NebulAI.HOSXI.Fragments // 断片集

井二かける

スタートライン

 二三三〇年八月七日



 ハリマ熱病事件の余韻が冷めぬまま、時は過ぎ、暦の上では立秋を迎えた。誰が言い出したのかは分からないが、これが秋とは思えない。肌をジリジリと焼き付ける真夏の日差し。蝉の悲鳴がガラスの向こうから伝わってくるほどだった。


 首都総合病院の医師である嵯峨忠志さがただしは、相変わらず、忙しい日々を送っていた。それまでは忠志一人の部署であったが、今月の人事発令で新たに上司がやってくる。ようやく課長代行としての管理的な業務から解放されるのだと思うと、少し気が楽になった。


 忠志が部屋の掃除と模様替えをしていると、その上司がやってきた。


「さあどうぞ」


 忠志は笑顔で迎え入れる。


 彼女の白い肌、黒い髪、端正で凛々しい顔つき。その美しさは、いつ見ても息を呑むほどだ。まるでヒトのようにも見えるが、鮮やかなガーネットグリーンの瞳がそれを否定する。彼女はNebulAI、人工生命体である。


 そして、襟に輝く三つの星と、それを貫く二本のライン――その階級章が彼女が警察医務大佐であることを示していた。彼女は警察省の所属でありながら、ハリマ熱病事件の余波で、この首都総合病院に出向することになったのである。


 そう、彼女はホシ――忠志の配偶者であり、新たな上司である。



 忠志は扉を閉める。


「ホシ――ん」


 忠志が言い終わる前に、彼女は忠志の唇にを自らの唇を重ねた。


 彼女はヒトではない。だから、その唾液は少し異質な味がする。いや、自分以外のヒトの唾液の味を知っているわけではないのだが。 


――まあ、アミラーゼとか含まれて……いるわけ……ではないから……


 忠志はわずかに残った理性で、ホシを優しく押し離した。


「あ、ちょ、職場でそれは」

「三世紀前の日本ではどうだったのか知りませんが、現在の規則では禁止されていません。配偶者として当然の権利です」


 彼女はいつもの仏頂面のまま、小首を傾げ、口元を僅かに緩めた。

 そして、さらに続ける。


「会いたかった」

「僕も……だけど、記憶が正しければ、三時間前まで一緒にいたわけで」

「三時間前二十三分五十プラスマイナス五秒の別離がどれだけ苦痛だったか。まさか、苦痛をまったく感じなかったのですか?」

「いや、そういうわけでは――」

「ならば良し」


 そう言ってホシは椅子に腰掛け、満足げな表情で、背もたれに体重を預けた。


 結婚してから数ヶ月、いや、実質的には数週間。

 彼女については、まだまだ知らないことばかりだ。


 何にせよ、これが新たなスタートラインである。

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