雨が好きだという彼女

天見砂月

第1話 雨と涙




 彼女は雨が好きだった。





 夏の終わり、秋霖しゅうりんがしとしとと止まない中、図書館を後にする。夕方とはいえ、雨のせいかもう外は薄暗くなっていた。教授から出されたレポート課題を黙々とこなしていたら、当初出る予定の時間よりも遅くなってしまった。来た時よりも、幾分か雨も強くなっている。




「大きめの傘を持ってきておいて正解だったな。」


 朝出た時は小雨であったため、折りたたみ傘にすべきか悩んだが、この雨の様子だと、大きめの傘にしておいて良かったと言えるだろう。



 図書館から自宅までは真っ直ぐ帰ると徒歩10分程の近さであるのだが、レポートが終わって気分が高揚していたこともあり、今日は何だか遠回りをしたい気分になって、いつもの道とは違う道で帰ることにした。大きめの傘をさしているからそこまで濡れる心配も無いし、元々雨は嫌いじゃないので、散歩がてら雨の中を歩きたくなったのだ。




 そして、自宅近くの公園にさしかかった時、やけに見覚えのあるシルエットが屋根も何も無いベンチに座っているのが見えた。思わぬことに、一瞬息が止まる。



「もしかして、あれ、璃音りのんさんか......?」


 疑うように呟いたが、自分が彼女を見間違える訳もなく、念の為、公園の入口まで近寄って見てみるが、璃音さんで間違いないようだった。


 璃音さんが中学を卒業してからは会うことも減り、現在では会話を交わすこともあまり無くなっているが、親同士の仲が良く、俺が彼女の二つ下と歳も近かったことから、所謂幼馴染のような関係だ。


 降りしきる雨の中、俯いたまま顔をあげようともしない彼女は、遠目から見ても痛々しい。見知った女性が濡れ鼠のようになっているのを放っておける筈もなく、俺は、公園の中へと足を進めた。



「傘もささないで、何してるんですか。」


 彼女に、俺は声をかける。艶のある濡羽ぬれば色の髪も、空色のワンピースも雨の前では形無しで、グシャグシャに濡れてしまっていた。



「......奏太かなたくん?」


 はじかれたように顔を上げて俺の顔を確認すると、慌ててまたすぐに俯く。その一瞬見えた彼女の表情に、どくりと胸が痛くなるが、それを表に出さないように、平然と答える。


「はい、そうですよ。......どうしたんですか、こんなところで。」


 そう尋ねると、少し押し黙った後に、おずおずと口を開いた。


「雨、好きだから。......ちょっと、濡れたくなって。」


 その言葉で、天気の中では、雨が一番好きだなと彼女が笑っていたのを思い出すが、いくら雨が好きだからといって、こんな状況でそれを言うのは些か無理があると思う。


「璃音さんが雨好きなのは知ってますよ。でも、もう十分雨は堪能したでしょ。びしょ濡れじゃないですか。」


「......。」


 黙ったままの彼女の腕を掴んで、半ば無理矢理に立たせると、傘の中にいれる。掴んだ腕が驚愕するほど冷たくて、思わず力が入る。


 一体、どれくらい雨に濡れたらこんなに冷えるんだよ、と思いつつ、相変わらず俯いたままの彼女にどう対応すべきか思案する。




 ふと、高校時代から愛用している斜め掛けのスポーツバッグの中に、雨の日は入り用だろうと一応持ってきていたタオルが入っているのを思い出し、まだ今日は未使用だから大丈夫かとそれを取り出した。



「取り敢えずこれでも使ってください。......あ、まだ一応使ってないんで。」


 遠慮してか受け取ろうとしない彼女の頭にそれを被せると、か細い声でありがとうと呟き、大人しくそれで顔を拭い始めた。


 一瞬しか顔は見なかったけど、腫れぼったい目で苦しそうな表情をしていて、やけに目に焼き付いた。雨で濡れていてわかりにくくはなっていたけれど、確かに泣いているように見えたから。



「泣いてたんですか?」


「......泣いてないよ。」


 声は微かに震えていた。

 泣いているかどうかくらいお見通しだったけど、彼女の痩せ我慢に付き合って、気づかないフリをした。



「そっか。ほら、雨強くなってきたし、帰りましょう。家も近いし、送って行きますから。」



「ごめんね。」


 まだ彼女の声は震えていた。涙混じりの声に、その細い腕を引き寄せてかき抱きたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて、そっと彼女の頭に手を乗せた。


 気にしないでください、と告げると彼女の頭から手を離して、背中に手を回し、ゆっくりと押しながら歩くように誘導する。



 思えば、雨の日に泣いている彼女を見たのはこれが初めてだった。





 記憶の中の彼女は、雨の日にはいつも嬉しそうに笑っていたから。

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