人魚のカナン

東 友紀

第1話 バルノとカナン

 豊かな恵みをもたらすイェシル河を挟んで国が二つ。東岸にある広大な国エイレムと、西岸にある漁業国スィナン。

 この二つの国は古くから交易を行っている。スィナンで獲れた魚を、エイレムが買い取る。エイレム各地で採ったり交易して得た綿や香辛料や鉄などをスィナンが金を払い手に入れる。各国に手広く商売を行っているエイレムに対して、イェシル河の恵みに頼り切っているスィナンは常に搾取される側であり、エイレムが夜ごとに出す宴会船の嬌声はスィナンの国民の眠りを妨げ、大半が漁師であるかれらは、常に貧しさと屈辱感を味わっていた。


 その夜、毎度のエイレムの宴会船の騒音に眠れず、河の淵までわざわざ悪態をつきに来たバルノは、自分の小舟に子供が立っていることに気が付いた。満月と、遠くエイレムの街灯りに照らされた小舟は、ゆらゆらと揺れている。その中で子供は、小舟の動きに合わせてふらふらと身体を揺らしていた。


「おまえ、何だ?」

 己の舟にゆっくり近づきながら、バルノは口を開いた。子供が舟から落ちるのではないかと内心ひやひやしながら。

「カナン」

 子供は近づく強面のバルノに怖がりもせず、名前らしきものを紡いだ。

 月明かりに薄金色の髪が照らされている。瞳は翳っていてよく分からない。

「どこから来た?」

 カナンは無言で後方――エイレムの方、というよりは川面を指した。ように、バルノには見えた。

「……エイレムか。親は?」

 今度は黙ったまま首をかしげる。親という言葉が分からないでもあるまいに、初めて耳にした言葉のように、目を瞬かせる。

「……ひょっとして、ひとり、か?」

 嫌な予感が背中を這い上がってくるのを感じながらバルノは問うた。

 カナンと名乗った子供は大きく頷いた。


 勘弁してくれよぉ、とバルノは情けない声を上げた。子供が起きていていい時間ではない。治安はそれほど悪くもないが、だからといって子供一人を河辺に置いておくわけにもいかない。貧しい国の中、バルノも貧しかった。数年前足を傷め、生業の漁もようやく自分が食いつないでいくことが精いっぱいの生活を送っていた。

 しかしバルノは見知らぬ子供を深夜に置き去りにするほど残酷な人間でもなかったし、自分の舟に乗っている時点で自分が面倒をみなければならないとも思う世話焼きな性格でもあった。

「あー…… 今日だけ俺の家に泊まれ。明日は関所に行って親を探すぞ」

「うん」

 カナンは素直に応じた。


 カナンの手を引き、足を引きずって河辺を去るバルノの耳に、ぱしゃんと、魚のはねる音が聞こえた。それがいやに耳に残った。


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