第13話 何のテスト
十一月がさっさと終わり期末テストの時期になった。普段から授業は居眠り、宿題もろくにしないわたしにとって地獄の期間だ。とにかく出題範囲がわかっている数学を教わろうと、昼休みに野際のクラスに行った。野際の机のまわりには物理部員二人が集まっていた。その話の輪の中に入っていく。
「野際、数学教えて」遠慮なくわたしは言う。
「いいけど、いつ?」野際も慣れた言葉で返す。
「明日からテスト終わるまで部活休みだから、明日の放課後がいい」野際の予定を聞かないわたし。
「いいよ」それを含め、快く野際は返事をくれた。
予約が取れて安心したわたしは、自分のクラスに戻って午後からの授業をまた夢見心地で受けるのであった。
翌日の放課後、教室で待っていると野際がやってきた。いつもながら野際は丁寧だし我慢強い。おバカなわたしの脳みそに付き合ってくれて感謝しかない。みゆきは用事があるとかで先に帰ってしまった。野際が良いと言ってくれたので、わたしは最終の船に間に合うぎりぎりの時間まで数学を教わった。終わる間際に、
「英語はどうするの?」と野際が聞いてきた。
「もうアレは諦めた」と私は肩を落としながら言った。
「君らしいね」と野際は笑った。
「赤点じゃなければいいよ」とノートをカバンに入れながら、私は自分の志の低さに、輪をかけて肩が重くなった気がしていた。
「明日、土曜日だけど僕学校に来るよ」野際がそう言うので
「じゃ、明日も勉強教えてくれる?」と神様にお願いをしてみた。
「いいよ。じゃ明日十時くらいで」神様は笑って教室を後にした。
神様野際様の予約を取り付けわたしは、もう数学のテストが終わったかのように、意気揚々と学校を去り帰ったのだった。
*
翌日、九時頃に学校に着いた。十時にちょうどいい船なんかなかったので、早めに着いてしまった。自分の席ではなかったが、窓際の席に座った。数学は十時になったら教わることができるので、苦手な世界史の教科書を開いた。意欲は教科書を開いたとたんに散り散りになった。字という字が目にも脳にも入ってこない。ただ瞳に写りこんでいるだけの文字の羅列。自分が情けなくてたまらない。
もうどうでもよくなって、ガラスの向こうの運動場を見る。今日は野球部も練習をしていない。その代わりにちらほらとサッカー部と思われる人の姿が見える。この世の色が全部集まっているんじゃなかいと思えるくらい、その人々の服装はカラフルだった。普段サッカー部は、学校の近くの運動公園のグラウンドを利用しているので、なかなか見ることはない。だからこそ珍しく、世界史の教科書を倒したままにして、その練習着に見入っていた。
「いたいた。おはよう」爽やかに野際がやってきた。
「おはよう。今日も付き合ってくれてありがとう」わたしはさっさと世界史の教科書をカバンに突っ込む。
「構わないよ。教えるのも勉強になるし」神様の言葉は素晴らしい。
「さすがだねー。学年トップは言う事が違うよ」と数学の教科書をカバンから取り出しながらわたしはため息をつく。
「じゃ、矢歌に会いたいからって言うのは?」神様、何を言っていますの?
わたしは野際に目線を合わせる。野際はさわやかなままである。今のこの沈黙は世界史の教科書の妖精のせいなのか。何か言わなければと思えば思うほど、わたしは目線をそらすこともできないでいた。
「じゃ、昨日の復習からやろう」と野際が先にしゃべった。
「そうだね」とわたしは座りなおして、数学の教科書とノートに目を向けた。
勉強に集中していたのに、急におなかが減ってきた。時間を見ると十二時近くになっていた。おなかも空くはずだ。野際にお昼ご飯はどうするのか聞いてみると、近くのコンビニに行こうと思っていたと言った。それにわたしもついて行ってお昼ご飯を買おうと思った。野際と一緒に教室を出て、上靴から靴に履きかえ、二人で歩いて学校を出た。
コンビニの棚にはちょうど補充されたのか、たくさんの種類のお弁当が並んでいた。わたしはおにぎりセットとミックスジュースにした。その取り合わせを野際が見て、変なのと笑っていたが、わたしなりに勉強の為の糖分補給を考えて買ったので笑わないでと抗議した。野際は何を買うのかと思ったら、同じものを手にした。男子高校生には量が少なくないのか心配したが、野際は同じものを食べてみたかったと訳のわからない事を言って、そのままレジに向かった。
再び、二人で学校に戻り、教室に入ってお昼ご飯を一緒に食べた。野際と一緒にお昼ご飯を食べることになるとは思ってもみなかった。お昼ご飯の時くらい勉強とは別の話をしようと思って、野際の家族構成について聞いてみた。一人っ子でお父さんは歯科医師。お母さんは元看護士さんだけど、今は趣味が高じてパンフラワーのワークショップをしていると教えてくれた。
パンフラワーがよくわからなかったが、野際が携帯で写真を見せてくれた。色使いが淡くて繊細な花々の作品が数えきれないほどあった。野際の趣味ではないそうだが、宣伝をしろとお母さんに脅迫されて写真を保存しているらしい。成績学年トップの目の前の男子学生が、手作りのお花の写真を携帯に山ほど持っていると思うと笑えた。笑うなよと今度は野際がわたしに抗議してきた。さっきのお弁当の時のお返しだと、わたしはおなかを抱えて笑った。
「はーちゃん!」と楽しさしかなかった時間にピリオドを打つ声。
なんか。前にもこんな事がなかったかと頭痛がしてきた。教室にあーるが入ってきた。
「
「はーちゃん、勉強はおれが教えるって言ったろ」完全に物理部の先輩を無視している。
「あーる、お願いだから大きな声で言わないで」としかわたしは言えなかった。この場をおさめる魔法の言葉を探しながら。
「海阪、今日は僕が教えるから大丈夫だよ」と野際が正解だか不正解だかわからない言葉を発する。
「野際先輩、以前も言ったでしょ、はーちゃんの勉強はおれがみるって」どうやら不正解だったみたいだ。
「まあそうなんだけど、今日は矢歌に頼まれたから」もうそれ以上は言ってほしくない理由を野際はあーる向ける。
「はーちゃん、なんで先輩に頼んだんだよ!おれが教えるって前も言ったじゃん!」あーるは語気が強くなる一方だ。
なんでわたしまで怒られないといけないのか。勉強がんばったし、お昼ご飯をも楽しく食べていただけなのに。
「海阪、化学教室の掃除してきて」少しトーンを落として野際がゆっくりとあーるに言った。
そんな風にしゃべった野際を見たことがなかったので、わたしは驚いて体が固まってしまった。
「なんですか急に」とあーるもちょっと驚いた様子で言葉をこぼした。
「部長特権だよ」そう言うと、野際はあーるに手を振った。
あーるはもちろん納得はしていないが、掃除したらすぐにまたここに来ると言って教室を出ていった。あーるが出ていったとたん、野際が大笑いしていた。さっきまでの野際と、今の野際のギャップにわたしは困惑する。
「海阪、また息巻いて来たから、ちょっと意地悪言ってみたけど、本当に効くとは思わなかった。あいつもかわいいとこあるね」そう言って野際は笑いをどうにか止めようとしていた。
「野際、ごめんね。あーるは本当に悪気はないんだけど、自分のわがままをわがままと思ってないから」野際が笑ってる事が救いに思えて、それに乗じて謝っておいた。
「大丈夫。海阪の事はわかってるつもりだって前も言ったでしょ。それにまた二人っきりになれたしね」わたしの目を野際の笑った目がとらえた。
わたしはまた、目線をそらすことができずに止まってしまった。午前中にもなんかあったこの状態。そしてまたわたしの脳みそは役に立てないでいた。
「これ飲んでまた二時間くらいがんばろう」とミックスジュースの紙パックを、わたしの目の前に野際が出してきた。
わたしはうなずいてその紙パックを貰い受けて飲んだ。
「さて、海阪はどのくらいでくるかな」と楽しそうな表情の野際だったが、わたしは気が気でない。
またすぐさっきみたいに、まくし立てて来られてはたまらないと思って、野際に聞く。
「化学教室の掃除ってすぐ終わるんじゃないの?」
「昨日また爆発の実験をしててね、そのままなんだ。だから当分終わらないと思うよ」野際の言葉に、どこか計画めいたものを感じた。
「もしかしてあーるが来るってわかってた?」わたしは恐る恐る聞いてみた。
「というより、午後から部活って言っといたの」野際の笑顔の向こうに驚愕する。
「他の部員は用事あったみたいだから、彼しか今日来てないんだ。だから、散らかり放題の化学教室を、ひとりで掃除するのは一苦労だと思うよ」野際が段々怖くなってきた。
「わたし……」次の言葉が出ない。
「さあ、続きをしよう」と明るいままの野際だった。
それから本当に二時間、数学の勉強は続いた。あーるも来なかった。これ以上ここにいたら掃除を終えたあーるが来そうで、わたしは野際に今日はここまでにすると告げた。野際も、そろそろ掃除の手伝いに行くよと教室を去って行った。鬼の出ぬ間にと、わたしはバスの時刻を調べた。走ればぎりぎり間に合いそうだったので急いで教室を出た。
十二月の冷たい空気が頬や首を切った。ただ勉強をしに来ただけのはずなのに、船にゆられる自分の体が、何か別の言い表せない重いものに、支配されたのを感じたのだった。
つづく
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