青春ブタ野郎は思春期症候群の音を聞く。

井守千尋

Calling Me.

 海と空に囲まれた、神奈川県のある街に春太は育った。遊び場はいつも砂浜で、波の音がかかせないBGMだった。一緒に遊ぶ美冬は、幼稚園に入る前からの仲良しだった。目の大きな巻き毛の女の子とは、たった一つの不思議な思い出が残るだけ。高校2年生になった今でも、その出来事を思い出す。約束の夏は、もうすぐそこに迫っていた。


「最近、毎日海に行っているんだって?」

「どうだっていいだろ」

期末テストが終わり、夏休みを待つこの時期高校生は誰もが浮かれていて、放課後は引き寄せられるように七里ヶ浜に向かっていった。制服が波飛沫に濡れることも気にせず、真夏の太陽に焼かれる少年少女は青春を謳歌していた。春太はただ、七里ヶ浜が一望できる国道沿いの駐車場で、日が暮れるまでのおよそ4時間、人影を探しながら無為な時を過ごしている。

「変なヤツだ、って思われるぞ。クラスの女子の制服が透けるのを待っているんじゃないか、みたいな」

「誰かがそれを言っていたのか?」

「いや、俺が考えた」

「昌明はスケベだな」

中学の頃からつるんでいるマサアキは春太の数少ない友人だが、そのマサアキにも美冬のことは教えていない。10年前、病気を治すために湘南を離れた女の子の話。一回だけ届いた手紙。そして、再会の日が近づいているという、美冬に関するすべてのことを。


 春太と美冬が小学生になった直後、2人はちょっとした冒険をした。小学校のある稲村ヶ崎から、自転車で江ノ島まで内緒の旅行だった。海で遊んでくると言って嘘をついて、買ってもらったばかりのマウンテンバイクで美冬の背中を追いかけた。江ノ島に行っての目的は稚児ヶ淵。自転車を置くと、長い石段を登り降りする。江ノ島に着いてから1時間かけて、江ノ島の裏側、太平洋を一望できる岩場に辿り着く。観光シーズンにはまだ早く、春太と美冬以外だれもいなかった。

「春太ーっ! はやくおいで!」

「はやいよお」

小学1年生でも小柄だった春太は、軽々と波に濡れた岩場を飛び越えていく美冬についていけなかった。まだ泳げなかったし、お母さんに黙って江ノ島まで来ている罪悪感もあった。美冬との間には70センチくらいの溝が開いていて、春太一人で飛び越えられないまま足踏みしていると、

「つかまって!」

小さな手のひらを伸ばしてくる。まんまるな目で、楽しい世界へ春太を連れて行ってくれるように思った。勇気を出して美冬の手を取ると、「えいっ!」とジャンプした。

 稚児ヶ淵の岩場は、七里ヶ浜では目にすることのない磯の生き物がいっぱいいた。カメノテという貝が固まっていたり、潮溜まりで泡を出すカニがいたり。つっついて遊んでいると、水平線に何か光ったのを見つける。

「なんだろう?」

「イルカじゃない? イルカだよ!」

本当にちいさな砂粒が水平線上を飛び跳ねている。でも、間違いなくイルカだった、といまでも春太は信じている。

「春太」

「何?」

「こういうの、デートっていうらしいよ」

「デート?」

「大人の人たちがね、二人で過ごすの」

それなら、うちのお母さんはお父さんとスーパーにデートに行っているってことなのかなあ、とかわいい考えをしたことを、今でも覚えている。稚児ヶ淵からの帰り道、二人とも跳ねた海水でべたべたになりながら日の傾き出した海岸線を走っていった。家が近づくと、春太の両親と、美冬の両親がそろって外で話している。一緒に居たのは、制服姿のおまわりさん。見つけた瞬間、背筋が凍りつくのがわかった。自転車を停めて、「お母さんただいま!」と言うと、いきなり頬を叩かれた。

「もう、心配させて!」

美冬も、その場で怒られている。おまわりさんは、これで問題解決とわかったのか、一礼をして居なくなった。

 別れ際、美冬が春太のところにやって来て、耳元で囁いた。

「今度は、デートしようね」

春太は身体が熱くなるのがわかった。そして、姿が見えなくなると母の胸で泣きじゃくった。

 美冬は翌日から熱を出し、肺炎となり、転校してしまう。春太のせいではないよ、と美冬の両親からは言われたが、今でも小棘のように僅かな痛みを残していた。あれからどうなったのか、ほとんどわからない。熱にうなされる美冬が春太に助けを求める夢を何度も見た。助けて。あついよ。その美冬は春太と同じ年齢に成長し続け、最後に夢見たときは中学3年生になっていた。学校でも評判のかわいい少女、長い巻き毛で、水色のカチューシャをしていた。熱で肌にべったりと汗が張り付いた中学3年生の美冬は息の多いか細い声で、「春太、助けて、会いたいよ、春太」と名前を呼んでいた。直後跳ね起きた春太は、自分でもわからないうちに涙があふれてしゃっくり上げていた。


「引きずりすぎかな、俺も」

毎年夏になると美冬の姿を求めてしまうなんて恥ずかしい話を言えるわけがなかった。

「……けて。助けて……」

ほら、幻聴のように聞こえてくる。夢にも見た美冬の声。まさか、と自分が熱中症になってしまってないか心配になった。

「助けて!」

太陽を見上げる。熱中症だったらくらっ、と来るのかもしれないが、そこまでのかんかん照りでもない。視線を浜辺に戻すと、座り込んで一人の制服姿な少女がこっちに手を伸ばしていた。

「助けてって言ってるでしょ!」

目が合った。しかし、まわりの高校生は誰一人少女に気が付かない。なんでだろう。また、目が合う。丸い目巻き毛の女の子。春太は、気が付かないうちに走り出して、その身体を抱きしめていた。

「美冬……っ!」

「……みふゆ?」

「美冬……じゃないの?」

現実に現れた妄想の美冬は、なんと美冬ではないらしい。

「私の声が聞こえたんだよね。春太」

「おう。って、どうして俺の名前を知っているの?」

「一回、私は手紙を送っているから……」

それなら春太にも覚えがある。あれは、美冬ではなかったのか。

「そうだったのか……。いきなり抱きしめてごめんなさい。あんたは誰なんだ」

「待ってました。私は叫夏きょうか。思春期症候群になった人だけに見える、叫びを伝える者です」

「思春期症候群だって? それって……」

喧騒をざざーっ、と波音がかき消した。

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