第16話 さよならを花束に

 ――昨日

「先輩達が出てきたらみんなで、せーのでおめでとうございますを言うのよ」と、なんだか今日のみゆきはテンション高く、それでいて威圧的だった。幼馴染みの彼女がこんなに存在感を示したことはない。キャプテンとして、この一世一代の仕事をやり遂げなければという意気込みの表れだろうか。

「「「「「はいっ、キャプテンっ!!!!」」」」」と、それに負けず劣らず、後輩達は勢いよく黄色い返事を返した。今日の勇ましいキャプテン様の姿に惚れ直したのだろう。相変わらずの光景にため息をついていると、

「はーちゃん!!!気合入ってるの?!!二年がそんな態度でどうするのよっ」と初めて聞く、幼馴染みの恐ろしげな声色にビクついた。

「ごめん。なにもそんなに怒らなくていいじゃない」小さな声で反論めいたものを返すしかないわたしに、

「はじめちゃん、ダメでしょー」ともえが小さい子を諭すかのように言ってきたのが腹に立って、そっぽを向いた。そんなわたしをまたみゆきが怒る、という芝居のような事を繰り返していたら、体育館の方がざわざわと音を立てた。


 三月一日、卒業式。揺るがないその日を、わたしは永遠に来なければいいと思いながら、ここ数ヶ月過ごした。

「そりゃ無理だろ」と、テンに毎日のようにツッコまれ、最初は反論していたけれど、一ヶ月を切る頃にはもううなだれるしかなかった。

 月先輩が学校から居なくなる。毎日のように走る姿を見ていたのに、ちょっとの時間だったけれど話もできて、そばにいたのに。思い出が何度も何度も、脳内を巡る。そして巡った分だけ時間は過ぎて、卒業式を迎えた。テニス部の先輩には申し訳ないが、わたしの目と心は、いつ体育館から月先輩が出てくるのか、そればかりに向かっていた。陸上部の部員達は、自分たちの向かい側に陣取っていて、こちらと同じように花束やプレゼントを持っていた。


 わあーっと体育館の大扉が開くと同時に、たくさんの卒業生達が笑顔を涙を交えて出てきた。大扉の外で構えていた在校生や家族やOB・OGが膨れ上がって、出てきた卒業生達を祝福した。三月だというのに、体の芯に残るような、真冬の寒さを残した空気を、一掃するかのような空間だった。みゆきが予定通りに「せーの」と掛け声をかけると、私達は自分達でもびっくりするくらいの声量で「おめでとうございます!!!」が言えた。みゆきを見るとすでに泣いていた。無事、お役目が終わって安心したのだろう。先輩達に頭をなでられていた。


「こらこらこら、先輩達を祝福しないでどうするのよ」と、もえに言われても涙が止まらないみゆき。それからはもえが取り仕切って、花束贈呈が済んだ。わたしの目はというと自分達と、その向こう側の陸上部の集団を往復していた。そして月先輩を捉えた。先輩は後輩達と先生にぐしゃぐしゃにされて、だけどうれしそうだった。そして胴上げが始まった。四回五回と宙を舞う先輩を、わたしはこれでもかっていうくらい目で追った。テニス部はまだ先輩達との会話が終わらない。そうこうしてるうちに、陸上部の団体はそこからいなくなっていった。後追いしたいくらいだったが、ここから離れるわけにもいかないし、行ってどうなるんだと虚しくなる自分だった。


 ようやく、テニス部もお別れが終わって解散となった。わたしは、ただただボーっとして学校を離れた。バスも船も優しく揺れた。優しくないのは私の中にある魔法だけかもしれない。そんな事を思いながら帰宅した。


 ――今日

 昨日の卒業式がなかったのような、さっぱりした学校にいつものように登校する。登校中、みゆきは昨日の卒業式が感動しただの、先輩達をがっかりさせないような部活にしていかなければならないだの、隙間なく話していた。たぶん聞いてたわたしは、たぶん相槌を打っていたんだと思われる。授業が終わって放課後を迎えた。何の授業があったかなんて覚えていない。でも体はいつも通りに、荷物をまとめて部室に向かった。部室に近づくと、ドアの横に何やらある。近づいてみるとそれは不審物や爆弾の類ではなくて、みゆきの荷物だった。訳が分からず部室に入ろうとしたら、ドアが開かない。鍵がかかっている。それでようやく納得がいく。みゆきは荷物を置いて鍵を取りに行ったのだ。なーんだと、一息つきながらドアを背にする。目の前に運動場、その奥に学校の校舎。広い空間に、自分一人のような気がした。冷たくて濁っていない水色の空に向かって


「月先輩」


 言葉と昨日の先輩の姿を重ねた。卒業の日に笑っていた先輩を、祝福できない自分が嫌な奴に思えて泣けてきた。ぽろり、じわ、ぽろり、その水滴はだんだんかさを増し哀歌あいかになった。


 カチャ


 え?


 突然な事に、わたしは涙を拭けないまま右を見る羽目になった。隣の部室のドアが開いていた。しまったっ。自分の部室が開かないからって、他の部室も開いてないわけじゃなかった。なんという失態!穴があったらなんてよく言うけれども、まさに今がその時だった。思考がスクランブルしていると、


「矢歌?」


 つきせんぱい??……!!!


 わたしの思考は完全に停止した。それは画面が何もなくなったわけではなく、月先輩の姿がロックされたまま止まっていた。おそらく瞳孔は開きっぱなしだろう。


 うそうそうそっ!なんで???


 空と同じ色のウエアを着た先輩が、ゆらっとこっちに近づいてくる。さっきの言葉が、聞かれていませんようにと願った。顔が変じゃないだろうか。制服はきれいだろうか。髪の毛は乱れてないだろうか。体は動かなかったが、脳みそは馬鹿みたいに焦っていた。


「あの、あの、あっ、昨日、卒業式でしたよね、どっ、どうしていらっしゃるんですか?」なぜわたしの声はかわいくないんだろう。詰まっちゃってるし、恥ずかしい。だけど、この場をなんとかしのぐにはしゃべるしかないと思ったのだ。

「忘れ物しちゃってさ、取りに来たんだ」月先輩は、たぶんいつもと同じ月先輩の声で話してくれた。

「そーなんですね。そっか、忘れ物かー。先輩でも忘れ物しちゃう事があるんですね」先輩を見られるはずもなく、斜め下を向いてしゃべった。もっと違う話題をと、頭の中で自分と格闘していると、

「さっき、どうしたの?」先輩の言葉に、固まる。はやり聞かれていたのかっ!これに返す答えを持っていない。そりゃそうだ、返ってくるはずのない言葉だったのだから。

「泣き声が聞こえたから思わず顔出したら、矢歌だったから、それで……」それ以上先輩は話さずにいた。沈黙に覆われ息が苦しい。自分から何か話さないと。焦るばかりで言葉が出てこない。たぶん「月先輩」って言った事は聞こえてないはず。泣いてる事を聞かれてるんだから、これに答えられたらオッケーだと奮い立たせる。

「あっ、昨日の卒業式の事思い出しちゃって。テニス部の先輩達が泣いてたんで、今更もらい泣き的な……」言い訳もいい加減にしろと、言葉の神様から怒られそうな気がした。

「月先輩、胴上げされてましたね。やっぱり男子がいる部活はすごいなー。女子じゃあんな事できないし、なんかうらやましいっていうか、あはははは……」よしっ、この勢いでとりあえず笑おうと決めた。そのうち誰かが来るだろう。それまでには、この状況を解決しておかないと、と焦る。

「部室、開いてなくて、みゆきが鍵を取りに行ったみたいで、帰ってくるの遅いなー。私も行ってみようかな。じゃ、先輩失礼します」そうだ、これでここから立ち去るお膳立てができた。本当は……離れたくないけど。私にしては上出来だと言い聞かせながら、足を動かそうとした。だけど、上手く動かない。なんでだろう。なんでなのよ。


「あのさ、矢歌」よくよく見ると、真剣な表情をした先輩が目の前にいた。


 近っ


 誰も見ていませんように!このままこの状態でいさせてください!それが素直な気持ちだった。立ち去りたくなんかない。先輩がこんなにも近くにいるんだから。


「誰にも言わないって約束してくれる?」まさかそんな言葉が先輩から出てくるとは思ってもみなかった。

「はっ、はいっ!」昨日の卒業式のありがとうございましたばりに声が出た。

「去年の合宿覚えてる?あの時、矢歌と走ったけものみちが忘れられないんだ。矢歌の手のぬくもりも覚えてる」二人で転んで笑った事を私も忘れるわけがない。

「そうなんですか、はあ」なるべく高ぶった気持ちをださないようにした。

「だから、大学に入っても、島へ合宿に行けるようにするから。無理かもしれないけど」段々、気落ちしているんじゃないかと思える表情の月先輩。

「そんな事心配されなくても、先輩は大学の良い環境でもっと速く走れるようになりますよ。何をおっしょるのかと思えばそんな事。あはは」なんでこんな状況になっているのか、訳が分からなかった。笑っておけばなんとかなるだろうと思った矢先、先輩がまっすぐ、この上なくまっすぐに、


「だから、僕の事忘れないで」


 完全にノックアウトだった。

 わたしの勘違いでなければ、月先輩の頬も、走った後の赤さとは違う赤色をしていた。そして後々になって思えば、二人して火を噴いている様を、水色の空は見ていたんだと思う。


「おーい」遠くから男の人の声がした。その声に振り向く月先輩。

「くそっ」月先輩にしては珍しい悪態。その原因が近づいてくる。

「あれー、島の矢歌さんじゃん。ナオマサー、告ってたの?」笑いながら歩いて来たのは先輩の同級生で、前にここでも会ったサッカー部の人だった。

「お前、サッカー部の用が済んだら、部室で待ってるって言っただろ」語気が荒々しくなった先輩を横目に、わたしはただ小さくなる呪文を唱えた。小さくなるわけないけれど。

「待ってたけど全然来ないから、心配になってさー。おかげでいいもん見れた」この人は多分、少しだけ月先輩をからかいたいだけなんだろう。そしてわたしの事も。

「何もねーよ。帰るぞ」ぶっきらぼうに言うと、月先輩は歩き始めた。

「君に朗報。ナオマサの大学はそれなりに勉強すれば入れるから、がんばっ」ばんばんとわたしは背中を叩かれ、背筋が伸びる。ぴりぴりと感触が残る。

「何言ってんだよ。進学先なんて個人が決める事だろ。矢歌にだって行きたいトコくらいもう決まってるよ」いや、決まっているような、決まっていないような。

「お前が言わないから言ってやってるんだよ。感謝しろよ。じゃね」そう言うと、おふざけ先輩は月先輩と肩を並べて去って行った。


 また、わたしは一人になった。今度こそ本当に一人っきりだと思う。そしてようやく、言えなかった言葉を口にする事ができた。

 水色の空に向かって、

「月先輩、ご卒業おめでとうございます」

 三月二日の花束を投げる。今日を、わたしは忘れない。


 つづく

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