ミシンと洋傘と手術台(短編小説)

夏村響

第1話

 学校が終わると走って帰る。

 部活に向かう生徒の群れや、仲の良い者同士で廊下に溜まって笑い合っている連中の、その脇をすり抜け家路を急ぐ。

「おう、イトシ。もう帰んのか? いつも早いなあ」

「こっち来いよ。こいつの話し、笑えるぞ」

 同じクラスの連中が手招くのを、ごめん、急ぐとだけ言って走り去る。

 無駄に喋っている時間が勿体ない。俺にはやることがあるのだから。


つくろい屋 沢口』

 看板が下がったガラス戸の前で一旦、止まる。息を整えてから、音を立てないようにそっと扉を開けた。途端に勘のいい母が怖い顔をしてこちらを睨む。

「こら、イトシ! また店から入ってきて! 家の玄関から入りなさいと何度も言っているでしょ!」

「面倒」

 一言で返して、俺はカウンター越しに怒鳴る母をやり過ごし、奥の作業場へと向かった。

 この店と俺たち家族が住む家は隣り合っていてくっついている。家の玄関から入っても、この店にも作業場にも行けるが若干遠回りになる。その数分の差が勿体ない。一分でも一秒でも早く俺は作業の続きに取り掛かりたいのだ。


 作業場の中に入ろうとして、思わず足を止めた。

 入口の壁に白い洋傘が一本、立てかけてある。

 白地に緑の糸で縁飾りが施してあるシンプルな日傘。古いものらしく縁取りは所々ほつれて、全体的に色があせていた。不本意ながら見慣れた傘だ。

 くそっと口の中で毒づいて、俺は床に鞄を放り投げる。何も見ない、知らないふりで業務用ミシンに向かおうとした、が、残念ながら知らないふりが出来なかった。

「……おい、お前。何してんだ」

 今度は俺が怒鳴る番だ。

「アイラ! 起きろ!」

「……うるさいなあ」

 部屋の真ん中にある大きな作業台の上に、不謹慎にもこの女、大の字で横たわっているのだ。今、怒らなくていつ怒る。俺は苛々と彼女に詰め寄った。

「うるさいじゃねーんだよ!」

 制服姿の姶良真理あいらまりは、不機嫌そうに呻き声をあげるとぐるりと寝返りを打つ。紺色の短いプリーツスカートから白い太腿が露わになって、俺は慌てて目を背けた。

「ば、ばか。お、お前、何してんだよ!」

「昼寝だよ、見ての通り」

「人の店の作業場で何してんだって言ってんだよ。だいたい不法侵入だぞ」

「おばさんには許可を得て入ってるもん」

「……とにかく起きろ。神聖な作業台の上に寝んな。そこは布を裁断する場所だ。怠け者の昼寝の場所じゃねえ」

「ここ、寝心地がいいんだよねえ」

 アイラはどこ吹く風で、寝転んだまま大きく伸びをする。

「手術台ってこんな感じって知ってた?」

「し、知るか、ボケ」

 不覚にも俺は少したじろいでしまった。

 じっとこちらをみつめるアイラを無視して、慌ててミシンに向かう。戸棚に手を伸ばし、作りかけの帽子を引っ張り出した。もう履かなくなった古いジーパンを解いて帽子にリフォームしている途中なのだ。後もう少しで出来上がる。

 ええっと、どこまでやったけ。つばの周囲にステッチをかけて……。

「ねえ、イトシ」

「……あ?」

「あたし、もうすぐ死んじゃうんだよ」

「そうか」

「そうか、だけ?」

「人は誰でも死ぬから安心しろ」

「そうか」

 からからとアイラは笑う。

 その笑い声がミシンの音と重なって、意外にも心地いい響きとなった。


 アイラと俺は同じ高校に通う同級生だ。と、言っても彼女は半年ほど前に、空き家だった向かいの家に家族ぐるみで引っ越してきた転校生。ここに来る前のことは何も知らない。だから、彼女が高校に転入してすぐに不登校になってしまった理由も知らないし、知りたいとも思わない。

 ただ先生の奥歯にものの挟まったようなはっきりしない説明や教室に無責任に漂う噂なんかでは、アイラは深刻な病気ということになっていた。最初は、可哀そうだねとみんな、アイラの不登校をおおらかに受け取っていたのだが、しかし、彼女は学校には来ないくせに何故か制服姿で、例の白い洋傘を得意げにさして、俺の店だけでなく、町のあちらこちらに出没するようになった。そのうち、『深刻な病』説、『アイラは可哀そう』説は影を顰め、ただのさぼり、変人、やばい奴、あるいはウツとか情緒不安定とか、そんな噂が主流になった。

 みんな、アイラを相手にしなくなった。

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