ながら予報は当たってしまったようだった。カーテンを少し開けてみたけれど、街灯の明かり以外は真っ暗で、ほとんど何も見えない。

 ここまで暗い上に雨風が強いと、星を見るどころではない。

 真澄に残念だったね、とでも送っておこうか……とスマホを手に取って、私は自分の目を疑った。


『河川敷で待ってるね』


 彼女からの、メッセージの受信。

 まさか……と思った。でも、真澄ならありえるかも、とも思った。

 この大雨の中を……彼女はよりによって、河川敷まで歩いて行った。怖くなって電話をかけたけれど、反応はなかった。不安が、心の中を支配していく。

 大きく、深呼吸をした。あの時の真澄の瞳が、頭の中に浮かんだ。


「……いってきます」


 レインコートを着込み、私は意を決して外へと飛び出した。

 河川敷までの道はわかっている。大きな雨粒が私の体にぶつかるけれど、真澄も同じ雨を浴びていると思えば気にはならなかった。

 思い出すのは、中学の時に調べた郷土史に載っていた昔話……「大雨の日は川に近づいてはいけない、蛇神様につれていかれるから」。なんのことはない、増水した川に近づいた人間が濁流に飲み込まれて行方不明になった、というだけの話だとは思うけれど……真澄を、連れ去られるわけにはいかなかった。

 真澄。私の友達。私のせいで疎遠になっていたけれど、ようやくまた話ができるかもって思えた、大好きな女の子。

 お気に入りのスニーカーは水浸しだけど、スマホもダメになってそうだけど、けれどそれでも、真澄が無事ならそれでいい。彼女の顔を見たい。

 角を曲がると、視界が開ける。

 河川敷の土手を少し降りたところに……彼女は、いた。

 

「真澄!」

 

 必死になって私は叫ぶ。

 私に気づいた彼女は、いつものように笑った。


「こんばんは、らっこちゃん。星がきれいだね」

「ばかっ……星なんて、見える、わけ……」


 息を切らしながら彼女に駆け寄り……気づいた私は、歩みを止めた。

 雨が、止んでいる。

 そんなわけがない。さっきの角を曲がるまでは、嵐が私に襲いかかってきていたはずだった。

 確かめようと、空を見上げる。


「ほら。まるで星の嵐みたい」


 流星が、降り注いでいた。


「今年の流星群は、絶対きれいだって思ったから……らっこちゃんにも、見せたかったんだ」


 理解が追い付いていなかった。

 星がきれいなのは私にもわかっている。

 問題は、どうしてここだけ雨が降っていないのか。

 台風の目? この豪雨が台風なら可能性はあるけれど、低気圧は列島全体を覆っていたはずだ。

 前線が移動した? さっきまではあんなに激しく降っていたのに、そんなに急に……?


「ねえ、らっこちゃん」

「……な、なに」

「私はね、らっこちゃんが好き」

「え……」


 星空の下。真澄は急にそんなことを言い出した。


「昔のポニーテールもかわいかったし、今のボブカットもすっごい似合ってる。指も脚も細くてきれいでね。私より背が低いとこも、かわいいなーって」


 笑いながら真澄は、指を折り私の好きだというところを挙げていく。なんなんだろう、これは。もしかして私は、夢でも見ているんだろうか。


「ふふ、やっぱり気づいてなかった。らっこちゃんはきっと、私を救ってくれたことも気づいてないんだろうね。そんなとこも、やっぱり好き」

「わ……私は」

「だからね、らっこちゃん」


 私が喉の奥から気持ちを引きずり出す前に、真澄は私に抱き着いてきた。背の高い彼女に押される形で、私は……乾いた草むらに、倒れ込む。ほんの少しの雨の匂いと、近くで感じる真澄の匂い。

 真澄の憂いを帯びた瞳が、私を見つめていた。


「らっこちゃんのこと、攫いたくなっちゃったんだ」


 星空が消える。ああ、雲に覆われて隠れたのだ、と気づく前に、私の頬を雨粒が叩く。星明りもなくなり、ざあざあごうごうという音と、真澄の顔も見えないほどの闇に五感を支配されそうになる。

 それでも確かに、私の上には真澄の重みがあった。雨風のせいか、少し、息苦しい。


「ます、み……」

「ごめんね。気持ち悪いよね。でもこれが私なの。らっこちゃんが欲しくて欲しくてたまらないの。騙すみたいでずるいよね。ごめんね……ごめん……」


 肺に酸素が入ってこない。代わりに真澄が入り込んでくるような感覚。手足が痺れていく。頭がぼーっとしてくる。

 

「らっこちゃん……好きだよ……ごめんね……」


 嵐の中で溺れるような感覚を味わいながら、私は必死になってもがいた。夢中で手を伸ばすと……真澄の顔に、右手が触れた。

 真澄の頬は濡れていた。まるで、泣いているみたいだった。


「泣かな、いでよ……ま……すみ……気持ち、悪くなん、か……ない……から……」


 もっとちゃんと、伝えたいのに。真澄の顔が見えない。舌がうまく回らない。喉がちゃんと開かない。真澄に聞こえているだろうか。伝わっているだろうか。

 伝えなきゃならない。私のせいで真澄が泣いているなんて、そんなの、だめだ。

 動かない腕に力を集中させる。手探りで真澄の首に手を回し……私は、彼女を抱きしめた。小さな声でも、届くように。


「だい、じょ、ぶ……だか、ら……いっ……しょ……」

「……らっこ、ちゃん……」


 おでこに、真澄の体温を感じて。

 唇に柔らかい温度が触れて、ゆっくりと息が流し込まれて。

 私の体は、ふわり、と宙に浮いた……ような気がした。



   ◆ ◆ ◆


 夏休み最終日、真夜中。

 雨上がりの河川敷を、私は再び訪れていた。

 あの星の降った夜……気がつくと私は、びしょ濡れかつ泥まみれの状態で一人、河川敷に転がって朝日を浴びていた。

 もちろん、両親にはこっぴどく怒られた。大雨の中を一人で飛び出した挙句、川に飲み込まれた……ような状態で発見されたのだから、当たり前といえば当たり前だった。

 真澄は、どこにもいなかった。

 送ったメッセージは既読すら付かなかったし、通話も繋がらない。よく考えれば、家の場所だって聞いていなかった。

 ひょっとしたら……と思ってこうして河川敷に来てみたものの、やっぱり真澄の姿はなかった。

 明日、教室に彼女はいるだろうか。

 ……いてもらわなくては困る。言いたいことは、山ほどあるのだ。

 一方的に自分の好意をぶつけるだけぶつけておいて、私の答えを聞く前にそれじゃさよなら、なんて、許すわけにはいかない。


「……私のファーストキス奪っといて、逃げられるなんて思うなよ。私を泡にしたくなかったら、ちゃんともっかい気持ちを聞かせること!」


 人気のない川に向かって、私は叫ぶ。叫んで恥ずかしくなって、元来た道を駆けていく。

 黙って姿を消した人魚姫に、好きだよって言うために。明日、私は制服に袖を通す。

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