第2話 マキ

 誠司は今年で四十六歳になる。


 営業職として長く勤務してきたが、誠実である以外に取り柄のない彼の営業スキルはけして高いほうではなく、下の年代にも次々に出世されてしまった結果、誠司はこの年齢でなお役職も与えられない平社員の地位に甘んじていた。


「甲斐性なし!」


 大学時代の同窓生であった妻からは、そんな罵声を浴びせられることもある。


 可憐で優しかった彼女も、いまでは旦那に対する失望を隠そうともしない。娘もまた妻と同じように父を見下し、軽蔑すらしているようだった。まったくもって教育の失敗だ。妻は何をしていたのか――


 そんなことを考えてしまい、誠司は自己嫌悪に頭を抱えた。


 妻の言うとおり、自分は甲斐性なしだ。会社をクビになったなどと言えば、いよいよ彼女は離婚届を持ち出してくるだろう。そうなった時、妻を引き止める言葉も資格も持ち合わせていないのだ。


「まいった」


 手元にあるのは、一枚の書類。


 解雇通告を受けたのは昨日のことで、今日から一カ月は有休消化という名目の転職活動期間だ。もちろん、妻には何も話をしていない。話せるはずがない。


 もしもクビになったことを告げれば、いよいよ離婚が現実的なものとなる。仕事を失ったうえに、家族にまで見捨てられたなら、もはや生きている意味などないではないか。


「いや、もともと生きてる意味なんかないな」


 いっそ死んでしまおうか。そうすれば、悩む必要もなくなる。


 そんなことを考えながら歩いていると、視線の先に踏切が見えた。カンカン、と耳障りな音を立てるそれに吸い込まれるように、誠司はそのまま進んだ。


 ああ、もうすぐ電車が来る。


 もういい、このまま身を投げ出してしまおう――


「大丈夫ですか?」


 唐突に声をかけられて、誠司はハッと我に返った。と同時に、電車が眼前を勢いよく通り過ぎていく。


 待て待て、自分は何をしようとしていたのだ?


 ぞっとする想像をして、身震いをする。もし呼び止められていなければ、今頃は電車に吹き飛ばされてミンチになった元人間がその辺りに転がっていたことだろう。


「べ、別に何も……」


「そうですか? 考え事をしていたように見えましたけど」


 そう言う声の主は、まだ若い女性だった。


 少女特有のかわいらしさと、大人の女性の色香の双方を併せ持つかのようなそのいで立ちに、かつての妻の姿を重ねる。顔は似ても似つかないが、なぜだろうか。雰囲気がどこか懐かしいような気がした。


 彼女の不思議そうな視線に、誠司は慌てる。


 まさか、自殺を考えていたら本当に電車に突っ込みそうになりました、などと説明できるはずもない。言い繕う代わりに、中途半端な笑みを浮かべてその場を濁そうとするが、彼女はさらに一歩踏み込んでくる。


「ダメですよ、自分から死ぬなんて」


「……」


「隠そうとしたってわかりますから」


 にこりと微笑んだ彼女は、自らを『マキ』と名乗った。県内の大学に通う学生で、文学部に所属しているのだと自己紹介をして、彼女は続ける。


「悩み事があるならお聞きしますよ? 明日も、この時間はここにいますから」


「え? きみ、ちょっと――」


「今日はアルバイトがあるので、これで失礼しますね」


 また明日、と丁寧なお辞儀とともに挨拶をしたマキは、こちらの反応を待つことなく歩き去って行く。呼び止めようと選んだ言葉は声にならず、誠司はただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。


 いったいなんだというのだ、あの娘は。

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