08. 第三試合 一回表


『先に守ります、泉野高校の守備を……』

 ウグイス嬢の場内アナウンスが流れる中、後攻めの泉野高ナインがそれぞれの守備位置に散っていく。先発を託された岡野も、ゆっくりとした足取りでマウンドの傾斜を登っていく。

 綺麗に均されたマウンド。誰の足跡もついていない真っ新[まっさら]なマウンドに登れるのは、後攻めの先発ピッチャーだけの特権だ。岡野は一度帽子を脱いで一礼してから、プレートに立つ。

 バックネット裏から内野スタンド、外野スタンドまでぐるりと見渡せば、人で埋め尽くされている。これだけの観衆が見守る中で野球をやるのは、生まれて初めての経験ではないだろうか。

 刹那、体が震えた。心臓がバクバクと激しく脈動して、息が苦しい。

(落ち着け……落ち着くんだ)

 岡野は懸命に自分へ言い聞かせるように心の中で繰り返す。目を瞑り、ゆっくりと深呼吸する。異様な雰囲気に呑み込まれないよう、普段のルーティーンを行う。

 吸う、吐く。吸う、吐く。……よし、何とか落ち着いてきた。

 瞼を開けると、視線の先にはどっしり腰を下ろした新藤が両手を広げて待っている。この大舞台でも新藤はいつも通りだ。その姿を見て、少し安心した。

 グラブに収めておいた白球を手に取る。新品同様の、真っ白なボール。普段の練習で触っている、汚れが染み付いて使い古されたボロボロのボールとは全然違う。その感触を楽しむように、掌の中でコロコロと弄ぶ。

 十二分に感触を確かめてから、投球練習に入る。まずは八割程度の力でストレートを投げ込む。手元から離れた白球は真っ直ぐ新藤の構えたミットの中へ吸い込まれた。感覚は、悪くない。肩の状態もまずまずといった所か。

 その後も規定の投球数に達するまで黙々と投げ込む。投球練習が終わるのを見届けた主審がプレートにかかった土をブラシ丁寧に払い、ホームプレートの方へ駆けて行く。

『一番 セカンド 中居君』

 ウグイス嬢のアナウンスが流れると、バッターズサークル付近で投球練習を見ていた中居がゆったりとした歩みでバッターボックスへ近付く。

 ヘルメットの庇に手を添えて主審に頭を下げると、中居は左打席に入って手にしていたバットを構える。

「プレイ!!」

 主審が高らかに試合開始を宣告した。直後、サイレンが球場内に鳴り響いた。

 さあ、勝負の始まりだ―――!

 岡野は一つ息を吐いてから、両腕を大きく上げる。左足を上げて一度タメを作り、そこから右腕を体の横から思い切り振り抜く。

 試合開始を告げる運命の第一球は……一度ふわりと舞い上がり、頂点に達した後は重力に逆らうことなく新藤のミットへ落ちていった。意表を突かれた中居は呆然と見送るしかなかった。

 このボールは岡野の代名詞であるスローカーブではない。名前も無い、ただの棒球だ。

「ストライク!!」

 山形[やまなり]の軌道を描いたボールはストライクゾーンのど真ん中を通過していた。主審は声を大にしてストライクとコールする。予想外の一球に球場内は大きくどよめいている。

 この奇襲作戦は、バッテリーの二人が事前に相談して決めていたことだった。

 投手の心理として、入り始めの第一球はストレートを選ぶ確率が高い。試合開始の初球から積極的に振ってくる打者が少ないのもあるが、一つ目のアウトを早く取りたい気持ちが強い。

 想定外の一球にも打席に立つ中居に表情の変化は見られない。やはり頂点を極めた大阪東雲でレギュラーを掴み取った人は違う。揺さぶりにも動じる気配は微塵も無い。

 さて、ここからだ。初手はこちらが取った。次はどう攻めるか。

 マウンド上から待っていると、新藤がサインを送ってきた。岡野はそれに頷いてから投球動作に入る。

 要求されたのは外角高めへのストレート。中居も今度はバットを出してきたが、打球は前に飛ばずバックネットに直撃する。

 カウントは二ストライク。まずは追い込んだ。それでもバッテリーは気を緩めず、テンポ良く投げ込む。

 三球目は外角低め。中居も再度打ちに来た。しかし、白球は中居から逃げるように沈んでいき、バットに当たったものの僅かに芯から外れた。打球はショート正面に転がり、それをショートが落ち着いて捌いて一アウト。

 一つ目のアウトを取れたことで、岡野は凝り固まっていた体が解れたように感じた。先頭打者を打ち取ったのもあるが、左打者を抑えたことの方が大きかった。

 昨年秋の石川県予選を終えた後、岡野は新藤から指摘されたことがあった。

 それは―――左打者の対戦成績が目に見えて悪いこと。

 早いストレートもウイニングショットと呼べる変化球も無い岡野は奪三振を望めない。そのため、制球と緩急を駆使して凡打を誘う戦法が基本となる。サイドスロー自体珍しいこともあり、右打者が相手なら詰まらせたり打ち損じさせたりで比較的抑えられることが出来た。その一方で左打者の被打率が対右と比べて明らかに悪かった。

 要因は幾つか考えられる。右打者の視点からはリリースギリギリまで腕が見えないのに対して、左打者の視点からはボールの軌道や腕の振りが見えやすいこと、左打者のインコースを攻める球種を持っていないこと、等々。

 大阪東雲はスタメン九人の内、六人が左打者という構成。左打者を如何に抑えるかが試合の鍵となる。

『二番 キャッチャー 城島君』

 二番打者の城島が右打席に立つ。直後、三塁側のアルプススタンドからブラスバンドの大合奏が湧き起こる。

 近畿勢は地理的要因から、応援に訪れる人数が圧倒的に多い。勿論一塁側のアルプススタンドには地元石川から全校生徒のみならず卒業生も加わった大応援団が陣取っているが、それでも球場全体では大阪東雲を応援する観客が多数を占めているため、若干押されている感がある。

 おいおい、完全にアウェーじゃないか……。マウンド上の岡野は心中で自嘲する。

 この異様な雰囲気に萎縮したり浮ついたりしても不思議でない状況だったが、岡野は全く場に呑まれていなかった。

(そういえば誰かが言ってたっけ。“敵方の応援は自分への応援に置き換えろ”って。正しくその通りだな)

 岡野は体育会系特有の“熱血”や“根性”といったキーワードとは対極にある性格の持ち主だった。周囲が特定の方向へ一丸となって走っていても、岡野は一人引いた所から傍観しているような人だった。“冷めている”と言えばそれまでかも知れないが、周りに流されないだけ気持ちの制御が上手いということだ。

 ゆっくり間合いを取ってから投球に入る。初球の膝元へ沈み込むシンカーを打ち上げた。小フライとなった打球は三塁ベースの横付近でサードが危なげなくキャッチした。これで二アウト。

 ここまで順調に来た。ただ、ここからが正念場だ。

『三番 センター 木村君』

 アナウンスされた直後、三塁側のアルプススタンドから大音量の黄色い歓声が上がった。アイドル顔負けのハンサムボーイがバッターズサークルから歩み寄ってくる。この木村こそ、今日最も警戒すべきバッターだ。

 総部員数二百人を超える大阪東雲において一年の夏からレギュラーに抜擢され、昨年夏にはクリーンナップの一角を任されて全国制覇にも大きく貢献した。プロのスカウトも注目しており、来年のドラフトの目玉になると期待されていた。

 大阪府予選・近畿地区予選を通じて打率六割七分、ホームラン七本と大当たり。おまけに選球眼も良く四球も選べるし三振も少ない。さらに盗塁も六つ記録しており、塁に出てからも気が抜けない。

 大歓声に背中を押されるように悠々とした足取りで左打席に入ってくる。打席に立っているだけで大打者が醸し出すオーラが全身から漂わせていた。

 木村の名前は知っていた。甲子園での活躍がテレビや新聞などで取り上げられるのを、目で見て耳で聞いていた。ただ、それはあくまで自分とは関係のないと捉えていた。地方予選で一回戦も勝てない弱小校でレギュラーにもなれてない自分が、こんな雲の上の人と同じ舞台に立つなんて有り得ないと信じて疑わなかった。そんな人物と、十数メートル挟んで今対峙している。

 正直、怖い。凡人には到底敵わない相手だと分かっている。出来ることなら勝負は避けたい。でも、後ろに控えているのは木村に勝るとも劣らない実力を有する強打者達。逃げるという選択肢は端から存在していないのだ。

 ならば……逃げられないなら玉砕覚悟で真っ向勝負するしかない。

 半ばヤケクソ気味に開き直ると、呼吸を整えて投球動作に入る。

 初球。木村の腰付近から膝元へと内に入るシンカー。これを木村は見送り、ストライク。

(……よし!)

 昨年秋に用いたフロント・ドアが決まると、岡野は内心でガッツポーズした。以前は三割程度の成功率だったが、何度も繰り返し練習を重ねて成功率を六割程度まで向上させた。ストライクゾーンの出し入れを身に着けたことで、投球の幅が広がったことになる。

 気を良くした岡野は続けて外角低めの隅を狙ってストレートを投げる。入るか入らないか際どいコースだったが、主審の腕が上がった。正直ボールと判定されても致し方ないと思っていたが、思わぬ形で追い込んだ。

 新藤がサインを出してきた。―――例のアレだ。秘密兵器を惜し気もなく投下して一気に勝負を決める算段のようだ。

 高鳴る鼓動を懸命に抑え、意識を集中させて投球動作に入る。右腕を鞭のように撓らせ、渾身の一球を放つ。

 内角高めへ来たボールに木村は打ち返すべくバットを振ってきた。刹那―――ホームベースの手前でボールが内へ切り込んできた。

 木村のバットに当たった打球は、鈍い音の後に勢いなくフラフラと舞い上がった。セカンド方向へ飛んだ飛球をキャッチすべくセカンドが走る。

 だが……思った以上に打球は伸びていく。セカンドもまだ落下地点に入れておらず、懸命に追いつこうと駆ける。宙を舞っていた白球が落ちてきたが、まだセカンドは足を止めない。

 最後の最後、一縷の望みを託してセカンドが飛び込んでグラブを伸ばしたが―――無情にも白球は芝生に落ちた。

 どん詰まりの当たりがヒットになった。その結果以上に岡野は衝撃を受けていた。

 相手の裏をかいた新球種は嵌まっていた。咄嗟に肘を畳んで合わせたが、それでも芯を外した打球は完全に殺されていた。誰もが内野フライになると思った打球がポテンヒットになったのは……スイングスピードの早さと、強引に運べるだけのパワーがあったから。これが真芯で捉えられたらどれだけの飛距離になるか……と想像しただけで背筋が凍る。

 初ヒットが出て歓喜に湧く三塁側アルプスの大声援も、岡野の耳には届いていなかった。

「しゃーないしゃーない! 切り替え、切り替え!」

 ショートから励ます声が掛かり、岡野は我に返った。そうだ、試合はまだ始まったばかりだ。一々落ち込んでいたら気が保たない。

 完全試合もノーヒットノーランも露と消えたけど、まだ完封が残っている。自分の実力を鑑みれば「何を勘違いしているんだ」と突っ込まれそうだが、発想を思い切って転換させることで気持ちを立て直すことが出来た。

 まだ続く歓声とブラスバンドの演奏で場内は盛り上がる中、四番打者の松岡が左打席に入ってくる。この松岡も一年生ながら昨年夏の大会ではベンチ入り、秋の大会からチームの四番を任された。両打ちでありながら打率六割超、ホームラン六本と当たっている。隙の見当たらない強打者で警戒が必要だ。

 俊足の木村が塁に出た。初回から積極的に走ってくることも当然考えられる。岡野はランナーを二度見て木村を牽制する。新藤も木村を警戒しているらしく、初球は外角高めに外すストレートで様子を見ることに。

 投球動作に入る。直後、新藤が腰を浮かせた。走った!岡野も思い切り外す。

 立った状態でボールを受け取った新藤が即座に二塁へ送球する。矢のような送球がノーバウンドで二塁に達したのと木村が二塁へ滑り込んだのは、ほぼ同時だった。

 かなり際どいタイミングだが、果たして判定は……!?

「―――アウト!!」

 塁審の手が上がる。その瞬間「あぁー」と落胆の溜息が球場内のあちこちから漏れる。

 ベンチへと引き揚げていくナインが目の覚める送球でピンチの芽を摘んだ新藤を称賛するが、当の本人と岡野だけは険しい顔をしていた。

 クイックモーションも上手くいった、直球も完璧なコースへ投げ切れた、捕球から送球まで無駄なく動けた、送球自体も申し分ない……これだけ好条件が揃っていたにも関わらず、紙一重の差でアウト。分かっていたつもりだが、改めて木村の実力を見せつけられた気分だ。

 表現するなら、“怪物”。その怪物を今後どうやって抑えればいいか、想像もつかなかった。

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