あやしきは

澄可 かぐや

文充つるとき

「こんにちは、あきちゃんっていうの?」

「…ちがう。あきうっていう」

「あきう?じゃあ、あきでいいよー」

「…あきうだもん」

「ぼくはりつきだよ、りつでいいよ!」

「…。」

「ねーこんどね、ぼくいもうとがうまれるんだって」

「…よくないもん、せっかくおとうさんとおかあさんにもらったなまえなのに!なのに…」



「…ねえ、なんで僕よりあきのほうがお姉ちゃんみたいになってるの?」

「あー」

「少なくとも君はね、ういちゃんのお姉さんではない。お兄さんだよ」

「にー」

「…ういはかわいい」

「そうだね」



「…今度さ、生まれるんだって、いもうと」

「…よくないもん!っていえばいい?」

「わたしもういらないかな。でもおかあさんとこ、いけるかな…」

「ほんとに僕の話聞かないよね、まあそのときはうちにくればいいよ」

「はっ、それはういちゃんのお姉ちゃんになれるんだね!」

「なんでうれしそうなんだ…」



「ねえ、あのね、ふみぃがかわいくてねえ」

「…うん」

「ほっぺたふわふわ~」

「それ昨日も聞いたよ…僕心配しなくてよかったね」

「え?心配していたの?何を?」

「なんでそういうとこはわかってないの」



「今度さ、あずみちゃんに子供生まれるって」

「へえ~どっち?」

「男の子か女の子かってこと?」

「そう、それ」

「男の子らしいよ」

「よかったね…男の子増えたね」

「どういうこと?」

「りつ男の子一人でしょ、だから」



「ねえ、かわいい。かわいいよ。この子は女の子か」

「赤ちゃんはみんな同じ顔に見えるよ」

「りつにはりかいりょくが足りないな」

「それはたしかにあきには負けるよ…」

「で、名前なんだっけ?」

「そうしくんだよ。名前は覚えてないの」



「よう、君が新入りか。私の名はあきゆという」

「あきーおはようー。」

「りつ、今のやり直し」

「え?なにが?」

「せっかく新入りにあきゆと呼ばせようと思ったのに!」

「別にいいよーながたかくんだっけ」

「うるさい、あきとかいうやつ、だまれ」

「口をわきまえなさい」

「うるさいうるさい!」

「ふたりとも落ち着いてー」



「この子がそうしだっけ?」

「それはぼくだよ!」

「あき、年が下のほうがさとしくんだよ…」

「あれ、そうだっけ」

「あかちゃんとまちがえないで」

「ごめんね~」

「名前似てるよね、双子みたい」

「にてるっていうな!」



「えっあの人誰?」

「…」

「あき姉、あれはかみさまだよ」

「え?聞き間違いかな」

「かみさまだよ」

「りつ、どういうこと?」

「ういに聞いて…」



「ねえ、もう私達高校生になったんだね」







四歳の時、僕らは出会った。僕にとっては友達ができるからうれしかった。でも彼女は四歳の身体にいろいろなものを背負って、僕と出会った。もうずっと彼女のことは「あき」とよんでいる。最初に「あきゆ」がいいと言われたのに、今になってもずっと彼女は僕の中で「あき」のままだ。一回くらいは「あきゆ」と呼び掛けてみようかなんて何度か思ったけれど、きっと彼女も「あき」であることに慣れすぎて気づかないかもしれないし、驚くかもしれないなんて、思っている。






「今日のテストどうだった?」

帰り道で僕は問う。

「理解力の天才の私には楽勝でしたよ、国語は。」

つまり、国語以外はたぶんよくはなかったのだろう。それでも僕よりは良いだろうけど。

「今失礼なこと考えていましたね…」

ごめん、と僕は言って、それから、音楽が五教科の中に入っていればいいのに…とつぶやく

「そうしたら絶対に私は勝てないな」

「あ、じゃあまた明日ね」

うん。僕は、玄関の扉を開ける。左を見ると、彼女と目が合った。扉の先に壁もリビング廊下もない。広がっているのは日本庭園。僕らはたった今隣り合う現代的な一戸建ての玄関の扉を開けたはず。でも、これは…?なんて、別に不思議の国に迷い込んだわけじゃないし、異世界に冒険に来たわけでもない。

僕らはただのお隣さん、じゃない。ただの、というかそもそもお隣さんでもない。一緒に、同じ家に住んでいるのだ。これは同棲とか兄弟とか、再婚とかそういう物語になりそうな話でもなくて、いわゆる古いしきたりみたいなものだ。親戚同士で同じ家に住んでいるというだけ。それもかなり広くて古い由緒正しい感じの家に。


高校に入学してから三日目。それでもこの不思議な仕組みにまだ飽きないのか、玄関を入ってから必ずこちらを見てくる。そんなに面白いかなあ、と僕は思うけど、彼女が楽しいならまあそれでいい。確かに中学生の時よりすごくいい感じの家になっているしね。

陽典〈あきふみ〉さんと杏澄〈あずみ〉ちゃんのおかげで僕らの家は隣り合う二つの家に見えている。陽典あきふみというのは僕のおじいさんの兄弟で、杏澄あずみは僕の叔母さんだ。つまり、違う玄関に入っていくように見えるけど、本当はそれは大きい門をくぐっただけ。大きい門の先に広い日本庭園があって、縁側がある。玄関は別のほうにあるけど、面倒だからこっちから帰る。


これは本当に、不思議の国でも異世界でもなく、外国にいるのでもなくて、ましてや魔法の国に迷い込んだのでもない。れっきとした本当の現実のお話。日本のある場所で僕らは存在している。ただ一人の人間として生きているけれど、ほかの人よりすこしだけ不思議なことを知っているだけ。寿命だって長いわけじゃないし、裏で世界を操っているわけでもない。

もしかしたら近くにいても、君は気づいていないだけかもしれないね。目に見えるものしか信じない現代社会で、君は目に見えないものは信じない人になる?本当は、目に見えないものにこそ大事なものがあふれていることを、僕は知っているつもりだ。あるはずのないものを想像して夢見ても、「意味がない」とわかったように言う大人たち。でもいずれ高校生から大学生や、社会人になっていくにつれて、きっと僕の周りもそんな風になっていくだろう。それは本当は悲しいことだと思う。だから僕の話を夢だとか意味がないとか、嘘だから信じないとか、そう思わずに聞いてほしいと思うんだ。純粋な気持ちで、あるとかないとかにこだわらずそういうものだと思って聞いてほしい。


あ、ちなみにぼくが音楽が得意っていうのはさっきあきとしゃべっていたからわかるね。高校生の天才ピアニスト!とかではないよ。ピアノは弾けないけど、笛を吹いたり歌を歌ったりするのが好きなんだ。これも少し不思議なことだけど、もう少しあとで聞いてもらおうかな。

「ただいまー!」

「おかえりー!!」

にぎやかな声がいくつか返ってくる。

一番元気なのは、あきの妹、史紬〈ふみづ〉。

その次が、いや、その次以降はほとんど同列かな。聞こえてきたのは僕のいとこたちの声。

一番年上が長鷹〈ながたか〉。それと聡梓〈そうし〉と聡志〈さとし〉。あとは僕の妹の羽依願〈ういね〉。

ちなみに僕は律玘〈りつき〉。そして、先ほどからにこにこして僕の隣にいるのがあき、本当の名前は秌諭〈あきゆ〉。

ああ、あきの漢字は小学生が間違えた漢字じゃないからね。「秌」は秋の異体字。漢字見ただけだと、福沢諭吉みたいで、男の子かと勘違いされそうだなって僕は思うんだけどね。聡梓そうし聡志さとしは双子じゃなくて兄弟で、あきは今でもたまにどっちがどっちだか名前が覚えていられないらしい。漢字で覚えようとするからいけないんだと思う。難しそうな名前が多いのは昔からある家だから、何かを神に問うたり、おじいさんやおばあさんが意味も考えてつけてくれたそうで、意味も聞いたんだけど僕はうっすら思い出せる程度だ。命名方法について詳しく聞いたことはない。


ここにいる僕らはみんな血が繋がってる親戚同士で、今この家に子供は僕も含めて七人いる。男子が四人と女子が三人。あとはかみが一人…一柱って言ったほうがいいのかな。かみは歳が分からないけど、おじいさんみたいで、子供みたいなところもある。だから子供は八人、と言ったほうがいい。下手したら、今年三歳の聡志さとしよりも好奇心旺盛だ。かみのことはうい―僕の妹―が呼び出した。大事なのは、ういが依り代になったのではなく、呼び出した、ということだ。ういはたぶん一番不思議なことに精通しているし、当たり前に馴染んでいる。かみと普通に会話していた日は、だいぶ驚いた。理解力があるあきでも驚いていた。理解するどころか頭が追い付かなかったんだろうな。


を今、子やと思ったな」

ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけどな。彼とは喋らなくても会話ができてしまう。変なこと考えたら怒られそうだ。

「現世は何時いつ居ても面白いな。言葉も服も変わっている。の制服とやらの方が動き易そうだ。吾に貸してくれないか」

はい。僕はゆっくり一周回って見せた。

「成程」

彼はぱっとブレザーに着替えた。ちなみに彼はかみだから、一度見れば着たことのない服でも自分で着ることができる。視覚でとらえて何かするそうだ。僕とあきが通っている高校は、ブレザーの制服で、そこそこ新しいデザインだと思っている。和紅館高校わこうかんこうこうという名前で特別な学校ではなく、どこにでもある普通の学校だ。もちろん、クラスメイトだって僕たちが不思議なことと馴染みがあるなんて、知る由もない。僕の話を聞いてくれる君と同じだ。


「ねえねえかみー!これ読んで!」

元気で好奇心に満ちた声はふみちゃん―あきの妹―だ。手に持っているのはざら紙よりも質の悪そうな紙切れである。

「うむ、の書は何時のものだ?」

「忘れた」

には此の文字は読めぬぞ。恐らく羽依願ういねに呼ばれる少し前のものだろう」

「じゃあかみよりふみのほうが偉いんだね!かみが読めないものを読めるから」

「認めざるを得ん。読み方を教えてくれないか」

「いいよー」

彼女はまるでお母さんに絵本の読み聞かせをせがんでいるように見えるが、それは絵本ではなく古文書であり、かつ彼女はまだ小学三年生なのだ。

これも彼女の不思議なこと…というよりは才能なのだが、知恵と文字に対して優れた能力を持っている。

ああ、まだ話していなかったね。僕は彼女と同じようにある才能みたいなものがあって、音楽が得意だし、とても細かい細工もこなすことができる。でも、これは音楽の授業とか美術の授業で少し役に立つくらいだから、正直ふみちゃんのほうがいいなってたまに思ったりもする。

もうわかると思うけど、僕らはそれぞれに少しずつ不思議なことを知っていて、少しだけ他人とちがう能力があったり、他人よりとびぬけた能力があったりする。

ういがかみを呼び出したのもそのひとつだ。陽典あきふみさんや杏澄あずみちゃんのもそう。

何で僕らが一緒に住んでいるかも、よくある話だ。少しだけ他人と違うから、その秘密を共有するため、助け合うため一族でまとまっている…というファンタジーで出てきそうなことだね。

「おかえり、新高校一年生たち」

陽典あきふみさんだ。陽典あきふみさんはふみちゃんとあきの父だ。

「あ、お父さん!あのね、かみより私のほうが偉いんだよ!」

「そうか、なんでだ?」

「これ、読めるから!」

「さすがだな、ふみは。でもかみさまに失礼なことは言っちゃいけないぞ」

「はーい…」

ふみちゃん、一応かみはかみさまだからね。ちゃんと敬わないとね。

「今、お主、一応と言うたな」

あ、ごめんなさい。僕も失礼か。

「ああ、そうだ。二人とも、夕餉ゆうげの前に伊紀このきさんのところに行きなさい。呼んでいたから」

僕とあきのことか。二人で顔を見合わせた。伊紀〈このき〉おじいさんが呼ぶなんて珍しい。うちでは母や父は続柄で呼ぶけれど、おじいさんのことは名前で呼ぶ。そうしないと、結構な大家族だからわからなくなるんだ。

好奇心の塊のふみちゃんがこちらをみている。別に悪いことしたわけでもないんだけどな。

「なにしたの?壺でも割った?」

聞かれるのは想定済み。大体この家に壺なんてなかった気がするんだけど。

「ふみぃ~。来たいのはわかるけど盗み聞きとかしちゃだめだからね?」

「えー」

伊紀このきさんに怒られるよ」

「それは嫌だ」

「じゃあやめようね」

「はーい」

「じゃありつ、早めに行こう」

僕は無言でうなずいた。

もう十五年以上もここで育ってきたのだからさすがに家の構造は覚えてしまうけど、初めて入ったらたぶん迷うくらいの大きな家だ。奥のほうにある伊紀さんの部屋までは結構遠い。

なんだか隣が不思議なくらい静かだなあ。…あれ、いない?

後ろにいた。下を向いていてあきの表情が見えない。何か本当にやらかしたのかな…。

「失礼します」

畳のへりを踏まないように気を付けて歩く。

「そこに座りなさい」

いつもは優しいけどこういう話があるときは威厳のある口調になる。

「ありがとうございます」

「ふたりとも入学おめでとう。去年のうちに十五の年は迎えているけれども、高校入学というちょうどいい区切れであるから、今日にしようと思っていたのだ」

元服げんぷくに当たるから、ということでしょうか」

さすがのあきは、すぐに分かったようだった。

「そうだな。まあ私は中学校を卒業した時だったがな」

「それで、何か話ですか」

「ああ、怒られるとでも思っていたか?」

いえ、怒られるようなことは何もしていないと思いますが、と僕は答える。

「怒られるのも史紬でもないから大丈夫だ。その史紬のことなのだが…」

伊紀さんは話しだした。あきが、一瞬身を固くしたように思えた。

口伝くでんのことだ」

それは聞いたことがあるよな…と思った。

「既に、お前たちは知っているな。私たち家族が、神武じんむ天皇からの直系の子孫であること、天孫の血を受け継いだ存在であること」

「はい、何度も聞きましたから。確か…小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせわかさざきのみこと武烈ぶれつ天皇が、古事記上では継体けいたい天皇になっている他勢力から攻められ朝廷が変わろうとしていた時に、古事記には載っていない武烈ぶれつ天皇の子ども、それも息子が逃げのびて、私達につながっているという話ですね」

「そうだ。よく覚えているな」

「それがふみぃ…史紬ふみづとどのように関係があると?」

「今の内容が史紬ふみづと強い関係があるわけではない。今のは口伝くでんの一部なのだ」

あれが全てではなかったのですか、と驚きとともに僕は答えた。

「わたしも十五になるまで教えてもらえなかったのだが、それは口伝を全て伝えるのは成人してからと決まっているからだそうだ。だから今から言うことはほかの子には話してはいけないし、口伝がほかにあることも示唆してはならないよ、いいね?」

静かにうなずく。



〝このときじくかくのこのみのつたはるとき、すすむよのただひとついろしろく、それをなとそいつか、くりかへしてなほ、めのみふみにみつるもの。このながるるをしりへでしるすはまた、ふたつとひとつのなかみつるとしへとなる。さりとていつはりのこよみのみよにひとにしる。よりてしるさむ。いま、みつのももとみとそふつか、ひをいつはりのよとしとす。ますに、これ、はなつをのぞまず。〟



「どういうことかわかるか?」

伊紀このきさんが詠んだ歌のようなものとそれが書かれた書物は、どこで切るのか、どう読み解くのかさえ僕には分からない。

「これが伝わるとき…」

驚いた。あきが読めたことでもなく、読もうとしたことでもなく、その書物をすぐに隠した自分の祖父に。

「駄目だ。読まないほうがいい」

「どうしてですか、先ほど意味が分かるかと聞いたじゃないですか」

「何が起こるかわからないからだ。まあたぶんこちらは大丈夫だと思うが…」

「では見せてください。読んでいる途中です」

「いいのか?今ここで秌諭あきゆ、お前が消えても」

「消える…?」

祖父は重みをもってうなずいた。

「この書物で消えた先祖は今のところいないらしいが、書物のほうは…、だから関連しているこの口伝でさえ何があってもおかしくない」

あきが黙る。

沈黙は長く感じられた。何か、考えているようだった。

「…史紬ふみづを殺そうとしているんですか…!」

ああ、こんな時にあきはこの能力が欲しくなかったと言うんだろう。この能力がなければ彼女は今頃、

「違う。殺そうとしているわけじゃない。自分の家族を殺そうなんて思わないだろう」

「じゃあどうして」

「私だって史紬ふみづを危険な目に合わせたくない。でも、史紬が選ばれているんだ。秌諭あきゆがさっき読もうとしていたもの、あれは私の曾祖父そうそふが読み解いた」

僕らから見ると伊紀このきさんのひいおじいさんは、昔すぎて想像できない。

「曾祖父の頃まで口伝のほうは注目されていなかったのだ。ただの何か、歌ではないかと。さっき見せたのも私の曾祖父が筆をとったものだ。口伝とは別にずっと伝えられている書物があってな…それには未来のことが書いてあるらしい。長い間、そちらが注目されていたのだ」

伊紀このきさんが言うには、それは「天才殺し」とまで言われていたという。口伝のほかに伝えられてきた膨大な量の書物。その中には正確な歴史と未来を伝えるものがあり、それを読み解こうとした者は、消えた。死ぬとか殺されるのではなく「消える」。気づいた時にはそこに存在していないという。そして残されているのはその「天才殺し」の原本だけ。読み解いていた途中の資料もその人も、存在ごと姿を消す。どこに行ったかさえ分からない。もちろん遺体が残るわけでもなく、生きてどこかにいるのか死んでいるかさえ分からない。そして恐ろしいことに、徐々に周りの人はその人のことが少しずつ記憶から消えていく。生きていた時の様子も、名前もすべて。

なぜこんなことが今わかるのか、それは昔から書き継がれてきた家系図と、忘れ始めてこれはおかしいと気づいた人の日記のおかげだ。気づいたころにはすでに何人そうやって消えていたのかわからない。

ある時代には、「読み解く際に文字によって記すからいけないのではないか」、だから「記さずに」読み解こうとした。史紬のように知恵と文字に対して優れた能力に加え、すべてを覚える記憶力を持つ者によって、その書物の解読が行われた。順調に進み、最後の一文を解き終えようとしたとき彼の姿が消えたのを、彼の父も母も兄弟も見てしまった。

大抵、その書物を読み解こうとしたのは史紬と同じ能力を持つ人たちであった。その能力を僕らの家族は「神話しんわ」と呼ぶ。天の神に与えられた能力だから、神ともう一文字の漢字で表される。「神話」の能力を持った彼らはきっと多くの知識を持っていただろうし、素晴らしい発想力も知恵もあっただろう。それでも誰一人としてその書物を読み解けないどころか、消えていく。才能があればあるほど若くして消えてしまう。だから「天才殺し」なのだ。いつからか、「神話」の能力は己の身を早く滅ぼす不吉なものとなってしまっていた。だから「神話」を持った子を、「天才殺し」には近づけないように気をつけさせた。ただし、史紬ふみづを見ればわかるように、能力と共に強い好奇心を持ち合わせていた彼らは、その好奇心を向かう先を変えていくことになる。

その結果、伝えられた書物を読むことがかなわない彼らの中で史紬と同じ「神話」を持った伊紀このき曾祖父そうそふは、口伝が何か意味のあるものと考え、読み解いたのだ。

彼がやっと、正しいであろう解釈にたどり着いた。彼の先代や先々代くらい前から読み解こうとしていたものだった。

その伊紀このきの曾祖父は死ぬ前に家族を集めて伝えたそうだ。その時には中学生になったばかりの伊紀もいた。

[今はまだ、あの「天才殺し」を読むときではない―だから、それまであれは、大切にしておいてくれ。私の次に「神話」に生まれるだろう子はきっとあれを読み解ける。その条件は、あの口伝が伝えられてから一千と四百年後、だから大体、私が死んで三十五年後だろう、そしてその名に〝ふみ〟と〝つ〟の意味が入る女の子であった時、あの書物はもう天才を殺さないだろうから、あれをその子に―]

彼は悔しかっただろう。自分がその書物を読み解けないこと。読み解ける子を自分の目で見ることができないこと。そして読み解いた内容を知らないまま死んでしまうことが。

「知りたい…知りたい」

激動の時代を生き抜き、倹約家けんやくかだった曾祖父はそのように静かにつぶやいて、息を引き取った。高望みしなかった伊紀の曾祖父が口にした数少ない望みだった。

「私は、その、最後の言葉の瞬間を見ていたから、読み解かれるのを心待ちにしているところがあるのだろう。だから史紬ふみづには期待をしていたし…その分怖くもあった。今でも怖い」

「これは史紬の運命のようなものということですか」

確かに運命という言葉が一番合っているような気がした。まるで分かっているかのように史紬ふみづの母は古文書の研究家だった。今でも史紬に教えているし、それをいとも簡単に身につけていく史紬だから。僕やあきが読めない本をいとも簡単に読んでいく、五歳児の姿を今でも覚えている。

陽典さんは、知っているのですか、それに、野乃瑚ののこさんも、と僕は問う―野乃瑚〈ののこ〉さんは史紬ふみづのお母さんだ。

陽典あきふみはもちろん知っているさ。自分の最初の愛娘がそうなるとは思っていなかっただろうがな。野乃瑚ののこは、陽典が話していれば知っているだろうが…どうだろう」

あきは唖然として言葉も出ないようだった。

「私でさえ史紬ふみづを殺したいわけでもないのに、陽典あきふみは、それこそ自分が殺されるかもしれない役目を変わってやりたいところだろう。でも、史紬を逃したら、多分…いや、絶対に読み解かれることはないだろうことは陽典もわかっているはずだ。有益どころかまた、『天才殺し』に戻ってしまう」

「……そうやって、一般の人や、多くの人や、家族の利害のために、誰か一人を犠牲にするところは、変わらない…。結局誰かが犠牲になるのならそんなもの読み解かなくていい。…未来なんて知って何が変わるんですか、周りの人の自己満足じゃないですか。…ふみぃにそんなもの押し付けないでください!」

言い放つと、あきは礼儀も何も関係なく、障子戸を叩きつけるように開けて走り去っていってしまった。

僕と、伊紀このきさんの間になんとも言えない空気が流れる。

それでは失礼します…、と

立ち上がろうとしたその時、伊紀さんが話し出した。

「…まだ、史紬にはあの書物は渡さない。秌諭あきゆに同情したからではない。ただ、まだその時ではないからだ。口伝では、生まれてから十年くらいあとに読み解くという風になっている。だから少なくとも、秌諭にはまだ大丈夫だと言っておきなさい。それで少しは気持ちも構えておけるというものだろう。口伝の限りでは史紬が消えることは考えられないがな」

僕は静かにお辞儀をしてその場を去った。

さて、あきを探しに行かなくちゃ。たぶんどこかで隠れて泣いている気がする。あきがあんな強くものを言うことなんてほとんどない。それで言った後は、罪悪感にさいなまれている。それに加えて今回は無礼になったかもしれないと気づいてさらに罪悪感が増しているのに違いない。そもそも強く言うことに慣れてないからエネルギーを使い果たして壊れたように涙が出てくるんだろう。でも、今回のは…

「ねえあき」

「…」

やっと見つけた。よく、幼馴染だからどこにいるかわかるとかそう言った話も聞くけど、それは超能力でもない限り無理だと思う。

「まだ大丈夫だって」

「何が大丈夫だ!なんで史紬ふみづが、」

「大丈夫、口伝では消えることはないだろうって」

「そんなこと、一言も言ってなかった!」

「…全部読んだの?」

「私の、聞き取りの力を忘れたの、あんなの一回で覚えるよ」

なんで偉そうなんだ。

「なんて書いてたの」

「確かに、名前で史紬は指定されてた。それであとは詳しく歴史を調べて数値計算をしなきゃいけないからわからない」

「あきでもわからないことあるんだね」

「…わからないことだらけなのに、分かりたくないことばかり、分かるんだからどうしようもない!」

今頃、なんて言わずに多分ずっとこうやってあきは悩んでいる。普段はぼけーっとしているくらいなのに、分かりたくないことばかり分かってしまうならこんな力いらなかったって。

「史紬が読めるんだったら、読める人を消す必要なんてないんじゃないかな」

「そんなのわからないでしょ…今までが資料と人が両方消えていたなら、読み解いた資料だけ残して史紬は消えるかもしれない」

「あきだって、あの口伝を読み解いたけど消えなかったじゃない、だから大丈夫だよ」

「あれで消えた人は一人もいなかったって言ってたじゃない。消えるかもしれない、なんて私が読むのをわかってて脅したのと変わらないよ」

「…」

だめだ、こういう時あきには敵わない。理解力と頭の良さで、いろんな選択肢と考えが浮かぶあきに…不安だらけのあきの、僕は、隣にいることしかできない。何でもわかることは幸せだと思ってた。でもそんなことはなくて、分かるからこそ不安ばかり募っていく。今の状況が分かることで選択肢が増えるから、いいことも悪いことも思い浮かぶ。いいことばかり知れるわけじゃない。悪いことを知った方がつらくて影響力が大きいから、いいことなんて少数だ。

能力があるからこそ人並みどころかそれ以上に悩む。能力があったら悩まずに解決できそうだって思う人がいるかもしれないけど、能力があればこそ、大変なことなんだと思う。



「おはよう」

「おはよう~」

「おはよー」

朝は本当に眠い。ご飯食べなきゃ…

あきー今日何分に行くのー?、といつもの通り尋ねる。人任せなのはいけないなといつも思うんだけどね…。

「…」

あれ?

「あき姉起きてきてないよ」

えっ、あのあきが?っていうかさっきおはよう~って聞こえた気がしたんだけど。毎日聞いてるから空耳でも起こしたかな。

起こしに行くか…

「私が行くー!」

史紬ふみづは今日も元気だなぁ、とまるでおじいちゃんのように考えていた。廊下を猛ダッシュする音が聞こえる。などと考えていたんだけど、

「あき姉いない!」

その声が聞こえてくるまでは。

「お母さん!あき姉が消えたー!」

消えた?消え…え?寝起きで動かない頭を必死で動かす。どういうことだ、まさか、

読んだから…?口伝を読み解いたから…?

やめて、消えないでくれ、とつぶやいていた。彼女の存在も、彼女との思い出も、消えないで、と。

「ちょっと待ってお母さんも行くから」

僕も、僕も確かめないと。

朝の廊下に、走る足音が響いた。恐ろしいほど軽やかに。

「いない…」

「ほんと、まるで、さっきまでいたようにもぬけの殻ね」

さっきまで…?いたのに…?

ほんとに、本当に、消えたの?

「りつきー!もう学校行かなくていいのー?」

史紬の声が聞こえてくる。ああもうそんな時間?

僕、今日は学校休むから、と気づかないうちにつぶやいていて自分でも驚いていた。

これじゃあ入学したばかりなのに友達もできなくなるかな、なんて不安は一瞬のうちに消え去った。それより、あきが、あきがどうしているか知りたい。

「大丈夫、りつくん」

野乃瑚ののこさんに声を掛けられたけど、ちょっと一人にさせて、といって自分の部屋に戻った。

本当に、今だけでいいから、幼馴染だから居場所が分かる能力が欲しいと思った。「やっぱりここにいた」なんて言えるくらい分かればいいのに。どうしてここは、お話の中じゃなくて現実なんだ。

結局足りない頭で考えて、それでもどうしようもなくて、口伝の内容を聞いた自分も消えるかな、なんてことも少しは思い浮かんだけれど、だったらあきと同じところに行けるかもしれないし、そうしたら連れ戻せるかもしれないし、まあいいかなんて思っていた。

一つだけ思い浮かんだ、小さいころよく聞いていた僕の笛の音を聞けば気づくんじゃないかって。もし、僕のこの力に意味があるなら、気づいてほしいと思った。でも…星が見えるころになっても戻ってこなくて、そのまま考え疲れた僕は、目が覚めたら明るくて、頭が痛かった。


「今日は学校行くの」

うん、行くよ、と母からの問いに僕は答えた。

ふたりとも一緒に休むなんて心配されるか噂になるかのどちらかだ。誤解を解いておかないと…ってどうすればいいのかわからないけど。

頭が痛いまま学校に向かう。いつもはあきと一緒に出るのに、今日は一人だったからかぎりぎりに着いてしまった。教室に入るとあきの席に姿が見えた気がした。気のせいか…昨日もおはようが空耳だったし。いつも頼りすぎてたかもしれない。

それにしても今日はあきの幻影をよく見るな。頭が痛いせいだ。


なんだかんだで友達もできて、帰り道もしゃべりながら帰ってきた。あきがいないとこういう感じかぁと思いながら。

律玘りつきの家、めっちゃ新しいじゃん!いいな~俺んちぼろいからな~」

彼は入学式から話しかけてくれる、みずきくんだ。

「いやそんなことないよ、古いし」

「え、本気で言ってる?」

「あ、そっか建て替えたから新しいか。…前住んでたとこが古くてさ」

家の姿が変わって見えていることを忘れていて、とっさに取り繕った。

「じゃあな~」

「おう」

扉を開けてただいまを言う。怪しまれないように。でも隣を見てもあきはいない。

喜んでいたのにな。

だめだ、いないだけであきのことしか思いつかない。一日でどれだけ一緒にいるかが思い知らされる。


二度目のただいまを言う。

「えーあき姉いいなー!わたしも行きたい~」

ん?なんであき?っていうか電話?

「うんうん、分かったー伝えとく!じゃあね~」

ちょっと、ふみちゃんその電話、どこと話してるんだ?天国とか?いや、でも消えてるんだから天国ではないのか?

「りつき!なんで昨日学校行かなかったの!あき姉怒ってたよ」

「誰と電話してたの?」

「あき姉に決まってるよ」

「え?かみが天国にでも繋いだの?」

「え?違うよ、おうちに帰ってたの」

「…」

それは思いつかなかった。まさか家に帰っているとは…

「あき姉ぷんぷんだったよ!」

「それはごめん…っていうか電話借りていい?」

「これからあき姉出かけるって言ってたけど」

とりあえず、生きているのか、と思うとのどの奥が詰まったみたいになって、ふみちゃんには見られないように自分の部屋に走った。

勝手に涙が出てくる、心配してたのは何だったんだ…でも生きててよかった。消えてなくてよかった。消えなくて、よかった。


ということは、今日見えた幻影は本物だったってこと?いわゆる家出なのか?でもたぶん、一昨日の話のせいではあるんだろう。それでも強がってふみちゃんとも電話していたに違いないし、学校も強がって行ってたんだろう。無理しなくていいのに。


―もしかして、矛盾に気付いた?今までいくつか話におかしなところがあったって?そうか、まだ教えていなかったね。僕とあきはいとこじゃないよ。兄弟とか双子でもない。親戚だけどね。そしてふみちゃんの姉であることは本当だ。でも陽典あきふみさんにとってはふみちゃんが「最初の愛娘」だし、陽典さんは二人の父親だ。それで、あきは僕と「一緒に、同じ家に住んでいる」はずなのに、「家に帰っている」。僕の家にはいないはずなのに。これらが何を示すかというと、あきは別に父と母がいるっていうことだ。生まれた家も別にある。彼女は、能力が期待されたために、四歳で親から引き離され、この家にやってきた。いわゆる陽典さんと野乃瑚ののこさんの養子、なのだ。あきの父親が伊紀このきさんの弟であり、陽典さんの兄。だからあきもふみちゃんも僕のお母さんといとこだ。家系がとっても複雑で、僕でも上手には説明できない。あきは、親から離され、孤独になって、そのうえに期待を背負わされて、僕の住む家にやってきた。わずか四歳で。彼女のことだから、大人になるまではほぼずっと、僕の家で暮らさなければならないことも分かっていたのだろう。

だからこそ、史紬ふみづがまさに犠牲になるようなことは絶対に許せなかったはずだ。自分が大人の都合で親から引き離され、期待され、一人でつらかったのだから、妹にはそんな思いはしてほしくなかったんだと思う。誰かの都合で、「誰か一人を犠牲にすること」が。




「やったー!」

その時ふみちゃんの声が聞こえてきた。この「やったー!」は新しい本―彼女にとっては本というより古文書だが―をもらった時に叫んでいるいつものやつだ。また今度は何をもらったのやら。最近は暇していたようだから余程嬉しかったのだろうなあ。


僕の部屋より奥に大人たちの部屋がある。廊下を人が通った時、それは大抵親たちだ。

陽典あきふみ史紬ふみづは少しの間学校を休ませなさい。あれを読んでいるだろうし、そのほうが安全だろう。」

「でも、新学期が始まったばかりですよ」

「学校に行っている間に読んでいたら危ないだろう…いつ消えてもおかしくないのだから」

「わかりました…私がずっと見ています」

僕の部屋の前を伊紀このきさんと陽典さんが通ったようだった。まさか。さっきの「やったー!」は、良くなかったのでは…

彼らが通り過ぎたのを見計らって、後ろをつけていった。陽典さんが部屋に入ったのを見て、僕は何事もなかったかのように、失礼します、とつとめて冷静に声を掛けた。

「どうぞ」

それでは、突然だが聞かせてもらおうと思う。どういうことだ?

「なんで、ふみちゃんにあれを渡したのですか」と僕は問う。

「あれとは?」

「天才殺し」です、と僕は答える。僕はさっきの会話を聞いていたのだから。

少し目を見開いて、陽典さんは答えた。陽典さんは、玄関の見た目のこともそうだけど、人の心を読むこともできる。

「伊紀兄さんによるとな、今の年齢は〇歳から始まるだろう、でも昔は生まれた時に一歳だった、つまり数え年で今年彼女は十歳になる。それが、今だということだよ」

僕らに嘘をついていたということか、と思った。

「違うよ、兄さんも昨日、今日で思い出したと言っていた。数え年でなくなったのなんて、ここ数十年の話だから、曾祖父のころも数え年だったんだよ、そうすると読む年が今年になってしまう」

陽典さんは自分の子どもが、危ないことにさらされるのに、平気なんですか!

「平気なわけ…ないだろう。史紬が読み解くなら、おれがかわりに死んでもいい」

そうだ、あきには、あきに伝えてない!

「あきには、たぶん史紬から伝わっているだろう。電話で未来の書をもらえると自慢していたから」

その時、軽やかな足音がものすごいスピードで、こっちに向かってきた。

ばぁんと音を立てて右側の障子戸が開く。出かけるとは、そういうことだったか。

「父さん!どういうこと!」

「お前ら二人は考えていることは同じなんだな」

「どうして嘘ついたんですか!まだ渡さないって」

「さっき律玘りつきくんにも説明したんだけどね…」

あき、数え年のせいだって。それも、昨日、今日で気づいたんだって、だから…と僕はつづけた。

「そんなの嘘だー!」

こういう時にあきが史紬と似ているところはおかしなことだ。声の出し方とか、叫び方とか、トーンとかがすごく似ている。

「落ち着いて、秌諭あきゆ。秌諭なら分かるだろう、頭をきれいにして」

「どうやって落ち着けっていうんだ!」

僕がうたうから、だから落ち着いて。

小さいころから、あきはよく泣く。隠れて、僕の前でだけ。そんな時にいつも僕はあきのためだけにうたっていたんだよ。僕だってこの歌をあき以外のためにうたったことはない。

僕はうたう。小さいころからあきのとなりでうたってきた歌を。



八雲やくも立つ 出雲八重垣いづもやへがき 妻籠つまごみに 八重垣やへがき作る その八重垣を〟



最近は、歌の意味を知って恥ずかしくて歌えなかったけど、久しぶりにうたった。

あきはこっちを見てにこっと笑った。僕の歌で落ち着けたのなら、何よりだ。彼女は静かに目をつぶって、たぶん、頭をきれいにしている。たくさんの情報をこれから頭の中に入れることになるから。期待されてこの家に来た、と言ったが、彼女はまさに期待通り理解力は超絶したものになって、理解力を超えて未来を読めるレベルにまでなっていた。ただ、普段はわかってほしいところが分かっていなかったりするけど。あきはそれくらい力のバランスがとれていなくて、だからこそ一点集中して未来を読めるのかもしれない。でもその分、ものすごく体力を使うらしい。

「りつき、部屋に連れて行ってやってくれ」

僕があきの体を支えて、部屋まで連れていくことが恒例になっている。彼女が眠ってしまう前に、意識があるうちに。彼女が読む、理解力による未来は、読める先が短い分かなり正確だ。今まではずれたことはない。もう一人…能力として先の未来を見る人がこの家にはいるけど、見える先がかなり広い。その分先に行けば行くほど正確とは言えなくなってくる。本人曰く、いろんな未来がありえてくるらしい。そうか、別に彼に聞いてもよかったのか…なんて気づいてしまった。後で聞いてみよう。

あき、大丈夫か、と声を掛けて布団に寝かせる。

「おやすみぃ…あきゆは、みらい、ふみぃと、大きくなってたから、大丈夫……」

おやすみ。そうか、大丈夫か。ならよかった。まず今は、安心して眠れるはずだから、ゆっくりおやすみ。

あきの部屋をあとにして、それから未来を見る彼のもとへ向かう。

先枓〈さきと〉さん―彼は長鷹ながたかの父だ。僕から見たら叔父さんだ。彼が先の未来を見る能力を持っている。

少し歩いていくと目の前を歩いてきたので、声を掛けた。

「あきが、久しぶりに未来を読んだのか」

ええ、そうです。だから、気になるからふみちゃんのことを見てほしいんです、そう僕はお願いした。

「わかった、けど早くて明日だし、それまでに史紬ふみづは読み解くかもしれないよ」

それでも、いいです。と答える。

「そういえば、さっき様子を見てきたら、ものすごいスピードで紙に何か書いていたよ。よほど面白いんだろうね」

まぁふみちゃんは古文書と結婚したいって言ってたこともあったからね…

お願いします、と声を掛けて僕は部屋に戻る。


あきがまた消えていないか不安になって、あきの部屋に様子を見に行く。まだ六時過ぎだというのに、ぐっすり眠っているようだった。きっと朝まで寝ているだろう。

そろそろ、夕ご飯だ。なんだか長い一日だった気がする。でも今あきがいて、良かったと思える。ご飯は、赤飯でも炊いたのかな…ふみちゃんがあれを読み始めたし。

いつもみんなが集まる場所、夕ご飯だけは、家にいる全員が集まって食べる。今家にいるのは全部で十七人、足す一柱の恐るべき大所帯。今日はいつもよりにぎやかだ。多分…あきの本当の両親が訪ねてきているのだろう。昨日から一度あきが帰っていたから。座卓三つを囲んでみんなで食べる。もちろん襖は取り外してある。

「りつきー!手伝え!」

長鷹ながたかに呼ばれた。たかちゃんは、口は悪かったりするけど、一番やさしい、いい子だ。それに加えて運動神経が抜群だ。いいなあ。僕は、はーいと返事をして台所から料理を運ぶのを手伝った。

「史紬!早くおいでー!」

この声は野乃瑚さん。と思ったらふみちゃんはまるであの、学校の校庭によくある二宮金次郎像みたいにして廊下を歩いてきた。まあこうなることは承知済みだ。新しい書物をもらうと大抵、ふみちゃんは食事にも書物を持ってくる。下手したらお風呂にまでもっていきそうだ。でもね、食事の時読んでたら書物駄目にしそうだよね、僕もそう思うよ。だから必ず野乃瑚さんが食事の間は預かっている。野乃瑚さんしか預かれる人がいない。ふみちゃんは書物のことに関して、野乃瑚さんの言うことしか聞かないからだ。食事をとるだけ安心だけどね。もう少し大人になると、食欲より書物欲のほうがひどくなりそうでどうなることやら。

ああ、でもふみちゃんが手にしているのは「天才殺し」なのだなと思うと、僕でも恐怖が襲ってきそうだ。

あきは寝ていてあきの両親が来ているけど、それ以外はいつも通りのご飯を食べて僕は眠る。ひと時の平穏なのかもしれない。


次の日、あきも何もなかったかのように家にいて、一緒に学校に行って、帰って、夕飯を食べて、眠る。

それを三日ほど繰り返して、平穏ってこういうことなんだなって思い始めたころだった。

史紬ふみづがいない」

野乃瑚ののこさんが言い放った。

「…消えた?」

「そのうち戻ってくるだろう。たぶん、神隠しだ」

そういったのは先枓さきとさんだ。たぶん未来が見えていたのだろう。

「神隠しってまさか、戻ってこないんじゃ」

あきがまた、不安そうにしている。

「大丈夫だよ、あき。俺が見たところでは必ず帰ってくる。三日もすればね」

「本当に?」

「本当。おれだって、すぐ先のことはちゃんと正確に見えるよ」

「そう、だよね…」

あきは不安そうに僕の服をぎゅっとつかむ。

「一度、学校から家に帰ってきていたのは確認しているから、そのあと出かけたんでしょうね...」

野乃瑚さんはすぐにこの家のしくみにも順応した人だ。並大抵のことでは取り乱さないけれど、心配はもちろんしていることだろう。

「見てきたけれど、あれの原本も、本人もいなかった。史紬が望んで持って行ったと考えたほうがいいでしょう。今まで通りならあれは残っているはずですよ」

先枓さきとさんが言った。

「とりあえず、あきも、りつくんも寝なさい」

あき、大丈夫だから、寝よう?

その日は、僕から離れようとせずに寝るまで一緒にいた。


あと三日。それが不安なあきにとって、どれだけ長かったことか。学校に行くときも、帰るときもずっと僕と一緒にいるし、毎日、寝るときも隣で寝てとまで言われた。強がっているけど、あきは、いつも失うことを恐れている。自分自身が四歳の時に親から離れなければいけなかったから。

そんなに強がってても、いつか辛くなってしまうから、だから僕が隣にいるんだよ。なんてね。言ってみたかっただけだよ。

あきは珍しく授業中もぼーっとしてるくせに、友達の前では元気そうにしていて、いつも以上に僕が保護者で不安で仕方ないみたいだった。



そして、本当に三日後、ふみちゃんは帰ってきた。


本当に「帰ってきた」。玄関の扉を開けて「ただいまー」と。

不安そうにそわそわしていたあきは玄関まで走っていった。

みんな分かっていてもやっぱりびっくりしていた。だってまるで、学校から帰ってきたみたいだったから。ランドセルも背負っていたから。

「史紬、何してたの、大丈夫?」

一番、心配していただろう、野乃瑚さんが真っ先にふみちゃんのもとへ駆け寄っていった。

「かみとお出かけしてきたー」

その通り、後ろからかみが顔を出していた。本当に「神隠し」だ。かみはよく一人でいなくなるから、かみのせいで史紬がいないなんて思わなかったけど、何やってるんだ、未成年誘拐だぞ。

「誘拐とは失礼な。私はある人に史紬を会わせただけだ」

「ある人って誰です」

陽典あきふみさんが尋ねる。

「うーんそうだな、お主らでいう…武烈ぶれつ天皇の、息子だな」

「私が読んだ古文書を書いた人だってー!書いた人に会えるなんて初めてでとっても楽しかったよ!」

本当にふみちゃんは好奇心旺盛で、怖いもの知らずだなと思う。一見してそれはあきも似ていそうだけど、実はあきはふみちゃんとは正反対だ。あきはとっても心配性。

「みんな心配してたの!ちゃんと、どこに行くか言ってから行きなさい。小学校でも言われているでしょう」

あきが怒ってる。あーあ、強がってまたあとで泣くんだから。

「…ん?ってことは、もう、もしかしてふみは、あれを読み終わったの?」

あきがまた、珍しく理解力を発揮している。

「あれってどれ?…これ?もうとっくに読み終わっちゃったよ。暇だなーって思ってたらかみがいいところ連れてってやるって」

ふみちゃんが持っていたのは小学三年生の彼女が抱えるくらいの量の「天才殺し」の書物とそれを読み解いたらしき資料。伊紀このきさんと陽典あきふみさんが息をのむ。ある意味、本当に消えずに済んだことを驚いてもいるだろうし、安心しているのだろう。いつも大衆の意見を言うけれど、内心ではあきに負けず劣らず心配しているはずだから。

「面白かった!今までで一番!ねえ、あき姉とりつきが結婚するってほんと?」

一瞬みんなの顔が戸惑いに変わって、それから僕らの方を見た。ふみちゃん、そういうことは言ってはいけないと思う。例え未来のことが書いてあったとしても。それは面白くないからね。僕はとっさに、ふみちゃんの爆弾発言、ど直球の豪速球ストレートを急カーブで曲げた。

その武烈ぶれつ天皇の息子がなぜ、ふみちゃんと会うことになったのか、と僕は聞いた。

「それはな、彼が一目間近で見てみたいと申しておったからだ。『私は先の世で生まれる彼女に心を惹かれた。だから…一緒にいることは叶わなくても、一夜だけ共に遊ばせてはくれないか』とお願いされてな。それは彼の孫の口伝からも分かるだろう?史紬しか読めないようになっていたはずだからな。所謂いわゆる、二人だけの秘密、ってやつかの。まさか婿殿むこどののお願いを聞かない訳にもいかないから、史紬を連れて行ったのだ」

「ふみ、変なことされてない?」

あきが聞いた。それはそうだ、何が起きていてもおかしくはない。

「遊んだだけだよ?きれいな景色の中でお散歩したりー文章についてしゃべったりーあとはーボール投げみたいなことした!あとね、すごいって褒められた!読めたのすごいって!『お前は使命を果たしたのだな』だって!」

声真似がうまい…のだろうか

この様子ならきっと大丈夫だろう、と思った。それにしても、「使命」か。

運命ではなく、使命。

「心配するな、夫婦のちぎりを結んだりはしておらぬから。そんなこと私が許すわけがない。彼は、私の大事な娘の婿殿だからな、それともう一日は観光案内をしたな」

「ねえおなかすいたー」

いつも脈略がなく人の話を聞いていないのは、ふみちゃんもあきも同じかもしれない。

「腹も減るはずだ。天の食べ物を食べてしまうとこちらに戻るのが大変になってしまうから食べないようにと言っていたからな」

かみは意外と子供の保育に向いているのかも。

「もう夕飯はできているから、みんなで食べましょう」

野乃瑚さんが言う。

「今日のご飯なあに?」

「刺身にした。今日帰ってくるって聞いていたから。帰ってこなかったらどうしようと思ってたけれど」

「やったー!すきなやつ!」

また平穏が、戻ってきたのかもしれない。

これも多分、ほんの少しの間だけ。きっとまた何かある。でもそれが、楽しいのかもしれない。何もない味気ない平穏さは、きっと単調で、聞いている方も飽きてしまう。でも、少しでも調が変わったり、音が大きくなったり、ほかの音と和音を織りなすことで、深みと面白さが出る。僕ら家族はきっと、そういう家族なんだろう。



「ふみぃが、帰ってきて良かった…」

「そうだね、あきが元気になるなら僕もそれでいいよ」

夜、外が暗くなって、星がよく見える。


「ねえ、私も何かきっと、かみさまから、天から授けられた使命があるのかな」

「きっと、あるよ」

「ふみぃほど大きなものじゃないといいなあ」

「あきがつぶされちゃうよ、そんなに大変だと」

「でもその時は、りつがうたを歌って守ってくれるんでしょう?」

「……あのうたは、一番古い歌だと言われてる。須佐之男命すさのをのみことが詠んだ歌だ。」

「知ってるよ」

「妻に向けたうた…恋のうただってことも?」

「そうなんだ。でも私は、あのうたは大切な人を守るためのうただと思ってるよ。かきを何重にも作って、りつきが私を守ってくれているみたいだから」



本当にあきは、分かっているのか分かっていないのか、いつまで経ってもわからない。理解力はどこにお出かけしているのかな。

いつか本当に守ってあげられる時が来たら、その時、それが僕の使命だ…なんて、言えたらいいのに。きっとその時も彼女はわからないままだろうけど。








「ねえ、あきゆ―」

「なあに、りつき」

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